第一話
鼠色の分厚い雲からチラチラと雪が舞う。
道や家々の屋根には昨夜降った雪が高く積もり、身を切るような風に暖簾が揺れる店先では頬を赤くした奉公人らが身震いしながら雪かきに精を出していた。
昼下がりの表通り、皆が寒そうに体を屈めて雪を踏み締めて足早に先を急ぐ。
そんな中に、風呂敷包みを抱えた海華の姿があった。
冬真っ盛りの江戸の街、人形廻しで日銭を稼ぐ事も難しくなる季節だ。
この時期、海華はほぼ一日長屋で内職をしている。
今も、三日掛かりで仕上げた鼠の土鈴を納めに行った帰りである。
品物を納め、その帰りに繕いに出していた兄の褞袍を受け取ってきた。
早く長屋に帰り、火に当たって一息つきたい。
そう思いながら歩く速度を早めたその時、『海華ちゃん!』と、よく響く男の声が丸まった背にぶつかったのだ。
「あ、藤野屋さん!」
くるりと後ろを振り返った海華が、白い息を吐きながらニッコリと微笑んだ。
ニコニコと笑いながら片手を上げ、海華に近寄る一人の男は、すぐ近くにある藤野屋という扇屋の主人、仁吉 (じんきち)だ。
がっしりとした大柄な体躯、背丈は朱王と同じ位か。
色黒で、一見熊のようにも見えるが、愛想が良く性格も穏やかな男だ。
年は三十前半だが、親から受け継いだ扇屋を妻と二人で仕切り、自身も腕の良い扇職人である。
数年前、朱王はこの仁吉から仕事を受け、海華もその時に知り合ったのだが、その際に気に入られたらしく、内職の口利きをしてくれたりと、何かと良くしてもらっているのだ。
「久しぶりだなぁ。めっきり冷えてきたが、変わりは無いかい?」
太い眉を思い切り下げ、満面の笑みを見せる仁吉。
ペコリと頭を下げていた海華も、同じ表情でハイ、と答える。
「お陰様で、私も兄様も元気です。兄様は……寒い寒いって愚痴ばかりですけど。旦那さんも、お変わり無いですか?」
「ああ、元気にやってるよ。まぁ、この季節だから、商売は上がったりだけどね」
丸太のような腕が上がり、仁吉は苦笑いしながら頭を掻く。
ハラハラ舞う雪が、二人の肩へと白い幕を作りだした。
「そう言えば、もう人形芝居はしてないのかい? 近頃見ないと思ってたんだよ」
「はい、今はお休みです。こう寒くちゃお客さんも殆どいませんし、私も長々辻には立てませんから……。今はずっと内職です」
ちょい、と風呂敷包みを揺らせて見せると、仁吉は、ああ、そうだな。と納得したように頷いた。
「下手に外出歩いて、身体でも壊しちゃ大変だからなぁ。また仕事口があれば、海華ちゃんに声掛けるよ」
ニッ、と白い歯を見せた仁吉、しかしこの約束は永遠に果たされる事は無かった。
そして、海華が仁吉の愛嬌のある笑顔を見るのも、これが最後となったのだ。
藤野屋の裏に幽霊が出る。
奇妙な噂が巷に流れ始めたのは、海華が最後に仁吉と会ってから、ちょうど半月後の事だった。
草木も眠る丑三つ時、店の裏手にある今は使われなくなった土蔵から何者かの呻き声が響くというのだ。
一人の男が、ある晩こっそりと様子を伺いに忍び込んだ。
すると確かに、地の底から響く苦し気な男の物らしい呻き声が聞こえた。
声の出所を探して件の土蔵へと廻ると、ポッ……と怪しげな火が二つ、土蔵の横に掘られた枯れ井戸付近で揺らめいたそうだ。
そして、その灯りにボンヤリと浮かび上がった人影があった。
「それがね、目だけがギラギラ光る、鼻も口も無い真っ白な幽霊だったんだって」
寒気で赤くなった指先を火鉢にかざしながら、海華が作業机の前に座る兄の背中に話し掛けた。
冬の冷気の中、星屑がばら撒かれた漆黒の夜空に鏡のような月が天高く輝く。
蝋燭の灯りを頼りに人形の手首を彫り出す朱王は直ぐさま、下らない、と妹の持ち込んだ噂話を一蹴した。
「大方、酔っ払いが見間違えただけだろう。呻き声だって聞き間違いだ」
「そうでもないわよ、だって呻き声を聞いた人は一杯いるんだから。白い幽霊を見たって人も、素面だったみたいだし」
その人影を目撃した男は次の朝、店の敷地内で失神している所を発見されたらしい。
一応、忠五郎親分らも駆り出されたらしいが、 結局見間違いと言うことで終わった。
それから藤野屋は噂を聞き付けた野次馬達で溢れ返り、大変な騒ぎになっている。
「おちかさん……女将さんなんだけど、カンカンになってるのよ。ただでさえ冬場は扇が売れないのに、野次馬ばかりで商売にならないって」
「当たり前だな。仁吉さんも災難だよ」
溜め息混じりに朱王が呟く。
火鉢の炭がパチリと跳ねた。
「そうだわ、その仁吉さんなんだけど、この頃パッタリ見ないのよね」
火箸で炭を掻き回し、思い出したように海華が言った。
手首を彫る朱王の手が止まり、身体ごとこちらへ向ける。
「仁吉さんを見ないって? 店に出てないのか?」
うん、と海華が頷いた。
店主の仁吉は余程の理由が無い限り、店に出て扇を造ったり接客をしている。
ところが、幽霊話しが出始める少し前から店に居る所を見た事が無い。
海華も何度か店の前を通ったが、中に居るのはツンと澄ました表情をした仁吉の女房、おちかだけなのだ。
「外歩いてるのも見てないの、何だか消えちゃったみたいな感じよ?」
あの生真面目な仁吉が、幽霊騒ぎで大変な時に店を女房一人に任せておくとは思えない。
仁吉の人柄を知る朱王も、これには首を傾げた。
「身体でも壊して臥せってるんじゃないか?」
「それならそうと、周りの人から話しが出るわよ。近所の人も、何にも知らないみたい。何だか変よねぇ?」
火に掛けられた鉄瓶から、勢い良く湯気が吹き出す。
怪訝そうな顔のまま、海華が急須を引き寄せ茶の支度を始めた。
「明日、おちかさんに聞いてみようかしら」
「それはいいが、余り余計な詮索はするなよ? 唯でさえ店の方が大変なんだ」
湯気を立てる湯飲みを受け取った朱王がチクリと釘をさす。
わかってるわよ! と、頬を膨らませた海華は、 眉をしかめながら出涸らしのような茶を啜った。
そして次の日、夕方新しい内職、草鞋編みを引き受けた海華は店へと材料を取りに出掛けた。
重たい藁の束を抱え、寒風吹く中を長屋へと急いでいる途中、ふと仁吉の顔が頭に浮かぶ。
出てきたついでだ、様子を見に行こう、と道を変え藤野屋へと向かった。
冬の日はつるべ落とし、まだ夜になるには大分時間はあるが、既に辺りは薄暗くなり道を行く人も疎らだった。
それは藤野屋も同じで、海華が到着した時、店には野次馬らしい人影も客の姿も無い。
真っ白な息を吐きながら、ふと垣根の向こうに目をやると、幽霊騒ぎの舞台になった古い土蔵と打ち捨てられた枯れ井戸が見えた。
店と隣接する母屋から少し離れて建つ蔵は、滅多に人の出入りは無いのだろう。
元は白壁だったものが風雨に曝されて黒く汚れ、あちこちにひび割れが入り闇に溶け込むかのような寂しい佇まいだ。
「こりゃ、幽霊出てもおかしくないわねぇ……」
痛い程冷たい風に吹かれ、髪が乱れる。
顔に掛かるそれを片手で押さえながら、海華は藤色が僅かに色褪せた藤野屋の暖簾を潜った。
「こんにちは! どなたかいらっしゃいますか?」
誰もいない店内、奥へ向かって大声で呼び掛けると、直ぐに『はい、はい』と女の返事が返る。
奥から小走りで姿を現した一人の女が仁吉の妻、おちかだ。
鼠色掛かった格子縞の着物を纏い、ややつり上がり気味の瞳が藁の束を抱えた海華を見据えている。
「いらっしゃいませ、どのような品をお探しです?」
およそ愛想の無い声色と細面の白い顔の中で僅かにしかめられた眉。
どこか険のある女だが、美人の部類に入るのだろう。
「いやぁ……あの、お客じゃないんです」
軽く睨まれるような視線を受け、海華がおずおずと口を開く。
その途端、おちかの柳眉がグッとつり上がる。
「また幽霊見たさの冷やかしかいっ!? ふざけんじゃないよ! 酔っ払いの戯言真に受けてさ! いい迷惑だ! さっさと帰んなッッ!」
「ちっ……違いますっ! あたし、中西長屋の……人形師の朱王の、妹ですっ!」
余りの剣幕に、海華は狼狽えながら後ずさる。
ギロリ、とおちかの瞳が海華を捉えた。
「人形師? 朱王……ああ、うちの人が人形頼んだ。その妹さんとやらが何の用件なのさ?」
「あの……この頃仁吉さん、ご主人の姿が見えないので、ご病気が何かなと思って……ご主人にはいつも内職の斡旋とかで、お世話になっていますから」
「内職の? あの人、そんな世話まで焼いてたのかい……」
胸の前で腕組みをし、おちかは呆れたように呟いた。
「はい、それで、ご主人は……?」
藁の束をギュッと抱き締め、海華はおちかの様子を伺う。
さも面倒だと言うように、おちかが口を開いた。
「うちの人は……皮膚の病に掛かってね。顔が腫れて酷いんだ。だから、誰とも会いたくないと言って引き込もってるのさ。……お宅さん、名前はなんて言うの?」
「――海華と言います」
「海華さんね、主人にはあんたが来た事、伝えておきますよ。……じゃあ、そういう事だから」
それだけを言い残し、おちかはさっさと奥へ引っ込んでしまう。
絹張りの高価そうな扇が並ぶ店内、色とりどりの品物に囲まれ、大きな藁束を抱えて呆然と佇む海華だけが、一人ポツンと残された。
「本当にあたし、張り飛ばされるかと思ったわよ!」
大根の煮付けをつつきながら、海華は盛大な溜め息をついた。
正面に座した朱王が飯を運ぶ手を止め、ニヤリと口角を上げる。
「お前がそこまでやり込められたんだ。よほど気性の激しい女なんだろうな」
「気性が激しいなんてモンじゃないわ、夜叉よ、夜叉。女夜叉だわ」
箸の先がズブリと大根に沈む。
綺麗な飴色に仕上がった煮付けを見詰めていた海華が、その視線を兄へと移した。
「あの仁吉さんが、どうしてあんな人と一緒になったのかしらね?」
「そりゃな……最初の許嫁が消えたんだ。色々とあったんだろう」
朱王が返したその途端、ええっ!? と海華が引っくり返ったような叫びを上げて彼の方へと身を乗り出す。
弾みで箸が手から擦り切れた畳へと転げ落ちた。
「最初の許嫁?消えたって、どういう事なのよ?」
食い入るような自分を見詰める妹に些か驚いた朱王。
パチパチと目を瞬かせながらも、取り敢えず手にしていた茶碗と箸を置く。
「お前知らなかったのか? 仁吉さんには、おちかさんと一緒になる前、別の許嫁がいたんだ」
「うんうん、それで? なんで消えたの?」
「さあな、小耳に挟んだ程度だから、よくは知らんが。祝言上げる前日にいきなりいなくなったんだと。両方の親同士が進めていた話しだったようだから……」
朱王が急に口ごもる。
眉を寄せ、怪訝そうな表情の海華が先を続けた。
「結婚するのが嫌で、逃げたってわけ?」
「噂では、そうだ。だがな、身の回りの物も全部残したまま、いなくなった。仁吉さんも一年近く待っていたらしいがな。藤野屋の跡取り息子だ。いつまでも独り身ではいられないだろ」
「ああ……だから、おちかさんと一緒になったの」
「うん、それも親が持ち込んだ話しらしいぞ。仁吉さんも、そうなっては仕方ないだろうからな。大人しく従った、ってところか」
「何だか複雑ねぇ……」
そう呟いた海華が身体を後ろへ戻し、座り直す。
そんな話し、今まで一度だって耳にした事はなかったのだ。
コホン、と小さく咳払いした朱王は首を傾げている妹にチラと目をやった。
「あまり言いふらすなよ? あくまでも噂なんだ」
「わかってます! 臥せってる仁吉さんに、余計な心配掛けさせたくないわ」
頬を僅かに膨らませ、海華はフイと横を向いてしまう。
だが、すぐに心配そうな顔をさせ、兄へと向かった。
「そんな事より、仁吉さんが心配だわ。皮膚の病って聞いたけど……人にも会えないくらいに酷いのかしら?」
「おちかさんがそう言っているんだからな。 ……会えなくても構わないから、一度見舞いに行ってみるか?」
うん、と顔を綻ばせて海華が頷く。
二人が藤野屋へと足を運んだのは、その日からちょうど十日目の事だった。




