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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十八章 散り落ちた徒の花
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第一話

 冬将軍も遠くに過ぎ去り、江戸は桜が綻び出す季節となった。

春の柔らかい陽射しに誘われるように人々が道々に溢れ出す頃、海華は人形廻しの仕事を再開させる。

しかし、昼間は良いとしても夜の空気は今だ冷たく客の入りも少ないため、仕事に出るのは明るいうちだけだ。

この日も、仕事帰りの海華は夕餉の買い物を済ませて兄の待つ長屋へ戻る途中だった。


 焼け付くように赤く燃える夕日が西の空に沈みかけ、闇が主役に変わろうとする時間帯、人気の無い橋を渡ろうとしたその時である。

突然、左の足元からブツリと嫌な音がし、それと同時に海華の身体が思い切り前へつんのめる。

声にならない悲鳴を上げ、咄嗟に古びた木の欄干にしがみついた海華が恐る恐る足元に目を向けると、履き馴れた下駄の赤い鼻緒が無惨に断ち切れていた。


 「あー、やっぱり駄目だったわね……」


 橋桁に転がる下駄を拾い上げ、海華は大きな溜め息をつく。

修繕を繰り返しながら履き続けた下駄、何日か前に鼻緒が擦り切れそうなのを見つけたのだ。

もう少ししたら交換しよう、そう思いながら騙し騙し履いていた。

だが、もう寿命は尽きたらしい。


 「仕方ないわねぇ……」


 裸足のまま帰るわけにもいかず、海華は欄干に凭れ掛かりながら懐から手拭いを引き出す。

細く引き裂き、鼻緒をすげようというのだ。

手拭いの端を強く噛み、いざ裂こうとした時だった。


 「姉さん、どうしたんだ?」


 たった今海華が来た方向、橋の向こうから幾分低めの男らしい声が海華の鼓膜を震わせたのだ。




 日が暮れてから既に四半時余りが過ぎた。

だが、一向に海華が帰ってくる気配は無い。

痺れを切らした朱王は、空きっ腹に酒を流し込みながら妹の帰りを待っていた。


 あまりにも遅いようなら探しに行かなければ、と、朱王が思い始めた頃、立て付けの悪い戸口が軋む音を響かせながら開き出す。


 「ただいま~……」


 どこか呆けたような声色と共に、下駄を片手にぶら下げた海華が敷居を跨いだ。


 「お帰り、いつもより遅かったな。……下駄、どうしたんだ?」


 愛用の下駄を手にした妹を目の前に、怪訝そうに眉を潜めた朱王。

そんな彼に鼻緒が切れちゃった、そう返した海華は手にしていた下駄を土間に置き、畳へと上がる。

グイと酒をあおりながら、朱王は苦笑いを漏らした。


 「鼻緒が切れた? 縁起が悪いな。それで? 裸足で歩いてきたのか?」


 「ううん、新しいのを貰っちゃったの」


 嬉しそうに口元を綻ばせた海華は、兄の横へ座り込み土間を指差す。

その方向へ目を遣れば、なるほど、艶々と光沢を放つ新品の赤い鼻緒が着いた下駄が揃えて置かれていた。


 「貰ったって、どこの誰にだ?」


 不思議そうな面持ちで下駄から目を離さない朱王へ、うふふ、と含み笑いを漏らした海華は事の次第を話し始めた。

海華に声を掛けてきたのは、橋を渡ったすぐ近くの履き物屋、下橋しもはし屋の息子、慎太郎しんたろうだった。

下橋屋はそれほど大きな店ではないが、商売上手の旦那と愛想の良い女将が店を切り盛りし、良い品を扱うと、この辺りでは有名な店である。


 丸顔に二重瞼の丸い瞳、尖り気味の鼻をした年の頃二十歳後半の男が唇をつり上げて近付いてきた時は、海華も多少警戒はした。

すたすた寄ってきた男は、海華の持った下駄を見るなり『鼻緒が切れたのか』と一言。

おもむろにその下駄を海華の手から取るなり、 懐から手拭いを取り出して慣れた手つきであっと言う間に鼻緒をすげてくれたのだ。


 口にくわえていた手拭いを片手に、その様子をぽかんとした表情で見詰めていた海華は、『ほらよ』と差し出された下駄を、慌てて足に突っ掛ける。


 「あ、ありがとうございます……」


 小さく頭を下げ、海華は改めて男を見た。

濃茶色の縦縞模様の着流しを纏う男は、ニヤニ ヤと笑みを浮かべながら海華を見下ろしている。

派手めだが、きちんと身なりをした男は『なに、いいのさ』と片手を軽く振った。


 「それより姉さん、随分年季の入った下駄だがよ、それまた履く気かい?」


 はい、と答えた海華に向かい、男はひどくおかしそうにけらけらと高い笑いを放つ。


 「そんな古下駄、直した方が新品より高くつくぜ? ヒビも入ってるし歯も磨り減ってやがる。ちょうどいいや、ついて来な」


 男の言葉に、海華は怪訝そうに眉を潜めた。

夜道で見も知らぬ男にいきなり『ついてこい』と言われたのだ、警戒しないほうがおかしいだろう。

そんな彼女の様子を見た男の高らかな笑い声が既に日の暮れた暗い空に響いた。


 「心配すんなよ、おかしいことしようってんじゃない。俺ぁそこにある履き物屋の者さ」


 親指で橋の向こうを差す男、確かに近くに履き物屋があるのを海華は知っていた。

そして、半ば強引に男に店まで連れて行かれ、出されたのが件の下駄である。

代金を払うと言った海華に、男は安物だからいいと答え、結局金は受け取ってもらえなかった。


 「最初は遊び人かと思ったけど、親切な人よね。人は見掛けによらないって本当だわ」


 ウフフ、と嬉しそうに顔を綻ばせ、新品の下駄に視線を投げる。

チビチビと酒を啜る朱王は、『ふぅん』と気のない返事を返した。

僅かに頬を赤らめながらニコニコと笑いを見せる妹の様子が、どこかいつもと違うように見えたのだ。


 「貰いっぱなしじゃ悪いわよねぇ、明日にでもお礼に行かなくちゃ。ねぇ、何がいいかしら?」


 「菓子折りでいいだろ」


 「兄様随分適当ね、お菓子でもいいけど……あぁ、慎太郎さんお酒飲むのかしら?」


 あれがいいか、これにしようか、楽しそうに話す妹を面白くなさそうな顔で見遣る朱王の眉間には微かな皺が寄っていた。


 「礼なら後から考えろよ。それより早く飯にしてくれ。腹が減って仕方がない」


 「ああ、ごめんなさい! 今作るわね」


 すっかり浮かれ上がった海華が、ぴょんと立ち上がり、跳ねるような足取りで夕餉の支度に取り掛かる。

むったりとした表情を崩さないまま、朱王は新たな酒をいささか乱暴に茶碗へ注いだ。





 「海華ちゃんが男連れで歩いてたぜ!」


 今朝、番屋の前で会った留吉がやたらとニヤつきながら開口一番放った台詞だ。

曖昧な返事をしながら、その場を取り繕った朱王だったが、先月から何度同じ言葉を掛けられたか、と内心溜め息をつく。

下駄の礼を渡したその後も、海華は慎太郎と会っているようだ。

二人して茶屋で談笑していたの、芝居小屋から出てきたのと色々な目撃談が朱王の耳に入る。


 そして、長屋に帰った海華がする話しの中でも、三回に一回は慎太郎の名が出てくるのだ。

やたらと笑みを振り撒きながら、慎太郎さんがどうのこうのと喋り出したら止まらない。

正直いい気持ちはしないが、今度ばかりは余計な口出しをせずに静観しようと朱王は決めていた。


 以前、同心の高橋と海華の仲を疑い、凄まじい兄妹喧嘩をやらかしたからだ。

海華もいい年だし、簡単に男女の仲になるほど軽い女ではない。

慎太郎がまともな男であればいい、朱王の心配はそれだけだった。

しかしその思いは、この後長屋を訪れたある人物の話しによって粉々に打ち砕かれることとなる。


 春の太陽が頭上高く昇った頃、部屋で一人仕事に励む朱王のもとに一人の客が訪れる。

静かに開けられた戸口から顔を覗かせたのは、 錺物かざりもの屋の幸吉だった。


 「ああ、幸さんか。ここに来るなんて珍しいな」


 作業の手を止め、朱王は土間に立つ幸吉を部屋へ招く。

少しばかり緊張した表情をした幸吉は、招かれるまま畳へと腰を下ろした。


 「いきなり邪魔してすまねぇなぁ、仕事中だったかい?」


 「ああ、だが急ぐもんでもないからな。気にしないでくれ。」


 茶の用意をする朱王に目を向けながら、幸吉は『そうか、よかった』と小さく微笑んだ。


 「早速で悪いんだけどさ、昨日海華ちゃんが下橋屋の慎太郎と何だか楽しげに歩いてんの見たんだ。朱王さん、知ってたかい?」


「……二人でどこに行っているかは知らないが、会っているのは知っているよ」


 僅かに眉根を寄せながら、朱王は湯気の立つ湯飲みを幸吉に差し出す。

幸吉はその湯飲みに視線を落としたままだ。


 「海華ちゃんとよ、慎太郎は、その……いい仲なのか?」


 「海華から直接聞いた訳じゃないぞ。でも、頻繁に会いに行くんだから、少なくとも海華は気に入って いるんじゃないか?」


 なぜそんな事を聞くのか、そんな疑問を顔いっぱいに現した朱王が小首を傾げる。

湯飲みから視線を戻した幸吉は、酷く心配そうな表情で朱王を見詰めた。


 「朱王さん、余計な事だと思うが慎太郎は止めておいたがいいぜ。あいつはロクな男じゃねぇ」


 「ロクな男じゃない? それは、どういう事だ?」


 「女癖が悪いんだ。昔から目についた女は片っ端から手ぇ付けて、飽きたら捨てる。俺の知り合いでも、あいつに女寝盗られた奴ぁ何人もいるんだよ」


 幸吉の言葉に呆然としながら朱王は目を見開いた。

そんな彼を前に幸吉は更に続ける。


 「悪い事は言わねぇ、海華ちゃんとあの野郎は早く離した方がいいぜ、玩具にされて捨てられるだけだ」


 真剣な眼差しを向けつつ力説する幸吉は嘘出鱈目を言っているようには思えない。

ギクシャクとした動きで頷いた朱王だが、まだ頭と気持ちの整理がつかないでいた。


 「わかった、幸さんの言う事だからな……。 とにかく海華と慎太郎がどこまでの関係なのか、早速確かめてみるよ。……わざわざすまなかったな」


 「いや、いいんだ。余計なお節介かと思ったんだが、何かあってからじゃあ遅いからな。……誤解しないで欲しいんだが、海華ちゃんがどうのこうの言うつもりは無いんだぜ」


 「わかっているよ。幸さん、海華を心配してくれてるんだろ?」


 その台詞に、ほっとしたのか幸吉の表情がやっと緩む。

長屋の門まで幸吉を見送った朱王は、天を仰いで盛大な溜め息をついていた。





 幸吉が訪れた日の夜、朱王は妹を目の前に座らせて、昼間に幸吉から聞いたままの事を話して聞かせた。

すると一瞬海華の表情が凍り付き、次の瞬間、彼女は烈火のように怒り狂い始めたのだ。


 「どうしてそんな事言うのッ!? 兄様も幸吉さんも、慎太郎さんに一度も会ったこと無いくせに! 慎太郎さんは、そんな酷い人じゃないわっ!」


 「幸さんが俺達に出鱈目を言うはずないだろう! お前、あいつに騙されてるのがわからないのかッ!?」


 そんな彼女を前に思わず朱王も語気が荒くなる。

怒りに体を震わせた海華が、弾かれるように立ち上がった。


 「騙されてなんか無いっ! だって……だって慎太郎さん、あたしと一緒になりたいって言ったんだからっ!」


 「なんだと、ッッ!?」


 一緒になりたい、その言葉を耳にした途端、朱王の頭の中で何かが音を立てて切れた。

畳を蹴り上げる勢いで立ち上がり、射殺すような目付きで海華を睨み付ける。


 「一緒、一緒になりたいだって!? 何を……何をふざけたことをぬかしてやがるっ! 」


 「ふざけてなんかないわ! あたしと一緒にお店やりたいって言ってくれたんだから!」


 負けじと兄を睨み付け、海華が吼えた。

夜気がビリビリと震え、かち合った視線が火花を散らすかのように感じた。


 「なにが店だ! お前みたいな跳ねっ返りに女将なんかが勤まるかっ! 自惚れるのもいい加減にしろ、この馬鹿ッッ!」


 込み上げる怒りに任せて吐き捨てた台詞。

海華の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかり、朱王は心の中で、『しまった』と舌打ちをする。


 「酷い……酷いわ! そこまで言うことないじゃない!」


 こめかみに青筋を浮かべ、しかしどこか悲痛な表情の海華が咆哮を放つ。

指が白くなるまで握り締められた拳はぶるぶる震えていた。


 「もういいわ! あたしのことは放っておいて……! もう放っておいてよっ!」


 今にも泣き出しそうに表情を歪め、海華は敷いてあった布団に飛び込み頭から掛け布団をひっ被ってしまう。

それからは朱王がいくら怒鳴ってもなだめても完全に無視を決め込み、兄の方を振り向きもしない。

再びふつふつと煮えたぎる怒り。

筋の浮かんだ 朱王の手が、バンッッ! と畳へ叩き付けられた。


 「わかった、俺はもう何も言わん! だが、お前があいつと一緒になるのは許さんからなっ! それが嫌なら、さっさとここを出て行けっ! 後は勝手にしろっ!」


 ゴソリ……と盛り上がった継ぎ接ぎの掛け布団が揺れる。

しかし、相変わらず返事は無い。

苦虫を噛み潰したような顔で、朱王はガリガリと頭を掻きむしる。

勝手にしろ! ともう一度吐き捨てながら、妹にクルリと背を向けてしまった。


 そして作業机の前にドッカリ腰を下ろすと、その下から酒壺を引っ張り出す。

欠け茶碗に並々と酒を注ぎ、怒りと一緒に一気に飲み干した。

いつもなら五臓六腑に染み渡るはずの酒が、今日だけはちっとも旨く感じない。

何杯飲めども苛立ちは収まらず、ついに朱王は茶碗を放り出して、そのまま布団へと潜り込んでしまった。

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