第二話
「あぁ~! 冷えるわねぇ!」
音も無く粉雪が舞う昼下がり、頭や肩口をすっかり純白の雪花で染めた海華が、ブルリと大きく身震いする。
今日は人形を納める期日、荷物持ちとして彼女は兄に同行していたのだ。
無事に仕事をやり終え、客の屋敷から出たのはいいが、その途端、嫌がらせのように雪が降り始め、今や一寸先も白く霞む程の勢いになっていた。
普段から体温が低めの海華は鼻の先だけを赤くし、その肌は雪にも勝るくらい白く血の気はすっかり引いている。
小刻みに震えながら身体を丸め、着物の胸元をしっかりと掻き合わせる海華へ、バサリと薄墨色の羽織が掛けられた。
「……いいわよ兄様、兄様が寒いでしょ?」
鼻を啜りながらも海華は羽織を持ち主である 兄へ返そうとする。
しかし、朱王は受け取らない。
「いいから着ていろ。また熱出されちゃかなわん。……ついてこいと言ったのは俺だからな」
長く伸びた髪に降り積もる雪を払い、朱王は先を行ってしまう。
ほんのりと染みる兄の体温と移り香を感じながら海華はふにゃりと顔を綻ばせ、ありがとう、と呟いた。
サクサク雪を踏み締め、傘を手に道を急ぐ人々の間を縫うように歩きながら、二人は長屋へ向かう。
その帰り道、件の藤野屋があるのだ。
「やっぱり仁吉さん、店出てないわね……」
羽織を口元まで引き上げた海華が藤野屋の前で足を止める。
つられるように朱王も店内を覗き込んだ。
灯りは灯っているらしいが、客の姿はおろか店の者の姿すら見えない。
「随分と無用心だな。店番もいないのか?」
顔に掛かる雪を払いながら、朱王は僅かに眉を寄せる。
と、どこからかサクサクサク……と雪を踏み締める軽い足音が二人の耳に飛び込んできた。
勿論、店の中からではない。
足音の主が現れたのは、店の裏手。
ちょうど幽霊騒ぎの土蔵がある方向だった。
「あ、おちかさん!」
「あ……あんたこの間の!」
厚い冬用の着物を纏ったおちかは、海華を見るなりギョッとした表情を浮かべて目を見開く。
おちかの後ろから現れた人影を目にするなり、今度は海華達が化け物にでも鉢合わせしたように、表情を凍り付かせた。
鼠色掛かった着物を纏った、人影。
ピシリと着こなした着物の上に顔は無い。
黒い、二つの目玉が見えるだけだ。
まぜなら、頭から顔に掛けて包帯でグルグル巻きになっている。
白い包帯が雪と同化し、顔が無いように見えていた。
「お、ちかさん……? そちらの人は……」
半開きになった海華の口から、戸惑いがちな問いが漏れる。
おちかも、わずかな動揺を見せていた。
「ああ……その、ウチの人だよ」
「仁吉さんか!?」
朱王は思わず叫んでいた。
お前は誰だ? と言うような眼差しが、おちかから飛ばされる。
「あ、あたしの兄です。人形師の」
「こちらが朱王さん? そうですよ、うちの主人です。ご覧の通りの皮膚の病でね。……やっと起きられるまでにはなったけど、まだ話せなくて……」
「そうですか……仁吉さん、大変な事に……」
掛ける言葉も見つからず、ただ軽く頭を下げる朱王に、包帯男、仁吉は小さく会釈を返した。
海華はそれを呆然と見詰めるだけ。
おちかは、仁吉へ先に店へ入るよう促す。
滑るような足取りで、仁吉は兄妹の前を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、包帯から唯一覗く両目が海華に向けられた。
カチリとかち合う視線、何かがおかしい……、海華は僅かに首を捻った。
「医者には診てもらってるんですけどね。 長くかかりそうだと。治ったら、また宜しくどうぞ」
寒さのせいか、動揺しているからか、おちかは顔を蒼白にさせて引き攣った笑みを向ける。
「こちらこそ、どうぞお大事に」
ニコリと微笑んだ朱王は一通りの挨拶を済ませると、さっさと先へ歩いてしまう。
慌てておちかに頭を下げ、海華もその後ろを追い掛けた。
「待って! 待ってよ兄様っ! どうしたのよ急に……」
雪に足をとられながら海華は兄の袖を強く引く。
ピタリと朱王の足が止まり、自分と同じくらい白い顔が、ゆっくりと向けられた。
「あれは、仁吉さんじゃ無いかもしれない……」
白い吐息と共に呟かれた台詞。
大きく瞳を見開き、兄を見詰めたまま海華は唇を噛み締めた。
長屋へと向かう間、二人は一言も口をきかなかった。
どちらもが、ある問いを頭の中でも反芻していたのだ。
――あの男は何者なのか……。
――仁吉はどこへ消えてしまったのか……。
明確な答えが出せぬまま長屋へ到着し、海華は白い燃えかすばかりが残る火鉢に真っ赤に焼けた炭をくべ始める。
ほんのりと寒さが和らいだ頃、最初に口を開いたのも海華だった。
「ねぇ、どうして兄様はあの人が仁吉さんじゃないって思うの?」
部屋の隅から煙草盆を引き寄せ、煙管へ火種を使付けている朱王は眉根を寄せたまま唇を開いた。
「手だ。あれは絶対に仁吉さんの手じゃない」
苦い煙を胸一杯に吸い込み、白煙を吐き出しながら朱王が呟く。
海華が己の手を顔の前に出し、手が? と不思議そうに漏らした。
「そうだ。いいか、仁吉さんは扇職人だ。手を使う職業だぞ、小刀の握り方でタコが出来るとか、手が人より大きいとか、必ず特徴が出るはずだ。俺の手だってそうだろう?」
その言葉に、海華は兄の煙管を持つ右手を凝視した。
他の男に比べれば、白く華奢な手指。
しかし、毎日のように彫刻刀を握る右手は左手よりも僅かに大きく、適度な筋肉が付いている。
始終彫刻刀が当たる中指には大きなタコができ、指先の皮も厚いのだ。
反対の左手には、彫刻刀で誤って傷付けた跡が幾つかある。
確かに人形師としての特徴だろう。
「あの男の手には、そんな特徴が何も無かった。生っ白い女みたいな……とても職人の手じゃない」
苦々しい面持ちで煙管をくわえる朱王、煙管の先から揺らぐ白は、ゆらゆらと天井まで上がり、溶けるように消えていく。
「兄様よく見てるわね。……あたしも、あの人は仁吉さんじゃないと思う。……あんな冷たい目をしてた人じゃないもの」
ガシガシと炭を火箸で掻き回し、海華はグッと眉を寄せる。
擦れ違った際にかち合った視線、拒絶するような、僅かに敵意さえ含んだ眼差し。
内職の口利きまでしてくれる仁吉が、いくら病病気とはいえ自分をあんな冷たく厳しい目で見るなど有り得ない。
「確証は無いんだけどね……あたしの思い違いだったかしら?」
「いや、目は口ほどに物を言うからな。以外と当たっているかもしれない」
カツンと煙管が煙草盆へ打ち付けられる。
壁に寄り掛かっていた朱王が、ノソリと身体を起こした。
「確たる証拠は無いが、一応親分達に話しておいたがいいな。……今から行くか」
今から? と呟き、海華は小首を傾げた。
既に外は薄暗く、もうすぐ夜が訪れる時間帯だ。
「兄様一人で行くの? あたし、夕飯の支度が……」
「帰りにお福さんの所で食おう。今日はもう水仕事はするな。……また手が切れそうだ」
立ち上がった朱王の視線が妹の両手に向けられる。
寒風に晒されカサカサに粉を吹いた手は、赤く色が変わったまま。
海華はチロリと舌を出しながら、恥ずかしそうに手を袖の中へと引っ込める。
「本当、よく見てるわねぇ……」
「風呂屋から帰ったら、また薬塗ってやるから。ほら、早くしろ!」
火鉢の前に座り込む海華を急き立てるように、朱王は肩を叩く。
わかったわ、と苦笑いを浮かべ、しかしどこか嬉しそうに口元を歪めた海華は、手にしていた火箸を灰の中へと差し込んだ。
降りやまぬ雪の中を番屋へとむかった二人。
藤野屋で出会った男、おちかの態度がおかしい事などを全て忠五郎に話した。
しかし、返ってきた答えは期待していたのとは程遠い物だった。
「朱王さん達の言い分もわかるが、それだけじゃなあ……」
火鉢に両手をかざし、寒そうに背中を丸める忠五郎。
手が違うの、目付きが違うの、そんな不確定な情報だけでは動けないと言うのだ。
「勘違いって事もあるだろう? 大体、女房が、その包帯男を自分の亭主だと言ってんだ」
「嘘だろう! って乗り込む訳にもいかないですしねぇ」
上がり框に腰掛けていた留吉が、間延びした声を上げる。
土間に立ち尽くしていた二人、海華が焦れたように親指の爪を噛んだ。
「でも……あの男が仁吉さんだって、顔を見るなりできないんですか?」
どうしても引き下がることの出来ない海華が、すがるような目付きで男二人を見遣った。
しかし、忠五郎は素っ気ない。
「海華ちゃん、病人の包帯無理矢理ひっ剥がす訳にゃいかねぇよ。それでなくても、こっちは出鱈目の幽霊騒ぎで酷でぇ目に合ってんだ」
「雪の降る中立ちっぱなしでよ、死ぬかと思ったぜ」
深々と留吉が溜め息をつく。
このまま粘っても、二人は色よい返事をくれはしないだろう。
そう考えた朱王は簡単な礼を二人に述べ、渋る妹の手を無理矢理引いて、早々に長屋を後にした。
「どうして諦めちゃったのよ……」
蕎麦屋『おふく』の店内、ホカホカと湯気を立てる蕎麦を啜りながら、海華は兄を睨み付ける。
仕方ないだろ、と即答した朱王は、静かに箸を置いた。
「あのまま居座っても、親分達は動かない、いや、動けないさ。確かに、俺達の話しは確証が無い。勘違いだと言われてもしょうがないだろ?」
「そうだけど……あ、都築様か、桐野様に話してみたら……」
「誰に話しても一緒だ。都築様方だって、俺達の話しに付き合える程暇じゃない」
朱王の口調がだんだんとぞんざいに変わっていく。
ぶぅっ、と頬を膨らませ、仏頂面の海華は飯台に肘を付き、フンと横を向いてしまう。
「じゃあ、どうすればいいのよ? 仁吉さんが何どこにいるのかもわからないってのにさ、兄様諦めるつもり?」
もしかしたら、今この瞬間にも仁吉は命の危険にさらされているかもしれないのだ。
「諦める訳ないだろう。つまり、あの男が仁吉さんじゃないって確実な、証拠を出せばいいんだ」
カチャリと箸が持ち上げられ、僅かに冷めた蕎麦を朱王が口に運ぶ。
その様子を横目で見詰めながら、海華は片方の眉を上げた。
「確実な証拠……ね。ならあたし、勝手に動くわよ? 止めないでね」
「止めたってやるんだろ? 何年兄妹やってると思うんだ?」
兄の台詞に海華は思わず吹き出した。
確かに、兄の言う通りなのだ。
「一つだけ言っておく。危なくなったら……いや、そうなる前に逃げろ。命落としちゃ本末転倒だ」
そう一言告げた後、表情一つ変えず朱王は黙々と蕎麦をたいらげていく。
再び丼へと向き直った海華は、力強く頷いた。
「わかってるわ、大丈夫よ。絶対あの男の尻尾、掴んでやるわ」
「しっかりやれよ。……早く食え。伸びる」
既に湯気の立ちが弱くなった蕎麦。
柔らかくなった麺を啜る海華は、早速頭の中で、あの包帯男の化けの皮を剥ぐ計画を練り上げていたのだ。
「仁吉さんのいなくなった許嫁? ああ、弥生ちゃんかい、知ってるよ」
藤野屋の斜め向かいに店を構える豆腐屋、その店先に海華は立っていた。
ピンと張り詰めた空気が頬を赤く染める晴れた日の朝だ。
「女将さん知ってたんだ。あ、豆腐二丁と油揚げ二枚ね」
寒そうに体を縮めた海華は、女将の分厚い手のひらがギンギンに冷えた水から豆腐を引き上げるのを眺めながら口を開く。
雪と同じ真っ白な豆腐が、持参した丼に移された。
「弥生ちゃんとは、幼馴染みでさ。あたしと向こうの母親同士が知り合いでね。いなくなってから、随分たつけど……はい、豆腐ね」
切れるような水の冷たさに顔をしかめ、小太りの女将が丼を差し出す。
あかぎれが出来かかった手で丼を受け取り、海華はチラリと女将に目を遣った。
「ありがとう。でさ、弥生さんってどんな人だったの?」
「どんな人って……正直、あんまり別嬪では無かったね。体つきも……あたしが言うのもなんだけどさ、ずんぐりした田舎臭い娘で。でも、優しくて気のきくいい子だったよ」
そこまで言って女将は声を潜め、海華に顔を近付ける。
視線は、今だ暖簾が出されていない藤野屋へ向けられていた。
「あのおちかさんよりは、ずっとマシな子だったね。おちかさんとは従姉妹同士みたいだけどさ」
「従姉妹!?」
海華はすっとんきょうな声を上げ、女将は小さく頷く。
「そうだよ。おちかさんは、あの通り器量はいいけどキツい人だろ? 仁吉さんも、なんだってあんな女と一緒になったんだか……」
女将が大きな溜め息をつきながら、前掛けで両手を拭った。
「弥生さんが、仁吉さんとの結婚が嫌で逃げたって、本当なんですか?」
何気なく放たれた海華の問いに、女将の眉がぐっと寄せられる。
「周りはそう言うけど、あたしゃ違うと思うね。だって弥生ちゃん、仁吉さんにゾッコンだったし、仁吉さんも弥生ちゃんを気に入ってたんだ。……おちかさんよりもね」
これは良い話しを聞き出せたと、海華は内心ほくそ笑む。
しかし顔では女将と同じく眉を寄せ、難しそうな表情を作って見せた。
「そりゃ、いきなり消えるのは変ねぇ。……弥生さんの両親は、探さなかったの?」
「探したよ、二人して必死にさ。でも結局見付からず仕舞いで、おっ母さんは心労たたってポックリ逝っちまうし、お父っつあんもね、後を追うように死んじまった」
じっと自分の爪先を見詰め、女将は黙ってしまう。
豆腐の丼と、後から渡された油揚げを持ちながら海華も口を閉じてしまった。
「――弥生ちゃん、今頃生きているのか死んでるのか……ところでアンタ、何でそんな事聞きたがるの?」
ひょいと顔を上げ、女将は怪訝そうに首を傾げて海華を見る。
ドキンと胸の中で心臓が跳ね上がるのを感じながら、海華は慌てて作り笑いを浮かべた。
「いや……ちょっとね、昔、人がいなくなったって小耳に挟んだもんだから。長々とごめんなさいね」
品物の代金を握らせ、そそくさと店を出る海華。
背後では、女将がしきりに首を捻りながら去り行く海華を見詰めていた。




