第二話
兄妹が伽南の庵を訪れてから五日余りが過ぎた。伽南が調合してくれた薬と朱王の献身的な看病のおかげで海華の体調は次第に回復していった。彼女を一番悩ませていた高熱はすっかり下がったが、今度は湿った咳が病み上がりの海華を苦しめることとなる。
寝ていても、食事中でも湯浴みの最中でも……所構わずコンコンゲホゲホと肺の奥から吐き出される咳に堪りかねた彼女は、飴を舐めたりこまめに嗽をしていたが、咳は治まるどころかどんどん酷くなっていく。床については背中を丸めて激しく咳き込み、まともに眠る事もできない有様だ。
これは放っておいても改善はしないだろう、そう思ったのだろう海華は、再び伽南に助けを求めることにした。本来ならば朱王が伽南の庵まで取りに行けばいいのだが、間の悪いことに今日、彼は仕事で出掛けねばならない、しかも場所は伽南の庵と正反対である。
「お前、本当に一人で平気なのか?」
土間に降り、財布を懐に押し込む海華の背後に立った朱王は腕組みしながら彼女を見下ろす。『大丈夫よ』そう掠れた声で返事をした海華は振り向きざまにニコリと笑う。
「もう熱は下がったんだから、一人でも平気。お薬頂いたら、すぐに戻ってくるから」
「あぁ、そうしろ。気を付けていくんだぞ」
部屋の前に出て彼女を見送った朱王も、その後すぐ出掛ける支度を整えて部屋を後にする。それから一時程が過ぎ、仕事を終えた朱王が部屋に戻ると、一枚の紙切れが戸口の間に挟まっている。
なんだろう、些か不審に思いながらそれを引き抜き中を見た朱王の眉間にみるみるうちに深い皺が刻まれた。
触っただけで分かる上等な紙、なめらかな紙面には流れるような文字が走り、海華が道の途中で倒れて保護されている、といった内容が書かれている。彼女を見送るときに感じた嫌な予感が的中してしまった。
差出人を素早く確認すれば、『照月 浅黄』と記されている。こうしてはいられないとばかりに朱王は弾き飛ばさんばかり勢いで戸口を叩き開け、携えていた風呂敷包みを乱暴に部屋へ放り込むと、取る物も取り敢えず、陰間茶屋 照月へと走った。日本橋芳町にある陰間茶屋 照月は、ここら一体に十三軒ほどある陰間茶屋の中でも中規模の店であり、表向きは料理屋だが二階は陰間らが男……時には裕福な後家さんや大名の妻女がお忍びでやってくる場所である。見目麗しい美少年、そして年増だが円熟した魅力を醸し出す「終道」まで様々な年齢の陰間が揃っていると有名な店だ。
まだ日も高いゆえ、人通りはあまり多くはない。日中でもどこか気怠い、そして淫靡な気配があちこちに散らばる通りを足早に歩く朱王へすれ違う男女や店の窓から外を眺めている陰間たちは、ある者は興味津々の、そしてある者は熱の籠った眼差しを浴びせかけた。
既に三十路も近い朱王だが、容姿端麗、眉目秀麗である彼を陰間と勘違いする者も一人や二人はいるかもしれない。しかし、今の朱王には、そんな無遠慮な視線を気にしている暇はなかった。息を切らせて辿り着いた照月の玄関先に、まだ暖簾は下がっていない。黒く煤けた格子戸に手を掛け勢いよく引き開けた朱王の前には、磨き上げられ鏡面の如き輝きを放つ長い廊下と、鼓膜にしみるような静寂が広がっていた。
鼻を擽る柔らかな香の匂いは、伽南の庵で嗅いだ匂いと同じ、浅黄が纏っていたあの甘い香りだ。『ごめんください!』と大声で店の奥へと向かい呼びかければ、すぐに廊下の奥、小豆色の小さな暖簾を掻き分けて、こめかみに小さく切った膏薬を張り付けた中年女が不機嫌そのものの顔を突出す。
「はぁい、なにかご用ですか?」
横柄な返事と共に眠たげな眼を瞬かせ、こちらにやってくる女の目の前に、戸口に挟まっていた紙を突き出して、朱王は焦る気持ちを抑えるようにゴクリと唾を飲み込む。
「中西長屋の朱王と言う者です、こちらに浅黄さんはいますか? うちの妹が倒れて、ここに運ばれていると文を……」
「妹ぉ? あぁ、店の表でぶっ倒れていた娘の事かい。上にいるから、ついておいで」
酷く面倒臭そうに言いながら、女は玄関のすぐ脇にある階段へ向かう。慌てて彼女の後を追い掛け階段を上がった朱、女は二階廊下の一番奥にある部屋の障子戸の前で立ち止まった。
「浅黄! その娘の兄さんが来たよ」
廊下に突っ立ったまま、障子戸に向かいそう声を張り上げた女の目の前、真っ白な障子に薄い影が浮かび、すぐにスルスル滑るように障子が開かれる。人一人が通れるくらいの幅に開いた障子からひょいと顔を突き出したのは、高く結い上げた髪に金銀珊瑚の豪華な簪や櫛を差し、一面に煌びやかな刺繍が施された着物を纏う一人の『女』だった。
「やっと来てきくれたね。女将ありがとう。後はこっちで勝手にやるよ」
紅を塗っているのであろう艶めかしいほどに赤い唇を笑みの形に変えて、『女』は朱王へ一度目配せをして再び室内に引っ込んでしまう。女将と呼ばれた女は軽く眉を蠢かせたのみ、特に何も言う事はないまま、来た時と同様面倒臭そうに身体を揺すり、階段を下りていった。
目の前に現れた花魁かと見紛うばかりの美しい『女』、しかしここは陰間茶屋であり浅黄は陰間だったはず、そう思いながらも恐る恐る室内に足を踏み入れた朱王。日に焼け、僅かに黄ばんだ畳へ足を踏み入れた刹那、朱王の目は部屋の奥、鏡台などが置かれた部屋の左側に敷かれている粗末な布団へ釘付けとなる。
あちこち継ぎのあたった粗末な布団に寝かされているのは、間違いなく海華だった。
「海華……!」
浅黄がいるのも一瞬忘れ、布団へと駆け寄った朱王は畳に膝を付き、そこに横たわる妹の顔を覗き込む。顔色こそ若干悪いものの、スゥスゥと安らかな寝息を立てて寝入っている海華の表情は穏やかなものだった。
「安心しな、今は薬で眠っているよ。さっきまでは息するのも大変そうな咳をしていたんだけど、どうやら薬が効いたみたいだ」
「薬?」
「あぁ、賄い婆ぁさんに貰った咳止めの妙薬とやらさ。この子から住まいを聞いて、使いの者に文を頼んだのさ」
にこやかな笑みを見せて傍にあった煙草盆を引き寄せた浅黄の話を聞いていた朱王は、何度か軽く頷きつつ、ほっとした様子で海華の頭をそっと撫でる。
「すっかりお世話になってしまって、なんとお礼を言っていいか」
「なに、気にしないでおくれよ。店の前で屈み込んでいたのをたまたま見付けてね。ここら辺りは妙な……いや、おかしな連中もいるからね。大事な妹さんだ、悪さされちゃ困るだろう? それよりアンタ、朱王さんといいなすったね?」
煙管に火を付け、煤けた雁首の先から紫煙を燻らせる浅黄の問いに『はい』と短く答えた朱王は改めて居住まいを正し浅黄の前へ正座した。
「中西長屋で人形師をしている朱王です。妹を助けて頂いて……」
「止めとくれよ、そういう堅苦しいのは苦手なのさ。そうかい、朱王さんッてぇどこかで聞いたことある名だと思ったら、人形師の朱王さんだったのか。こりゃ高名なお人と知り合いになれたね」
「高名だなんて。それより、妹を助けてくれた礼を……私にできる事は限られますが、ぜひお礼をさせてください」
このまま世話になりっぱなしでは朱王の気が済まない。金でも物でも、どんな形でもいいから浅黄に礼がしたい、いや、しなければならないのだ。すると浅黄は桜色の頬に手のひらをあて、何かを考えるように小首を傾げて天井辺りに視線を走らせた後、悪戯を思いついた子供の如き表情でポンと一つ手を打つ。
「それなら、あたしの客が来るまで話し相手をしておくれよ」
「話し相手? それだけでいいのか?」
「十分だよ、朱王さんが帰っちまったら、あたし一人で暇を持て余しちまう」
唇から細く細く煙を吐き出し、『いいだろう?』と姿を作る浅黄は、そこいらにいる町娘も真っ青なほどに可憐で、そして妖艶な魅力を滲ませている。勿論朱王に断る理由は何一つない。
浅黄の申し出を快諾した朱王の後ろでは、言葉にならない寝言を呟いた海華が小さく寝返りをうっていた。




