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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十六章 蜉蝣の面影
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第一話

 秋晴れの高い空、寺に向かう寂れた道の脇には彼岸花が朱い波となり、時折吹く涼やかな風に揺れている。

既に盆は過ぎ、寺へ向かう人は殆どいない。

夕方近く、長く伸びた影を引き連れながら、海華は一人寺へと急いでいた。

仕事の帰なのだろう、背負った木箱の角には赤蜻蛉が一匹止まり、透明に近い羽根を休めている。


 固く結ばれた彼女の口元、その右手には白と黄色の菊の花束が無造作に握られていた。

人目を気にしているのだろう、辺りを見回しながら境内を抜け、墓場へ足を踏み入れる。

墓石と墓石の間、狭い小道を通って、どんどんと奥へ進む彼女の足が、ある墓石の前でピタリと止まった。


 他よりも大きくて立派だが、古びた墓石。

周りは綺麗に手入れされており、雑草一つ生えていない。

墓に刻まれた家名は、『上条』。

上条家代々の墓、そう、それは修一郎の先祖が眠る墓だった。


 きっと雪乃が手入れをしているのであろう。

しかし盆に墓参りを行った後、訪れる人はいなかったのか茶色く色の変わった菊の花が墓に供えられていた。

海華は淡々と枯れた花を片付け、持参した菊を供える。

そして墓石の前にしゃがみ込み、静かに手を合わせた。


 「お願いですから……今年は兄様の所に来ないで下さい……」


 哀しげな、どこか怯えたような呟きが口からこぼれる。

そう、ここに眠るのは修一郎の先祖、そして朱王と海華の父親と養母だ。

兄妹にとっては一番来たくない場所、自分が殺めた者の墓に手を合わせる。

なんと心苦しいことか。


 海華も今まで一度も訪れた事は無い。

来てはいけない場所だとも思っていた。

だが、また去年のような目には遭いたくない。

もうこれ以上、兄が苦しむ様子を見るなど海華には我慢ならなかった。

だから一念発起し、今日ここを訪れたのだ。

直接、養母のお静に頼むために。


 お願いだからもう許して欲しい、出るなら、自分の所へ来てくれ、と。


 サワサワと乾いた風が頬を撫でる。

夕闇迫る空、巣に帰る烏がギャアギャアとけたたましく鳴きながら頭上を飛び去った。

海華の身体に寒気が走った。


 墓石の下から、今にもお静が姿を現しそうだ。

自分の足を掴み取り、一気に地獄の業火へと引き摺り込まれる映像が彼女の脳裏にハッキリ浮かぶ。

海華は弾かれたように立ち上がった。

そして後ろも振り向かず、足を縺れさせながら墓場から脱兎の如く走り去る。


 背後では、供えたばかりの菊花が吹き抜ける風に揺れていた。






 その日の夜、長屋に帰った海華は突然高熱を出して寝込んだ。

季節の変わり目に、海華は何時も熱を出す。

朱王が慣れない手つきでこしらえてくれた重湯同然の粥を食べ、熱冷ましの薬を飲んだのだが、一向に良 くはならなかった。


 「きっと疲れが出たんだろう。しっかり食べて寝ていれば治るさ」


 布団の中で顔を紅潮させている海華の額に浮かぶ汗を拭き取り、濡れた手拭いを乗せた朱王が慰めるような声色を出す。

熱に浮かされ、潤んだ瞳でボンヤリと兄を見遣る海華が、ゆるゆると首を縦に振った。

墓場で感じた寒気は、発熱の前兆だったのか。


 「寒くないか?」


 「うん……大丈夫……」


 酷く弱々しい返事が返る。

明日まで下がらなければ伽南かなんの所へ連れて行かなければならない、朱王はそう思いながら案じるように妹を覗き込み、頬に張り付いた髪を指先で取り除く。

海華がフニャリと力無い笑みを見せた。


 「ごめんね、ご飯は……しばらくお福さんのとこで、食べてきて……」


 「馬鹿、飯の事なんかどうにでもなる。お前は、ゆっくり休め。何の心配もいらないから、早く治せよ?」


 苦笑いを浮かべた朱王にクシャクシャと頭を撫でられ、再び小さな笑みを見せる海華。

彼女はそのまま引き込まれるように眠りの世界へと堕ちて行く。

完全に眠った事を確かめた朱王は、布団を首元までしっかりと引き上げてやり、自分は作業机に戻って、残っていた仕事を再開したのだ。





 サワサワと冷たい風が熱のこもった頬を撫でた。

額に乗せたままの手拭いは既に温く、肌に張り付いて気持ちが悪い。

もう一度絞り直そう、と海華は気だるい体をノロノロと起こした。

手拭いが滑り落ちた時、鼻先を嗅ぎ慣れない匂いが掠める。

濃い汗と埃の混じった鼻につく匂い、閉め切っていた箪笥を開けた時の、古臭い匂い……。


 長持ちでも閉め忘れたのか? 熱に浮かされた頭でそう考えつつ、海華はゆっくりと長持ちが置かれた部屋の右に顔を向けた。

長持ちの蓋はしっかりと閉まっている。

しかし、海華の目は長持ちとは違うモノに釘付けになっていた。

ヒビの走る土壁、その前に蛍のように光る塊があった。

燐光の如く青白くボンヤリ闇に浮かぶ塊、よくよく目を凝らすと、それは一人の女の姿に見えた。


 結い上げた髪はほつれ、骨と皮ばかりに痩せた身体は柳のよう。

薄汚れて皺だらけの浴衣を乱雑に纏い、はだけた胸元からはクッキリと浮かんだ肋骨あばらぼねが見 える。

膝を崩して座り、項垂れているため顔は見えない。

海華が生唾を飲み込む音が喉から鳴り、全身からは熱のせいでは無い汗噴き出す。

助けを求めるように右隣の兄に目を遣るが、完璧に熟睡しているようだ。


 ゆっくり、女の顔が上がり出す。

ほつれた髪が一筋、痩せこけた頬に掛かり、女は完全に顔を海華に向けた。

その瞬間、海華は、ヒッ! と上擦った小さな叫びを上げる。


 女の表情は……わからないのだ。目も鼻も口も無い、ただ青白く光るのっぺらぼうなのだ。

ガチガチ歯の根が合わない海華は恐怖のためにその場に固まり、ただ布団の端を握り締めるしか出来なかった。


 「海華……」


 微かな呼び掛けが、夜の空気に溶けていく。

口も無い女から発せられた透明な声色、温度を感じさせない冷たく乾いた声色……。

それは頭に直接染み込むような響きだ。


 「……だ……れ?」


 口内はカラカラに渇き、舌を縺れさせながら海華は呻く。

女を包む光が強さを増した。


 「――お前、……の顔を、忘れたの……?」


 ずっと、会いたかった……。


 脳髄に染みる冷たい声。

痩せ干そった腕がスゥッと伸ばされる。

ボロボロに欠けた爪、カサつき、干からびた指先……。


 「にっ……兄様っ! 兄様――っ!」


 戦慄く唇から兄を呼ぶ悲鳴にも似た叫びが迸る。

尋常ではないその叫びに、布団を跳ね退けながら朱王が飛び起きた。


 「どうしたっ!?」


 「兄様……! あれっ……!」


 飛び起きた朱王に渾身の力を込めてしがみ付き、小刻みに震える海華の指が女を指す。

彼女の指の向く方向を見た朱王はその顔に驚嘆の表情を浮かべ、光る女を凝視した。

が、次の瞬間、彼の驚きの感情は激しい怒りに塗り替えられる。


 「貴様ァッ! ……今更なにをしにきたっ!?」


 怒髪天を衝き烈火の如くに朱王が怒鳴る。

そんな彼に圧倒されたかのように女の姿がフラフラと揺れた。


 「なぜ出てきた!? 帰れッッ! とっとと失せろッッ!」


 まなじりを一杯に吊り上げ、拳を固く握り締めて怒り狂う彼の姿は、まるで鬼のようだ。

海華は固まったまま、呆然と兄の姿を見ていた。


 一人は、寂しい……。


 再び頭に響く、酷く弱々しい声。

しかし朱王には聞こえていないようだった。

やがて女は崩れ落ちるように畳へと伏せ、蝋燭の灯りが吹き消されるように青白い光と共に闇へと消え去った。

後には、汗と埃の混じる嫌な匂いが、うっすらと漂うだけ。

怒りに体を戦慄かせ、荒い息をつく朱王と縮み上がって震える海華の前には、ただ漆黒の闇が広がっているのみだった……。





 まんじりともせず夜を明かした二人。

朱王はしかめっ面を崩さず、海華の熱は昨日よりも上がってしまった。

兄のこしらえた粥を食べる間も、二人の間に会話らしい会話は殆ど無い。

二人の気持ちを現すかのように、昨日は秋晴れだった空にもドンヨリとした厚い暗雲で覆われ、今にも雨が降りだしそうな空模様だ。


 飯を終えた海華は額に濡れ手拭いを乗せ、再び布団へ横になった。

そんな彼女の横で朱王は出掛ける支度をし始めていた。


 「兄様? どこ行くの?」


 心細そうな、弱々しい声色で海華が尋ねる。


 「先生の所だ。薬をもらってくるよ」


 「そう……。ねぇ兄様、昨日の人って……」


 恐る恐る昨夜の話しを持ち出すと、案の定、彼の眉間に深い皺が刻まれる。


 「兄様の知ってる人なの? あたし聞こえたの。ずっと逢いたかったって。一人じゃ寂しいって……」


 「海華、それは空耳だ。熱のせいだよ」


 「違う! ちゃんと聞こえた。ねぇ、あの人は誰なの?」


 自然と海華の声が厳しいものに変わる。

しかし、朱王は何も教えてはくれなかった。


 「海華、もう忘れろ。お前は……」


 「どうして教えてくれないの!? あたし、ずっと考えてた。あの人はあたし達の……」


 「もういい、忘れろと言っているだろう!」


 海華の台詞を遮るよう怒鳴った朱王。

伝えたかった言葉は最後まで口から出ることは無く、唇を噛み締めたまま海華は天井を睨み付けた。

土間の方から兄が立ち上がる気配がし、 静かに戸口が開かれる。


 「――お前の事は、おさきさんに頼んで行く。 俺もなるべく早く帰るから……。何も案じる事はないから、大人しく寝ていろ」


 そう言い残し、朱王は表へ出て行った。

パタンと戸口が閉じられた瞬間、海華は乱暴に布団を引き上げ、すっぽりと頭から引っ被っていた。





 伽南から薬を受け取った朱王の足は真っ直ぐ妹の待つ長屋へは向かなかった。

鉛色の厚い雲、今にも降りだしそうな中を向かったのは色街、吉原の近くに建つある寺だ。

そこは俗に言う遊女の投げ込み寺、一人一人に墓が有るわけではなく、纏めて葬られ、慰霊碑だけが寂しく墓場近くに建っている。


 古ぼけた碑の前に、顔をしかめた朱王が立った。

昨夜自分達の前に現れた人外の女は、ここに眠っているはずだった。

湿気を帯びた空気が全身を包み、肌にまとわりつく。

朱王は大きく息をついた。


 「なぜ出てきた……? なぜ今頃になって……」


 憎々しげな呻きが口をつく。

忘れたかった、忘れようとしてきたのに……。

ポツポツと雨粒が頬を叩く。

黒い着流しに吸い込まれた粒は、着物により黒いシミを作り出した。


 「会いたかった? 一人じゃ寂しい? ――都合のいい事をぬかすな。生きている間は一度も……」


 会いに来なかったくせに……。


 鋭い眼差しが石の碑を射る。

海華には聞こえた声、それすら朱王には聞こえない。

雨脚の強くなった墓場の前、地を這うように響くのは朱王の怨みに満ちた呻きだけだった。


 「もう、俺達には構うな。放っておいてくれ。――海華は……あんたの顔すら知らないんだ……」


 手のひらに爪が食い込む程強く、握り締められる。

ぐっしょりと濡れた黒髪。

鼻先からは、ポタポタと雫が滴り、胸元を冷たく濡らしていった。


 雨脚は次第に強くなり、朱王は頭の先から爪先までびっしょりと濡れたまま家路を急ぐ。

昼間だと言うのに、辺りは薄暗く、遠くからは重たい雷鳴が轟いていた。

長屋に着き、静かに戸口を開くと中は夜と思われる程に暗く、部屋の真ん中に敷かれた布団では海華が横になり、ボンヤリと天井を見上げている。


 「お帰りなさい……雨、酷かったでしょう?」


 戸口を開けた音に気付いたのか、海華は顔だけを兄に向けた。


 「ああ。それよりも具合はどうだ?」


 髪から垂れる水気を軽く切り、朱王が中へと入る。

湿気のためか、ささくれた畳は僅かに湿っていた。


 「相変わらずよ。さっき、おさきさんが来てくれてね。……兄様も風邪引くわよ、早く着替えて……」


 自分の横に座った兄を見て、海華は僅かに眉を寄せた。

まるで濡れ鼠だ。

額に当てられる手のひらも、すっかり冷えている。


 「すっかり秋だな、雨も冷たくなったもんだ。 ――薬、もらってきたから、ちゃんと飲めよ」


 そう言って懐から出された紙袋。

雨が染み込み、所々色が濃く変わっていた。

海華は、ありがとう、と呟いて上掛けを鼻の下まで引き上げる。


 「兄様が行った後ね……また、あのひとが出てきたの……夢の中の話しだけど」


 部屋の奥、濡れた着流しをはだけ、手拭いで身体を拭いていた朱王の手がピタリと止まった。


 「また……あの女が?」


 恐る恐る聞き返し、後ろを振り返る。

海華は天井を見上げたままだった。


 「昨日と同じ格好で……やっぱり顔が無いの。 目も口も鼻も……。『どうして母親の顔がわからないの?』『独りぼっちは寂しい』って、 ――ずっと泣いてるのよ……」


 ――母様かぁさまだったのね。


 ポツリと寂しげな響きが海華の口からこぼれる。

手早く新しい着流しを身に付けた朱王は、再度妹の横に胡座をかいた。


 「海華、仮にな、その女が……母さんだとしても、お前が顔を知らないのは当たり前なんだ。 だってお前は二つか三つの時に、俺と布団部屋へ叩き込まれたんだぞ?」


 熱っぽい頭を兄の手が撫でていく。

しかし、海華は納得しなかった。


 「兄様は、母様の顔覚えてるんでしょ? だから、昨日あの人が来た時すぐにわかったんでしょ? あたしは……何も知らないの。顔も、どんな人だったかも……」


 くしゃりと海華の顔が歪み、目尻から一筋涙が流れる。


 「何も覚えてないし、聞いても誰も教えてくれない。わかるのは、遊女だった事と死んだ事だけよ」


 「海華落ち着け、お前は……」


 「自分を産んだ人の事すらわからないなんて……顔すらわからないなんて……あたし酷い娘だわ……」


 自分の中の母親は、顔の無いのっぺらぼう。

母様と呼びたくても、呼べないのだ。

顔を両手で覆い、しゃくり上げる妹に、朱王は 何も言えなかった。母親だと気付いた以上、忘 れろと言うのは余りにも酷な話しだ。


朱王とて、母親の顔は遠くから一度垣間見たく らいだ。 どんな女だったかなど、到底わからない。 それに、母親の事を口にすれば、出てくるのは 恨み節だけだから。


「――お前が気に病むことは無いんだ。顔を知 らないのは、お前のせいじゃない……。」


額に当てた手拭いを外し、涙を拭ってやる。

涙を一杯に溜めた瞳で見詰められ、胸の奥がチクリと痛んだ。

顔がわからないのは海華のせいでは無い。

これだけは断言できた。

なぜなら、海華に母親を会わせなかったのは他でもない、朱王自身だったからだ。


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