第四話
「そう動くと怪我をしますよ?」
嘲るような声と共に、右側にいる人物が朱王に滑るように近付く。
バサリと頭巾が外され、視界一杯に黒髪が広がった。
その合間から笑みの形に歪んだ赤い唇が覗く。
あの女教祖、白麗だ。
「貴……様、何の……真似だ?」
縺れる舌を無理矢理動かし、朱王は精一杯彼女を睨み付ける。
しかし既に意識は朦朧のため、その目はボンヤリと女を見詰めるようにしか見えない。
「何の真似かって? それは白露、貴方から教えおあげなさいな」
女がサッと振り返り、もう一人の白装束へ声を放った。
「俺が? ……ったく、姉さんは面倒事はすぐこっちに押し付けるからな」
若い、青年の声で答えたもう一人の白装束がスルスル足音も立てずに歩み寄る。
そして朱王を覗き込むように顔を寄せ、頭巾へと手を掛けた。
「う、わっ……!?」
頭巾が剥ぎ取られ、素顔が晒される。
それを目の当たりにした瞬間、朱王は思わず驚嘆の微かな叫びを上げて息を飲んだ。
左の頭から胸元にかけて、がさがさとした固い瘡蓋状のものが肌を覆っている。
ぼこぼこと盛り上がる灰色のそれに覆われた頭は髪の毛が生えておらず、右側にバサついた房状の毛が幾つか垂れているだけだった。
「姉さんの言ってた人形師ってのはコレか。なるほど、綺麗な面してるねぇ。まぁ、アンタは俺と信者達の薬になるんだ。痺れ草の煙で動けねぇだろ? もう諦めるこったな」
赤い口を開けて男が笑う。
その度に左の顔面を覆った鱗がギシギシと擦れた音を立てた。
「人の部屋に、蛇を投げ……込んだのも、お……前らか? 川での、殺しも……」
顔を上げる力も失われ、床に頬を付け朱王が苦し気に呻いた。
ゲラゲラと男女の高笑いが痺れた頭に反響する。
「ああ、そうだ。物乞いに混じりながら手頃な獲物を探してた。アンタの所は……ちょっとからかってみただけだ」
「こんな短い間に獲物が二匹。ツイてるねぇ。 白露、話しはもう切り上げてさっさと殺ってしまいなさいよ。あの小娘が押し掛けて来たら厄介だからさ」
「そうだな。……まぁ、来たら来たで兄貴と同じにするだけだ」
ニタリと片方の頬を上げる白露と呼ばれた男は、唐突に袂から縄と手拭いを取り出した。
手拭いを丸め、朱王の口に押し込むと縄で手荒く後ろ手に縛り上げる。
指先ひとつ、ピクリとも動けない朱王はただ悔しさを滲ませながら、されるがままになるしかなかった。
「さてと、こりゃ一人で運ぶのは無理か」
「そうだね。ああ、ちょっとお待ち」
そう言って女は頭巾を被り直し、部屋から出て行く。
男も同じ様に再び顔を頭巾で覆った。
暫くして、女が戻って来た時には後ろに相撲取りのような巨漢の男を一人従えている。
「ソレを裏小屋までお運び」
ぞんざいな口調で女が命じる。
巨漢の男は、へい、と一言、朱王の身体に分厚い手を掛け、軽々と肩に担ぎ上げた。
男の肩が腹にめり込み、口も塞がれている息苦しさに、朱王の目尻にジワリと生理的な涙が浮かぶ。
「残念だけど、これでお別れね」
薄気味悪く笑う女の白い手が朱王の頬を撫でた、その時、表からけたたましく戸を叩く音と、何やら大声で叫ぶ女の甲高い声が飛び込んできたのだ。
その声を耳にした途端、朱王の瞳が大きく見開かれ、必死で手拭いを吐き出そうと舌を蠢かす。
「噂をすれば……妹が来たようだねぇ。あっちはアタシに任せて、白露、貴方は事を進めなよ」
「そうか? なら姉さん頼んだぜ」
二人は顔を見合わせて軽く頷く。
女はそのまま部屋を出ていき、担がれた朱王は男と共に祭壇の裏にある隠し扉から外へと連れ出された。
太陽の下へ出た瞬間、朱王の耳に入ったのは 『兄様はどこにいるのっ!?』と悲痛な声色で叫ぶ海華の声だった。
廃寺の朽ちかけた玄関を叩き壊さんばかりの勢 いで海華の拳が打ち付けられる。
周りには何事があったのかと信者達が続々と集まっていた。
「開けてっ! 開けなさいよ! 兄様、いるんでしょっ!?」
大声で喚き散らす海華の後ろでは、桐野らが信者の幾人かを掴まえ、教祖はどこだと問い詰めていた。 しかし、どれもこれも俯いたまま固く口をつぐんでしまう。
何とか言わねぇかっ! と、こめかみに青筋を浮かべた忠五郎が声を張り上げたその時、ギシギシと古木の軋む音と共に白い頭巾を被った教祖が海華達の前に姿を現した。
「どうしたのです、騒々しい……おや、貴女は……」
女は海華を見て小首を傾げる。
汗の滴る顔を紅潮させ、海華は叫んだ。
「兄様どこっ!? ここに来てるんでしょっ!? 出して……早く兄様をここに出して!」
「兄様……? ああ、朱王さん。いいえ、ここにはみえていませんよ」
嘘よ! と一声、海華は飛びつくような勢いで女の襟元に掴み掛かる。
「ここの信者と歩いてるところ見たんだから! 出してよ! 兄様返してよっ!」
今にも殴り掛かりそうな剣幕の海華を、見兼ねた桐野が女から引き離す。
女は、お前は誰だと言うように桐野を見遣った。
「北町奉行所の者だ。本当に朱王は来ておらぬのだな?」
そう低く発した桐野の鋭い眼光が女を射る。
しかし、女は自身たっぷりに、おりません、と返した。
「そうか、だが、一応中は調べさせてもらうぞ」
一言言い放ち、彼はチラリと海華へ目配せする。
その途端、海華は女を突き飛ばすようにして脱兎の如く寺の中へと飛び込んで行った。
寺の裏側に建つ壊れかけた古小屋。
小屋と言っても、軽く二十畳程はあり、樽や桶、その他の雑品が無造作に置かれた所だ。
前方は舞台のように一段高く造られており、朱王はそこへ縛られたまま転がされていた。
朱王を運んできた巨漢は既に姿を消し、白い頭巾を脱いだ鱗の男と二人きり。
男は先程から、舞台下に置かれた大鍋に火をくべて訳の判らぬ草やら肉片やらを煮ている。
グツグツと煮立った鍋からは、生臭さと焦げ臭さが入り交じった吐き気を催す臭気が湯気と共に立ち上っていた。
と、燃え盛る火へ薪を投げ入れた男がおもむろに立ち上がり、暗い部屋の隅へと姿を消す。
蝋燭等の灯りは無く、壊れて隙間の開いた木の壁や天井から数筋の光りが帯となって射し込むだけだ。
「さぁて、こっちの準備は済んだ。後はアンタの番だぜ?」
ニタニタと気味悪い笑みを浮かべ、男は手にしていた物を朱王の前に突き付ける。
それは鈍く光りを放つ、牛馬を解体する時使う大型の刃物だ。
目の前に切っ先を突き付けられ、朱王の背中に冷たい汗が流れた。
男は、朱王の口に詰め込まれていた手拭いを乱暴に引き抜く。
激しく咳き込み、空気を求める朱王の前にしゃがみ込み、その長い黒髪をグイッと鷲掴んだ。
「生きたまま腹裂かれるのは苦しいだろ? 先にそのお綺麗な顔の皮、剥いでやろうか? そうだ、剥いだモンは長屋に放り込んでやるよ。妹も喜ぶだろうなぁ?」
にやける度に、鱗がザリザリと擦れる。
「黙れ、この……外道!」
痺れが廻り、上手く動かない唇で罵りの言葉を吐く。 間髪れずに髪を掴んだまま舞台へ激しく顔を打ち付けられ、視界に火花が飛んだ。
「口の減らねぇ奴だ。まぁいいさ、そんな口もきけねぇくらいに、うんと苦しませて殺してやるよ」
そう吐き捨てられ、再び髪を掴み上げられる。
冷たい刃が首筋に当てられた、その瞬間、ドカン! と空気を震わす破壊音と共に入り口が吹き飛び、小柄な人影が転がり込んで来た。
「あ! 兄様っ!」
「海華……か!?」
打ち壊した戸口の木屑にまみれた海華が、悲鳴に近い叫びを上げた。
兄の首へ凶器を突き付ける男の顔が、射し込んだ光りに浮かび上がる。
海華は驚愕に目を見開き、数歩後退った。
「こりゃいいや。獲物が向こうから来てくれた。大声出すなよ、兄さんの首が飛ぶぜ?」
ニタニタと笑いながら、男は刃を朱王の首筋へ押し付ける。
「わかった、静かにするから、それ以上は止めて!」
無理に顔を引き上げられ、苦痛に歪む兄を目の当たりにして海華は生きた心地もしない。
表情を強張らせ硬く口を閉じる彼女を前に鱗の男、白露は満足そうに頷いた。
「よし、いい子だ。次は……こっちへ来な。先にお前から片付けてやる」
「止めろ! うわ……ッッ!」
またしても強か舞台へ叩き付けられ、朱王の口の中に苦い味が広がる。
助ける事も出来ず、叫びも出来ない海華は、悔しさにギリギリと唇を噛み締めた。
が、男を睨むその顔に、突如ニタリと重い笑いが浮かぶ。
次に妹の口から飛び出た言葉に、朱王は頭の中が真っ白になった。
「いいわ、もう面倒臭くなっちゃった。ちょっとアンタ! その人、好きに殺っていいわよ」
妙に明るいその声と表情に男は方眉を上げ、次に暗い笑みをこぼす。
反対に朱王は信じられない様子で、裂けんばかりに瞳を見開いた。
「へぇ……本当に殺していいのか?」
凶器を朱王に向けたまま、男はニタニタと笑う。
海華も同じ表情を見せ、小首を傾げた。
「だからいいって言ったじゃない。聞こえなかったの?」
「お前、海華! 冗談だろ? どうして……」
戦慄く唇で朱王が呟いた。
あまりの衝撃に、顔色は真っ青に変わっている。
「どうしてって? あたしはね、もうウンザリなのよっ!」
甲高い叫びと同時に、海華が足元に転がっていた桶を力一杯蹴り飛ばす。
ガン! と派手な音を立てて飛んだ桶は、壁にぶつかりバラバラに散った。
「いつまでたっても海華、海華ってさ! 子供扱いはするし、口煩いし、ウロチョロくっついては来る し……。本当、鬱陶しいのよ」
髪を掻きむしりながら、海華が吐き捨てる。
「時期を見て出て行こうと思ってたんだけどさ。こうなったら、ちょうどいいわ。一緒に来てるお役人は……あたしに任せてよ。あたしが一言『兄様はいませんでした』って言えば済むだけ。上手く誤魔化してみせるから」
フフン……と自慢気に笑う海華。
男は笑いを噛み殺しながら、茫然とした様子の朱王の耳元で囁く。
「アンタ、イイ妹を持ったなぁ」
朱王は何も答え無い。
いや、口すら利けなかった。
ただ呆然として海華を見詰めるだけ。
もはや、何を言われているのかも理解出来ないでいた。
「ごめんなさいねぇ、兄様。……家族ごっこは、もう終わりにしましょ?」
とどめの一言を放ち、ニッコリと満面の笑みを見せる海華。
朱王の視界がグラリと揺れる。
男の眼光が鋭くなり、真っ直ぐ朱王の首に向けて大型の刃が掲げられた、その瞬間。
「ウオオオオ―――ッ!」
獣の叫びを上げながら、忠五郎が男の背後、暗がりから飛び掛かる。
強烈な飛び蹴りを背中に叩き込まれた男は、声も出せないまま刃物を放り投げ、朱王と共に舞台から転がり落ちた。
「兄様ッッ!」
背中を強かに打ち付け、呻く兄へ海華が走り寄り、身体にすがり付く。
男は何やら口汚く喚き散らしていたが、神妙にしやがれっ! と叫んだ忠五郎親分の十手を頭に食らい、更に舞台上から飛び込んできた高橋に胸ぐらを掴み上げられる。
「このアマッ! 汚ねぇ小細工しゃがってっ! 騙しやがったなァッ!」
十手で殴られ、額から血を流した男は怒り狂いながら火の着いた薪を蹴り飛ばす。
バッと橙色の火の粉が舞い上がった。
灰色の鱗以外、肌は紅潮し汗ばんでいるのが海華にもはっきり見て取れる。
「黙んなさいよ、この人殺しっ! 先に騙したのは、アンタらじゃないのっ!」
負けじと怒鳴り返す海華。
考え付く限りの罵詈雑言を喚き散らして暴れまくる男は、親分と高橋に外へと引き摺られて行った。
きっと、二人は助けを呼んで来てくれるだろう。
「兄様、大丈夫? 酷い事されたわね」
心配そうに顔を歪める海華は、朱王を抱き起こして腕を拘束している縄をほどきにかかる。
状況が飲み込めず、放心状態の朱王は、されるがままだった。
「ほどけたわ! 身体動く? 今、桐野様達が来て下さるから。もう少し辛抱してね?」
そう言って海華は朱王の顔を覗き込み、埃で汚れた頬を袖で拭ってやった。
朱王の瞳が、やっと彼女に向けられる。
「海、華……、お前……」
「なに? どうしたの?」
首を傾げる彼女に、朱王は生唾を飲み込んだ。
「さっきの話し、本当なのか? ……鬱陶しいの、ウンザリだの……お前、そんな事思ってたのか……?」
恐る恐る尋ねてきた朱王に、一瞬きょとんとした表情を見せる海華。
しかし、その見開いた瞳が、みるみるうちに涙で潤んだ。
「思ってる訳ないじゃないっ! あんなの全部嘘に決まってるでしょっっ!? うんざりしてたら、助けになんか来ないわよー!」
半分怒鳴るように叫び、海華は思い切り朱王へと抱き付きワンワン大声を上げて泣きじゃくり始めたのだった。
「あの姉弟、やっと全部話し始めたようだ」
猪口を傾けながら修一郎が静かに口を開いた。
あの事件から七日が過ぎた頃、兄妹は修一郎の邸宅へと呼び出される。
とっぷりと暮れた空には満月が輝き、開け放たれた部屋の障子から見える中庭には涼やかな風に吹かれ、菊の蕾が揺れていた。
朱王は手にした猪口の中をただ見詰めている。
海華も同じ、湯気の立つ茶碗を両手で包んだまま、黙り込んでいた。
「あの男は……あの男は、なぜあのような姿になったのでしょう……?」
いたく沈んだ声色で朱王が尋ねる。
浮かない表情の二人を些か不思議に感じた修一郎だった。
「あの鱗か? どうも生まれつきだそうだ。皮膚の病だと姉の方は言っておるがな。多分治らんだろうと、桐野は申していたぞ」
「生まれつき、ですか……」
ポツリと海華がこぼした。
治らぬ病のために人を殺し、煮詰めた臓物を塗りたくっていたのか、そう考えると気持ちが沈むのだ。
殺されかけた朱王も同じだが、一方の修一郎は不機嫌そうな顔で、フンと鼻を鳴らす。
「お前達、あんな輩に情けを掛けるな。病に効く妙薬だのと戯言をほざきおって、法外な値で信者共に煮詰めた臓物を売り付けていたのだ。効果が無いと騒ぎ出せば、問答無用で殺していたらしい」
姉の教えた出鱈目の呪文を唱えながら、必死で煮詰めた臓物を擦り込む者らを見るのが愉快で堪らな かったと、男は嘲笑ったそうだ。
それを聞いた朱王は呆れたように小さく首を振り、海華はガックリと肩を落とす。
「上方でも散々悪事を働いていたようでな、 まぁ年貢の納め時と言うやつだ。……それより も海華」
深く寄せられていた修一郎の眉が緩み、ニヤリと口元がつり上がる。
なんでしょう? と言いたいように、海華は小首を傾げた。
「お前、一世一代の大芝居をうったそうだな? 高橋が申しておったぞ? 目の玉が飛び出るほど驚いたとな」
「嫌だ、高橋様ったらお喋りなんだから……」
気まずい様子の海華は、顔を赤らめながら自分の膝先を見詰める。
その横で、朱王が深々とした溜息を吐き出した。
「私は心臓が止まるかと思いましたよ」
「だって仕方ないじゃない! 親分さんや高橋様がいきなりあいつの後ろから出てきて、そのまま動くなって仕草するから……気付かれちゃいけないと思って、咄嗟に嘘ついたのよ」
思い切り桶を蹴ったのは、剥がれた床で高橋が転びそうになったから。
物音で覚られないように、桶を蹴る音で誤魔化 したのだ。
「まさか本気にされるとは思わなかったわ」
困ったような笑みを見せる海華に、ニヤニヤと悪戯っぽい表情の修一郎は手元の徳利を朱王に突き出す。
「大体の内容は高橋から聞いたが……、朱王、身に覚えがあるのではないか?」
修一郎の問い掛けに、朱王はフッと苦笑いをしながら一礼し、自分の猪口を差し出した。
身に覚えなど山程あった。
だから余計に打ちのめされたのだ。
勿論、それは修一郎も充分わかっている。
返事に困る兄を目の当たりにし、海華は笑いを堪えるのに必死だった。
庭から吹く風に秋草の香りが微かに漂う。
酒を酌み交わす男二人と、それを見詰める女が一人。
澄んだ天空で揺れる月だけが、その姿を眺めていた。
終




