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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十六章 蜉蝣の面影
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第三話

 修一郎と桐野の訪問から数日後、この日も空はドンヨリと灰色がかった分厚い雲が一面に立ち込めていた。

昼を過ぎても暗く湿気が籠る長屋、陰鬱な空気が支配するこの部屋の中にいるのは朱王と海華の兄妹二人だけだ。

この頃には海華の熱は大分落ち着き、もはや寝込む程の高熱は出なくなっていた。

だが、今だに微熱は続いたので朱王は外出を控え、妹の側に寄り添っている。


 気だるい身体を布団に横たわった海華は暇を潰すように天井に浮き出たシミを数え、その足元では朱王が作業机に向かい、黙々と人形のかしらを彫り込んでいた。

すると、障子戸に細身の人影が写り込み、コンコンと軽く戸が叩かれる。

作業の手を止めた朱王が『どうぞ』と声を掛けると、すぐに戸が開いた。

そこに立っていたのは癖のある髪を一束ねに結わえた一人の若い男、桐野家の使用人である志狼だ。

彼は片手に四角い藍色の小さな風呂敷包みを下げている。


 「邪魔するぞ」


 「ああ、志狼さんか。散らかってて悪いな。上がってくれ」


 朱王は膝にこぼれた木屑を払いながら、志狼を中へ迎え入れる。

彼に気が付いた海華は慌てて布団から出ると、ちょこんと布団の上に座り込んだ。

作業机の脇に一つだけ蝋燭の灯る部屋、薄暗いそこでは日焼けした志狼の浅黒い顔が余計に黒く、そして彫深く見える。

茶を出そうと立ち上がる朱王を志狼は引き留めた。


 「構わないでくれ朱王さん。今日は調べた事を話しに来ただけだ。その……あんた達の母親について、だ」


 母親の、という所で、志狼は言いにくそうに口ごもる。

二人の生い立ちは、海華の口から既に聞いているの彼だが、やはり口にしにくい話題なのは変わりない。


 「桐野様、志狼さんに調べを頼んだの?」


 寝乱れた髪を手櫛で直し、海華は小さく微笑みを見せる。

そんな海華を、志狼は横目でチラリと見遣った。


 「あぁ。内密にって念を押されてよ……日を改めた方が良かったか? 随分長いこと寝付いているみたいだが……」


 どうやら海華の体調を案じてくれているようだ。

そんな彼に海華はフルフルと首を横に振り、書くる身体を揺すって姿勢を正した。

『あの人の事を、もっと詳しく知りたいんだ』 修一郎らが来た次の朝、目覚めた海華に朱王はそう告げ、海華は久しぶりに満面の笑みを見せて喜んだのだ。


 どんな人だったのか、どんな人生を送っていたのか、自分達をどう思っていたのか……。

知りたい事は、山程あるのだ。


 「あたしなら平気よ。それより、せっかく調べてくれたんだから、早く話し聞きたいわ。ね、兄様?」


 「ああ、海華も大分良くなったからな。もう大丈夫だ」


 志狼の前に座った朱王も、コクリと頷く。


 「そうか、なら話すか。あんた達の母親、源氏名は八ツ葉といったな。店は玉乃屋。通い詰めて調べたんだが、何しろ十年以上前の事だ。女将も代変わりして、八ツ葉の事を知っている奴はいなかったよ」


 ため息混じりに出された言葉、二人の顔には僅かに失望の色が浮かんだ。


 「そこで、ああ、そうですかと引き下がる訳にもいかねぇだろ? 長く店にいる女中やら、遣り手婆に手当たり次第に話し聞いて、やっと見つけたぜ。八ツ葉を知っている奴が」


 ニッと志狼の口角がつり上がる。

本当か!? と、目を一杯に見開いた朱王が志狼の顔を穴が開くほど凝視し、海華は伏せていた顔を跳上げ る。


 「ああ、浅草で茶店をやっているお連と言う女が、八ツ葉と懇意にしていたらしい。お連も玉乃屋の遊女だった。年期が開けてから店の茶店の旦那と一緒になったと。一応昨日あたって来た。あんた達の事も話しをしてある」


 八ツ葉の子が会いたいと言っている、そう話すと、お連は酷く驚いた様子だったらしい。


 「後は、自分達で直接聞いた方がいいだろう? 向こうには話し付けてあるから、何でも話しはしてくれるはずだぜ」


 「そう、か。そうか……ありがとう志狼さん。 色々と手間を掛けさせて……」


 今だ信じられないと言った表情で、朱王は志狼へと頭を下げた。

海華も同じように、布団へと額を擦り付ける。


 「礼なら、旦那様と……上条様に言うんだな」


 照れ臭そうに志狼は頬を掻いた。

その口から出た以外な名前に海華は顔を上げ、瞳を瞬かせる。


 「どうして、修一郎様が……」


 「俺が玉乃屋に行った時、上条様も店にいらしていた。ああいった場所はあまり好まれないと旦那様から聞いている。――きっと、俺と同じ事を調べておられたんだろう」


 「修一郎、様が? わざわざ自ら調べて下さっていたのか……」


 志狼の言葉を聞いて朱王の胸がジワリと熱くなる。

修一郎にから見れば、朱王らの母親は父親の妾のようなものだ。

自分の母親を苦しめた憎い相手……、それでも、朱王達のために動いてくれた。

海華は、着物の袖で乱暴に目元を拭う。


 「そうね、桐野様にも修一郎様にも……きちんとお礼しなくちゃね……」


 「それなら、早く身体を治すこったな。それと、これは見舞いだ。胡瓜の煮付けよりは旨いと思うぞ」


 ニヤニヤと含み笑いを見せ、志狼は傍らに置いていた風呂敷包みを海華へと差し出したのだった。






 「お前、本当に大丈夫なのか?」


 眉間に皺を寄せた朱王が腕組みしながら妹を見下ろす。

ここは部屋の戸口前、これから朱王は浅草まで出掛けようとしている所だ。


 「平気よ。もう熱も下がったんだし」


 心配する兄をよそ目に、海華はケロリとした顔で答えた。

確かに、熱は下がっている、が、まだ病み上がりには変わりない。

下手に出歩き、こじらせては大変だ。


 話しは俺が聞いてくるから、お前は残れと言う兄の言葉に海華は首を横に振った。

そして、止めるのも聞かずにさっさと着替え、今、何日かぶりに太陽の下へ立っているのだ。

途中で引っくり返っても知らないからな! と朱王は言い放ち、先に進んでしまう。

海華は慌ててその後ろを小走り追い掛けて行った。


 志狼が教えてくれた浅草の茶店はなかなか立派な佇まいの店だった。

隣には小さな芝居小屋があり、芝居を見終わった帰りと思われる人々で店内は賑わいを見せていた。


 木の盆を手に、いらっしゃい、と朗らかな笑みを見せる使用人らしき娘に朱王は自らの名を告げ、女将を呼んでくれるよう頼んだ。

娘はすぐに奥へと引っ込み、暫くすると奥から薄茶色の着物にキリリとたすき掛けをした、年の頃五十過ぎの女が顔を見せる。


 女は、朱王の顔を見るなりその場に固まった。

その口は、わなわなと戦慄いている。

この女が志狼の言っていた女将のお連なのだろう。

ギクシャクとした動きで、お連は朱王達に近寄って来た。


 「ああ、お葉ちゃん……。いや、朱王ちゃんかい?」


 二重の瞳を一杯に見開き、お連は震えた声を出した。

はい、と朱王が答えると、みるみるうちに彼女の目が潤みだし、視線は海華へと移された。


 「じゃあ、こっちは……海華ちゃん? あの赤ん坊だった? まぁ、大きくなって……!」


 袂から取り出した手拭いで、ごしごしと目元を拭うお連。

次に顔が上げられた時は、その丸くふくよかな顔に泣き笑いの表情が浮かんでいた。


 「いやだ、ごめんなさいね。あんまり懐かしくて、つい。さぁ、どうぞどうぞ。かけて下さいな」


 お連は二人を一番奥の飯台へと案内し、茶と菓子でもてなしてくれた。

そして二人の前に腰を下ろしたお連は、まじまじと二人の顔を眺めている。


 「本当に朱王ちゃん……いや、朱王さんは、おっ母さん似だねぇ。小さい頃から綺麗な顔していたけど……大きくなったら、瓜二つだよ。昨日、志狼さんとか言う人が来てさ、朱王さん達が会いたいって言われた時は、驚いたねぇ」


 「突然押し掛けて、申し訳ありません。……どうしても、母親の事が知りたくて……」


 朱王と海華は静かに頭を下げた。

お連は、どこか寂しそうな眼差しで二人を見詰めた。


 「そうかい、お葉さんの事をね。知らないのも無理ないですよ。二人共、まだ小さかった…… 一度も一緒に暮らしてないんだからね……。 おっ母さんの事、どこまでなら知っているんだい?」


 朱王は、知っている事を全て話した。

それは、殆どが今は亡き父親から聞いていたものだ。

海華は湯飲みの茶に映る己の顔をじっと見詰めたまま、兄が話すのを黙って聞いていた。


 「……お父っつあんとの馴れ初めは知っている訳だ。なら……」


 「どんな人だったか、教えて貰えませんか?」


 パッと顔を上げた海華が口を開いた。

お連は目を瞬かせる。


 「どんな人って、性格とかかい?」


 「そうです。顔立ちとか、性格とか……あたし達の事、どう思ってたかとか……」


 無意識に身を乗り出す海華、そんな妹の肩を朱王が軽く叩く。

海華は気まずそうに座り直し、下を向いてしまった。

母親の話しを早く聞きたい、そんな思いで気が急いているようだ。

急に静かになってしまった海華を見て、お連は小さく微笑みを漏らす。


 「そんな事くらいなら、いくらでも教えてあげるよ。私とお葉ちゃんは……店の中でも一番仲が良かったからね……」


 懐かしさと僅かな哀愁を含んだ眼差しが、些か緊張気味で座る兄妹に向けられる。


 「さてと……どこから話そうかねぇ。」


 小首を傾げたお連の視線が宙をさ迷った。

きっと今、頭の中は遊女時代に戻っているのだろう。


 「お葉ちゃんが店に来た時から話そうね。お葉ちゃんは、渋谷村の農家の生まれでね。両親が早くに死んじまって、兄弟姉妹食べさせるために吉原へ来たんだよ」


 「江戸の生まれだったんですか」


 以外そうに朱王が呟く。

もしかしたら、親族がまだ江戸にいるかもしれないのだ。

勿論、探して会う気など更々無いのだが……。

彼の言葉を受けて、お連は小さく頷いている。


 「そうだよ。江戸っ子さ。色の白い惚れ惚れするような美人でね。余所から来た私は、あんな綺麗な人は初めて見た。そのくらい別嬪だったよ。……明るくて、気配りのできる優しい人だった。私と同じ場所に黒子があってさ、そんなこんなで仲良くなってね」


 そう言いながらお連は右目の下、目尻近くを指差す。

そこには、ポツリと小さな黒子があった。

海華の手が、無意識に自分の右目の下へと伸びる。

ただの偶然か、親子の証か、海華にも同じ場所に黒子があるのだ。

子供の頃には確かに無かった。知らぬうちに、できていたのだ。

不思議な気持ちでその場所を撫でている間も、お連は更に続ける。


 「そんな子だったから、すぐに馴染みが付いて売れっ子になったよ。周りの人はさ、すぐに太夫になると思ってた。……朱王さんを孕むまではね」


 飯台に頬杖をつき、薄い唇からフゥッと溜め息が漏れる。

朱王も海華も、視線を飯台へと落としていた。


 「店中、天地を引っくり返したような大騒ぎさ。なにせ産むってんだから。言われてみれば、前々から様子が変だった。朱王さんのお父っつあん以外の客は、みんな断って。女将や旦那に怒鳴られても、頑として受けなかった。だからさ、父親が誰かってのも、すぐにわかったんだ」


 「……よく、産ませてもらえましたね……。遊女が客の子をなんて、考えられない」


 どこか寂しげな口調で朱王が言った。

身請けの約束をしているなら別だ。

だが、そうでない以上、子持ちの遊女などは有り得ない。

お連も、眉間に僅かな皺を寄せ、朱王達を眺めた。


 「最初は堕ろせ、堕ろせの大合唱さ。まぁ、当たり前だけど。でも、朱王さんのお父っつあんがさ、どこぞの偉いお侍だったよね? 毎晩毎晩、女将と旦那に頭下げて、金渡して、後生だから産ませてくれって。とうとう二人も根負けだよ。店の人らには口止めして、お葉ちゃんは病気だって客に嘘付いて、……店の屋根裏部屋で、お産させたんだ」


 「あたし達……屋根裏部屋で産まれたんですか」


 目を瞬かせ、海華はお連を凝視する。

両手で包んだまま、一度も口を付けていない茶は、すっかり冷たくなっていた。


 「そうだよ。私も産婆の手伝いに入ってね、海華ちゃんの時は安産だったけど、朱王さんは難産でさ。大きな赤ん坊だったから、出て来るのにやや暫く掛かったよ。それに、やっと出て来たと思ったら、ウンともスンとも泣かなくてね。色も真っ黒、私はダメだと思ったよ。でもね……」


 チラリと、お連の視線が朱王を捉えた。


 「さすがに赤ん坊は見せられないと思って、私が連れて部屋を出ようとしたらさ、いきなりお葉ちゃんが起き上がって、赤ん坊を引ったくったんだよ。何をするかと思ったら、口を吸い始めて……羊水を吸い出したんだね。直ぐに、産声が聞こえたよ」


 母親って、凄いもんだ。

そう口にしたお連の目が潤み出す。

海華は顔を完全に下へと向け、肩を震わせながら鼻を啜っていた。

その隣に座する朱王は固く唇を噛み締めたまま、じっと一点を見詰めている。

飯台の上へ置かれた両手は、指が白くなる程に握り締められていた。


 「母さんは……どうして死んだんですか……?」


 泣き腫らし、真っ赤な目をした海華がゆるゆると顔を上げ、お連を見た。

尋ねられたお連も、赤い目をして鼻を啜っている。


 「海華ちゃんが産まれて、一年位たった頃かね……労咳ろうがいを患ってさ。薬を飲んだり色々手は尽くしたんだけど、身体が弱ってて……。結局、屋根裏部屋で寝た切りだよ。 可哀想に、見る影も無く痩せちゃって……」


 その頃には、朱王は一言も口をきかなくなっていた。

いや、次々と明らかにされる真実に頭は痺れたようになり、何も考えられないのだ。


 「二人のお父っつあんも、毎日のように見舞いに来てたよ。お葉ちゃん、子供に会いたいって何時も言ってたよ。特に海華ちゃんにね、一度も顔を見ていなかったからさ……」


 お連の口から出た言葉に怪訝そうな顔をしながらも、やっと朱王は口を開いた。


 「一度も顔を見ていないって……産まれてすぐは、顔ぐらい……」


 「それが、見せも抱かせもしなかったんだよ」


 お連によると、朱王を産んだ時は対面させ、抱かせもしたと言う。

ところが、それによって情が移ったのか母性が目覚めたのか、お葉は朱王を手離したくないと泣き喚いたそうなのだ。


 「だから海華ちゃんは、産まれてすぐに別の部屋へ移したんだ。お葉さんは、産まれたのが女の子って事しか知らせてなかったんだよ」


 ――そうか、だから海華に会わせてくれと――


 朱王は心の中で頷いていた。

顔も見る事無く別れた娘……、どれ程会いたかっただろう。

それを、自分は手酷く突き放したのだ。

何も知らなかったとは言え、つまらぬ意地を張り、母親を冷たく拒絶した。


 「子供の様子を朱王さんのお父っつあんから聞くのが、一番楽しみだったみたいだよ。まさか……あんなに早く逝っちまうとはね……」


 手拭いで溢れた涙を拭うお連。

海華も、袖口で顔を拭っていた。


 「それで……母さんの遺骸は……?」


 「静閑寺、投げ込み寺に引き取ってもらった。店の中に、いつまでも死人は置いておけないからさ。亡くなってすぐ、裏口から出されちまったよ」


 母親が葬られた場所、朱王は、それを父親から聞いていた。

随分昔の話しだ。

しかし、手を合わせに行こうと言う気にはなれなかった。


 「ずっと、二人の事を気に掛けていたよ。一緒には暮らせなかったけどさ、子供産んで良かった、幸せだったって。だからね」


 お葉ちゃん、いや、おっ母さんの事、忘れないでやってよ。


 涙声で呟くお連。

海華は飯台にボロボロと涙をこぼしながら頷き、苦しそうに顔を歪めた朱王も唇を戦慄かせながら、はい、と小さく呟く。


 お連の話が終わった頃、店内は既に客の姿も疎らとなり、女二人の啜り泣きだけが静かに空気を震わせていた……。

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