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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十六章 蜉蝣の面影
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第二話

 大降りだった雨も夕方にはカラリと上がり、橙に輝く夕日が西の空に傾いている。

その夕日を映し出し、同じ橙色に染まる無数の水溜まりを足取り軽く避けながら道を行く二人の侍の姿があった。

大柄な体躯をした侍の手には、これまた大きな酒壺がぶら下げられている。


 この二人の侍、修一郎と桐野が向かっているのは朱王兄妹の住む長屋だ。

暫く二人と顔を合わせていなかった修一郎、様子伺いついでに朱王と酌み交わすつもりだった。

邸宅を出て少し行くと、道端で桐野とばったり出会ったのだ。


 せっかく会ったのだ、一緒に行こうと言う事になり、桐野も同伴していると言う訳である。


 さて、長屋の門をくぐった二人は、兄妹の部屋前 で長屋の住人、女房らしき女達が二、三人が集まり何やら騒いでいるのに気付いた。


 「何だ? 何を騒いでいるんだ?」


 修一郎が首を傾げた。

桐野も怪訝そうな面持ちで女達を眺めていたが、その鼻にみるみるうちに皺が寄る。


 「随分と妙な匂いがするな……」


 そう言われ、修一郎も鼻をヒクつかせると、桐野の言う通り、何やら形容し難い匂いが流れてくる。

焦げたような、青臭いような匂い。

微かにわかるのは、魚の生臭さだ。

そしてその匂いの出所は兄妹の部屋だった。


 恐る恐る部屋に近付き、女達の後ろから中を伺う。 朱王と女の会話に、二人は思わず顔を見合わせていた。


 「ちょっと朱王さん! アンタこんなモノ海華ちゃんに食わせる気だったのかい?」


 土間に仁王立ちになった大柄な女が鍋を指差す。

朱王は何が何やらわからぬと言ったふうで、ただ、そうだ。と答えた。

これには周りの女達も呆れ顔、口々に『何か持ってくるよ』と言いながら部屋の前から去って行く。

後に残されたのは、修一郎と桐野だけだ。


 「邪魔するぞ、朱王、これは一体何の騒ぎだ?」


 いきなり顔をみせた修一郎に、朱王はあからさまに驚いた様子を見せた。


 「修一郎様……! 桐野様も!」


 「お前が飯の支度か? 海華はどうした?」


 襷掛けで包丁を持ったままの朱王を桐野は物珍しそうに眺めている。

慌てて包丁を置いた朱王は、気まずそうに頭を掻いた。


 「海華が熱を出しまして……」


 「なに!? 海華が熱を? 大丈夫なのか?」


 酷く心配そうな表情で修一郎が部屋を覗く。

奥に敷かれた布団ではハァハァと荒い息が微かに聞こえ、継ぎ接ぎの上掛けが小さく上下している。

修一郎は畳へと上がり込み、布団を覗いた。


 「海華? 大丈夫か?」


 「あ、修……一郎様」


 赤く上気した頬がふにゃりと歪み、潤んだ瞳が瞬いた。


 「苦しくはないか? ん?」


 「平気、です。薬飲めば、すぐ治ります……」


 とは言うものの、熱が下がるのは薬が効いている時だけ。

効果が切れればまた上がるのだ。

トロンとした目が閉じられ、ふた合足袋静かな寝息がこぼれる。

それを確かめた修一郎は、持参した酒壺を横に置き桐野と朱王も畳へと座った。


 「飯はしっかり食えるのか?」


 こちらも心配顔で海華を見遣る桐野。

朱王は小さく頷いた。


 「粥くらいなら、何とか……ですがそれだけでは体力がつきません。それで……」


 「お主が飯をこしらえた訳か。ところで、何を作ったのだ?」


 そう言った桐野が竈に掛けられた鍋に視線を移す。

が、何故か朱王は口ごもるだけで答えようとはしない。


 「入りますよ!」


 威勢の良い声と共に、ガラリと戸口が開かれた。

そこに立っていたのは、子供を背負った肉付きのよい中年女、同じ長屋に住んでいるお多喜だ。

お多喜は鎮座する侍二人に少しばかり狼狽えながらも、ペコペコと頭を下げる。

その手には中鉢に入った煮物があった。


 「お客様ですか。――あぁ朱王さん、これ海華ちゃんと一緒にお上がりよ」


 「お多喜さんすまないな、手間かけさせて…… 有り難く頂くよ」


 小さく微笑み、土間へ降りた朱王が料理を受け取る。

お多喜はケラケラと人の良い笑いを見せた。


 「いいのサ、たかだか二人分位手間なんざ掛からないよ。それよりさ、次からはあたしらに言いな。胡瓜の煮付けなんか食べさせちゃ、海華ちゃんが可哀想だよ」


 胡瓜の煮付け、それを聞いた修一郎と桐野の表情が一気に固まる。

朱王の弁解も聞かず、お多喜は海華ちゃんに宜しくね、と言いながら帰ってしまう。

すると、やおら桐野が立ち上がり、土間へと降りて竈に掛かった鍋の木蓋を開ける。

朱王は止める間も無かった。

蓋を手にしたまま、桐野は頬を引き攣らせて鍋の中を凝視したまま固まってしまう。


 桐野の視線の先にあるモノ、それは並々と入れられた醤油の池に浮かんだ二本の胡瓜だった。

クタクタに煮付けられ、色は真っ茶色に変色して年寄りの手かと思う程に皺くちゃだ。

桐野は、小刻みに震える手で横に置かれたもう一つの鍋を覗く。


 「朱王よ……コレは、何と言う料理だ……?」


 「魚の煮付けですが……」


 頭、胴体、尻尾とぶつ切りに三等分され、醤油だけで煮しめられた魚は鱗もヒレも取られていない。

ドロドロと気味悪く浮いているのは、多分内臓だろう。

剥がれた鱗がキラキラと浮く煮汁、熱で白く濁った目が不気味に桐野を見据えている。

そして、お多喜が帰った後も、続々と長屋の女達が料理を持参して部屋を訪れた。


 『朱王さん、もう包丁は持たないほうがいいよ』


 女達は口々にそう言い残して帰って行く。

鍋の中身を見てしまった桐野と、今だ鍋蓋を持ったまま唖然と中身を眺めている修一郎も、同じ意見だった。

およそ食い物とは思えない代物だ。

こんなモノを食わせられては熱が下がるどころか、腹を壊すのは目に見えている。


 「明日は……雪乃に頼んで何か作らせようか?」


 「志狼に言って海華殿が食えそうな物を持って来させるか?」


 二人は心配そうに提案する。

しかし、朱王は苦笑いしながら首を横に振った。

二人にそこまで迷惑を掛ける訳にはいかないし、飯の事なら長屋の女達が何かと協力してくれるだろう。


 「私はもう料理はいたしませんので、どうかご心配無く」


 「そ、うか? ならばよい。間違ってもコレは食わせるなよ」


 そう念を押しながら言った修一郎は案じるような表情で寝込む海華へと目を遣る。

その時、ゆっくりゆっくり海華の薄い目蓋が開かれ、焦点の合わない虚ろな瞳が何かを探すように揺らめいた。


 「母ぁ、様……? どこ、行った……の?」


 うわ言じみた呟き。

朱王は慌てて布団へ向かい、赤く染まった顔を覗き込んだ。


 「海華、あの人は来ていない。……な? 来ていないんだ」


 「来て……ないの? なんで……?」


 潤んだ瞳から、ポロリと涙が一粒こぼれる。

朱王が目元を拭い、頭を数回撫でてやると再び目蓋が閉じられ小さな寝息が聞こえる。

眠った事を確認し、朱王は修一郎らに向き直った。

海華のこぼした呟きが聞こえたのだろう、二人は酷く難しい顔をしていた。


 「申し訳ありません。熱でうなされていて……」


 すまなそうに頭を下げる朱王に修一郎は静かに頭を振った。


 「よいのだ。その……朱王よ。今の母様とは……もしやまた、母上がお前達の所に出てくるのか……?」


 恐る恐ると言ったふうに修一郎が口を開く。

桐野も同じ事を思っているようだった。


 「いえ、お静様ではございません。――産みの母です。どういった訳だか、二、三日前から、『出て』くるのです……」


 言いにくそうに朱王が呟く。

修一郎の前だ、当然だろう。


 「海華は……物心ついてから一度も母に会った事はありません。ですから、顔がわからぬ、のっぺらぼうだと言って……」


 「なに、自分の娘に一度も会いに来なかったのか?」


 意外そうに目を見開いた桐野。

朱王の頭が緩く振られた。


 「来たのです。肺病で死ぬ直前に一度だけ……父上様がお連れ下さいました。ですが……」


 苦し気に朱王の表情が歪み、膝に置かれた手がギリギリと握り締められる。


 「私が……私が、海華には絶対に海華には会わせぬと、追い返したのです……」


 俯き加減の朱王、呻くような声が震える唇から漏れ始める。

朱王が初めて母親の顔を知ったのは、ちょうど三つの頃だった。

物心ついた時から閉じ込められていた布団部屋、世話をしていた乳母の気紛れで朱王は夜の、一番賑わう店の中を目にする事となる。


 客が溢れ、賑やかな遊女らの嬌声と響く三味線の音。

芳しい香と白粉の匂いが鼻をくすぐる光に溢れた店内。

暗く、埃臭い小部屋が全ての世界だった朱王には、まるで極楽、別世界に思えた。


 ――あの人がアンタのおっ母さんだよ。綺麗だろ?――


 柱の陰に隠れ、まじまじと店内を見詰める朱王に乳母はある遊女を指差した。


 そこには豪奢な刺繍が施された深紅の着物、高々と結い上げられた髪には高価な鼈甲べっこうの櫛と、きらびやかな金銀の簪を挿した細面の女が立っていた。

綺麗に化粧され、沢山の人々に羨望の眼差しを注がれるかくの高そうな遊女……。


 これが朱王が初めて見た母親の姿であり、初めて『美しい』と感じたモノだった。

一心に母を見詰める朱王の後ろで、乳母がため息混じりに呟く。

その一言が、朱王を奈落の底へと突き落としたのだ。


――アンタさえ産まれてなけりゃねぇ。八ツ葉さんも、今頃は太夫になれてたのに――


 その言葉を聞いた刹那、朱王の中で母親に対する恋慕の気持ちが、一気に憎しみへと変わった。

自分なんて産まなければ良かったのだ。

あんな所へ閉じ込めて、一度も会いに来ないで……。

まだ年端もいかない頃に芽生えたこの気持ちは、今だ朱王に暗い影を残したままだった。


 「ずっと独りで生きていました……世話をする乳母と、たまにお見えになる父上以外、私は物と同じ、放って置かれたままです」


 布団部屋から出るのは、厠と風呂の時だけ。

勝手に出れば手酷く殴られた。

話す相手も無く、昼間は外から聞こえる物音に耳をすませ、夜は空気取り窓から見える月を眺めて過ごす毎日。

息絶えるまで続く、地獄のような無意味な毎日、時間の浪費……。


 「死んでいるのと、何も変わりません」


 修一郎と桐野は一言も発せず、ただ黙って聞いていた。

何も言えないのかもしれない。


 「それでも……海華が来てから私の世界は一変しました。 ……修一郎様、一つお尋ねしても宜しいでしょ うか?」


 ゆるりと面を上げる朱王の突然の問い掛けに狼狽えながらも、修一郎はカクカクと頷く。

朱王の唇が小さな笑みを形作った。


 「修一郎様は……独りにされる寂しさや辛さを、いつ頃お知りになられましたか?」


 「な……に? 独りの寂しさだと?」


 深々と腕を組み、頭を捻りながら考える。

思えば、完全に独りぼっちになった事などあっただろうか。

若かかりし頃は、父母がおり、周りには沢山の友がいた。

勿論、朱王兄妹も入っている。

今は、妻もいるのだ。


 「すまん……覚えておらぬ」


 「儂もだ」


 ガクリと肩を落とす修一郎と、苦笑いを見せる桐野。

小さく頷きながら、朱王が言った。


 「そのような事、覚えていないのが当たり前です。……ですが、私は……」


 覚えているのだ。

昨日の事のように、はっきりと。


 「独りぼっちの辛さは、海華が来てから初めて知りました……」


 暗くて狭い部屋で、ずっと独りでいた。

朱王にとって、それが当たり前の日常、本当に独りの者は独りぼっちが辛いなどと思うはずがないのだ。

海華が朱王の元に来たのは、朱王六つの時。

海華は、まだ一歳になったばかりの赤ん坊だった。

連れて来たのは、店の女将。


 ――この子はアンタの妹だよ。表には出しておけないから、ここでアンタが面倒見るんだ、いいね?――


 そうきつい口調で言い付けられ朱王は唖然としながら、眠っている海華を受け取った。


 ――名前は海華だってさ。大きくなったら、ウチの大事な商品になる子だからね。傷なんかつけちゃ、タダじゃおかないよ。――


 ギロリと朱王を睨み付け、女将は部屋を出ていった。

この時から、今まで無機質で温もりの無かった生活に『妹』と言う小さな、暖かい存在が加わったのだ。


 「初めは鬱陶しく思っていました。私も、まだ六つの子供でしたから」


 乳離れができるまでは、こまめに乳母が訪れた。

それ以外は朱王が不慣れながらもオシメを代え、飯を喰わせて遊び相手にもなった。


 「それでも、世話を焼けば焼くほど可愛くなってきて……海華が側に居るのが当たり前に感じていました」


 固かった朱王の表情が、フッと和らいだ。

その気持ちは、修一郎にも痛い程にわかる。

兄妹と同じ屋根の下で暮らすようになった時、 修一郎も同じ気持ちになっていたのだ。


 「海華が初めて歩いた時、初めて私の名前を呼んだ時、どんなに嬉しかったか……逆に、離されると酷く辛かった」


 海華は女だから、将来は間違いなく遊女になる。

幼いうちから店に慣れるようにと、昼間度々女将によって連れ出されていた。

実際は、何をされていたのかわからない。

ちゃんと戻ってくるのだろうか、打たれて、泣かされてはいないだろうか……。

独り残されている間、不安と寂しさがつきまとう。

海華が戻されるまでが、とてつもなく長く感じた。


 「私が八つの時でした。夜中、父上様が母を連れて来たのです」


 朱王の手が、固く握り締められた。

顔色は今までとは一変、紙のように白くなっている。

修一郎がゴクリと生唾を飲み下す音が聞こえた。


 今でも鮮明に覚えている。

月も隠れる真夜中、二人は既に眠りについていた。

ふと、部屋の戸が開けられる気配で朱王は目を覚ます。

廊下から射し込む蝋燭の逆光に浮かび上がった二つの人影……。

朱王、起きておるか? との呼び掛けに、影の一人は父だとすぐにわかった。


 抱き抱えるように横にいるもう一人は、誰だかわからない。

父親に近寄り、初めてその人物がはっきりと見えたのだ。

骨と皮ばかりに痩せこけた女だった。

土気色をした艶の無い肌、バサバサに乱れた油っ毛の無い髪は、所々白い物が混ざっている。

皺が寄った顔、目だけがギラギラ異様な光を放って朱王を凝視していた。


 ――朱王、お前の母上だ――


 父親の口から発せられた言葉に、朱王の体が凍り付く。

目の前にいる幽鬼のような女が母親など、にわかには信じられなかった。

遥か昔、遠くから垣間見た母親とは似ても似つかぬ容貌だ。

女は、骨ばかりの手を震わせて朱王に手を伸ばす。


 ――朱王……大きくなって……――


 乾いてひび割れた唇から、弱々しい声が響く。

汚れた浴衣からは強い汗と埃の混じる、すえた匂いが鼻を掠めた。

頬を包む手はガサガサに荒れ、欠けた爪が皮膚を掠める。

茫然と立ち尽くしたままの朱王、だが次の瞬間、母親の発した一言に五年前生まれた憎しみが烈火の如く再燃した。


 ――海華に会いたい……会わせておくれ――


 ――俺は、どうでもいいのか?


 頭が真っ白になり、気付けば頬にあった母親の手を払い除けていた。

会いたかったのは、海華だけか?

アンタも、俺はどうでもいいのか? 男の俺は邪魔だと思っているのか……?


 帰れっ! と朱王の口から怒号が飛んだ。

父親と母親は、酷く驚いた様子で自分達を睨み付ける息子を凝視していた。


 ――海華は、今まで俺が育てたんだ、今更アンタなんか必要無い。 海華には絶対に会わせない ――


 その刹那、ワアッ! と泣き叫びながら痩せた体が崩れ落ちる。

父親は慌てて母親を抱き起こし、なぜそんな事を言うのか、と朱王を怒鳴り付けた。

と、その騒ぎに眠りを妨げられたのか、暗い部屋の奥から、『お兄ちゃん』と海華の眠たそうな声がした。


 朱王はすぐに駆け寄り、布団の上へ身を起こす妹をきつく抱き締める。

どうしたの? と目を擦りながら、海華は首を傾げた。

その耳元で、朱王は小さくこう呟いたのだ。


 ――鬼が来た――


 ――鬼が、お前を拐いに来た――


 途端、火が付いたように海華が泣き叫ぶ。

怖いよ、拐われる、お兄ちゃん助けて、と……。


 母親の泣き声は更に激しくなり、ほぼ慟哭に近いものとなる。

海華はますます怯え、兄にしがみつきながらとどめの一言を放った。


 ――出ていけ! 鬼は出ていけ! もう来るな! ――


 震える体をしっかりと抱き締め、朱王はギュッと目を瞑る。

ガタガタと扉の閉まる音と同時に、母親の慟哭がピタリと止んだ。

これが、朱王が生きた母親の姿を見た最後となったのだ……。


 「酷い男だと思われるでしょうね……」


 自嘲気味の呟きが朱王の口から漏れる。

修一郎も桐野も、一言も返せなかった。

重すぎるのだ。

八つの子供に与えられた選択、余りにも重たく厳しい現実と届かなかった母親への思慕。

自分達には到底、批判や糾弾など出来なかった。


 「完全に、私の独り善がりでした。……一度も顔を見にすら来なかった、世話もしなかった者に、私がお前の母だと海華に名乗って欲しくはなかったのです。……こんな事になるのなら……」


 自分の気持ちを押し殺しても会わせておくべきだった。

たとえ海華が母親と行ってしまったとしても、海華が幸せになるのなら、それで良かったのだ。

苦痛の表情を張り付かせ、朱王は片手で頭を抱えた。


 「……朱王よ、俺は、お主の取った行動は間違ってはいなかったと思っている。決して同情しているわけではないぞ。……ただな、母親の気持ちも、わかって欲しいのだ」


 桐野が顎を擦りながら、神妙な面持ちで呟いた。

二人が長屋を訪れた時、西の空で輝いていた夕日も今はすっかり沈み、辺りは暗い闇に閉ざされている。 朱王には、正面に座る修一郎達の表情は既に伺う事は難しくなっていた。


 「朱王、どこの世界に幼い我が子を放って平気な母親がいるか。犬や猫とて、産まれた子は懸命に育てるのだ。お前や海華と離れて暮らした母親が、どんなに寂しく辛い思いをしたか、儂はお前にわかって欲しい」


 諭すような桐野の言葉に、朱王はギュッと唇を噛み締めた。

それは朱王もわかっていた。

母親は普通の女ではない、遊女だ。

子連れの遊女などまず有り得ない。

引き離されるのは当たり前、しかし、それよりも憎しみが勝っていたのだ。


 「桐野様……、私は、私は今まで、ずっと母親を憎んで、そして忘れようとしていました」


 小さい頃に植え付けられた激しい憎しみは、簡単には消えない。


 「ずっと忘れようとしました。ですが、忘れられなかった。……もう、憎む事にも、疲れました……」


 全て、有りのままを素直に受け入れよう。

母親の思いも、自分の思いも……。


 「朱王。もしお前が自分の気持ちを整理して、海華にも母親の事を、どんな女だったかを伝えたいのなら、俺は力になる」


 じっと下を向き、腕組みをした修一郎がポツリと呟いた。


 「お前達の母親を覚えている者なら、まだ吉原辺りにおるであろう。お前がよいと申すなら、俺は……要らぬ世話だと言われようが、勝手に調べるぞ」


 闇に心地よく響く、低めの声。

修一郎の申し出に、朱王は『お願いします』と深々と頭を下げた。

数十年、心に籠った憎しみを解放するため。

そして、母親を何も知らないと嘆く海華へ少しでも母の面影を授けたいがために。


 あの布団部屋で凍り付いていた母親との時間が、今再び動き出そうとしていた……。


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