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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二章 夜の蝶
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第一話

 蝉時雨が湿気をたっぷり含んだ空気を震わす昼下がり。

大通りを一本外れた裏道に、中西長屋に住まう人形師、朱王とその妹である海華の姿があった。



 背中の中ほどまで届く長い黒髪を風に揺らす朱王の隣には、両の頬を赤く染めた海華が足元をふらせつかせつつ、一歩、また一歩と緩慢に歩みを進めている。



 「おい海華、大丈夫か? 」



 「うん……。大丈夫……」



 『大丈夫』そう口では言うものの、海華はひどく辛そうに肩を揺らせて短い呼吸を繰り返し、時おり小刻みに身体を震わせて足を止める。

トロンと蕩けたように虚ろな両の瞳は、焦点を結ばないまま視線を道の向こうにさ迷わせていた。



 彼女の頬がなぜ燃えるように赤いのか、それはここ数日江戸を襲った熱波のせいではない。彼女は今、身体の内から燃え上がる熱と骨の髄までを震わす悪寒と闘っている。

何のことはない、風邪を引いているのだ。



 数日前から咳と鼻水が気になっていた、そして二日前から悪寒と微熱が出始め、今朝になって布団から起きるのも四苦八苦するほどの高熱にみまわれたのである。



 最初、『夏風邪は馬鹿しかひかないもんだ』と冗談半分で笑い飛ばしていた朱王だが、茹で蛸よろしく顔を赤くし、苦しげに呻く妹の姿を見て吃驚仰天(びっくりぎょうてん)、すぐ医者に診せようとしたのだが、長屋近くにいる医者坊は見立てもいい加減なら出す薬も全く効きはしないと、悪い意味で有名だ。



 そんなところに連れて行くだけ時間の無駄、とばかりに、朱王は『とある人物』のところへ海華を連れて行くことにした。



 熱に浮かされてフラフラの彼女を背負おうとしたが、『みっともない、恥ずかしい』と、彼女は朱王の申し出を頑なに拒み、まさに這って擦って、息も絶え絶えの有様でこの場所まで辿り着いたのである。



 「おい、いつまでも強情を張るな。ここなら誰にも見られないから、大人しくおぶされ」


 そう言いながら、朱王は海華を一度その場に引き留めて、彼女の前に背中を向けて屈み込む。

裏道の周囲は雑木林に囲まれており、二人の他に人はいない。茹だるような日差しも一瞬木陰に遮られ、斑模様の木陰が二人へ覆い被さった。



 「本当に、いいの?」



 どこか戸惑いがちに尋ねる海華に、朱王は背を向けたまま軽く頷く。


 「このまま倒れられるほうが困るからな。お前一人背負うのくらい、なんて事はないさ」


 「……わかった。兄様、ありがとう」


 そう言いながらも周囲を一度見渡し、誰もいないのを確認した海華はソロソロと朱王へ身を預ける。



 いつもより高い体温を持った身体が背中にくっつき、しなやかな腕が首へと絡んだ。

『しっかり掴まっていろ』と彼女に言って静かに立ち上がる朱王の細い顎先に、こめかみから流れた雫が伝い墨色の着流しにポツリと滴る。



 人一人分の熱と重さを背負い、朱王はゆっくりと目的の場所に向かって歩みを進める。

彼が向かっている場所、それは江戸でも五本の指に入る薬種問屋、「香桜屋」の主人、秋月あきつき 伽南かなんが住まう庵だった。


 薬種問屋の主人と言っても、彼は十も離れた姉夫婦に店を任せており謂わば楽隠居の身だ。医師ではないが、亡き父親の元で医術・薬学を学んだ彼は古今東西あらゆる病、その原因を知る博学である。



 そんじょそこらのヤブに診せるより、ずっと確実な診断を下してくれるのだ。

朱王達とは十年以上前からの付き合いであり、伽南、そして彼の父親には足を向けて寝られないほどの恩義を受けている。



 雑木林に囲まれた裏道は香桜屋の裏手、つまり伽南の庵が立つ場所への近道である。

伽南の父が薬草を育てていた広い裏庭の奥に、その庵はあった。



 賑やかな表通りに面した店とは正反対、青々とした樹木や名前も知らぬ草花が一面に生い茂る庵の前は、枝葉を広げた樹木に灼熱の日光が遮られ、ひんやりと澄んだ空気に満ちている。



 湿り気を帯びた苔や青草の匂いに包まれ、朱王の背中で荒い呼吸を繰り返している海華も、熱にうるんだ両目をうっすら開けて清涼な空気を求めるように一度大きく深呼吸をした。



 「ごめんください! 伽南先生、いらっしゃいますか?」


 縁側に面した障子、いつも伽南が使っている一室に面した障子に向かい朱王は大きな声を張り上げる。

と、すぐ障子に薄い影が現れ、朱王の目の前で僅かに黄ばんだ障子戸がガラリと開け放たれた。



「おや、朱王じゃありませんか」



 部屋の中からグイと身を乗り出した小柄な男が、すっとんきょうな声を上げる。

肩辺りまで伸びた栗色の髪を後ろで束ね、鼻の上にチョンと眼鏡をのせた童顔、丸顔をしたこの男が、秋月あきつき 伽南かなんその人だ。


 「どうしました、こんな所から。おや、海華も一緒ですね?」


 円らな瞳をクルクル動かし、少し大きすぎる感が否めない鼠色の着流しと、焦げ茶の羽織を手繰って縁側に出てきた伽南は、朱王に背負われる海華の姿を一目見るなりズレた眼鏡を指先で押し上げた。



 「急に申し訳ありません、実は数日前から海華が風邪を引いたようで……朝起きたら、熱が上がっておりまして」



 「どれ、あぁ、これは酷い。すぐに熱さましの薬を調合しましょう。さぁ、どうぞ中へ」


 海華の額に手のひらを当て、眉根を寄せた伽南は、さっそく二人を室内へと招く。

海華を背負ったまま朱王は縁側より中へ入った。と、伽南がいつも書斎として使用している部屋、ちょうど障子の影に誰が座っている。

その気配を感じたのだろう彼は一度足を止めた。



 「伽南先生、お客さんかい?」



 障子の陰から聞こえた声は、松林を吹き抜ける風の如くに爽やかだ。

思わず顔を上げた朱王、その目に飛び込んできたのは、今の時期には暑苦しくも思うだろう派手派手しい色遣いをした羽織を纏い、艶やかな髪を高く結わえた人物。



 男とも女ともわからない人物が座り、微笑を湛えてこちらを見詰めていた。



 「古くからの友人ですよ。浅黄あさぎ、申し訳ないのですが、そこの座布団を」



 「はいよ。お嬢さん大丈夫かい? さ、ここに横になりな」


 浅黄、と呼ばれた男……声の調子と喉元の僅かな突起からして男、と思われる人物は、手近にあった座布団を二つに折りたたみ、こちらへと押しやってくる。

それを有難く受けた朱王はそこに海華の頭を乗せ、畳へ横たわらせた。



 ひんやりと冷たい畳の感触が伝わったのか、わずかだが苦しげな表情を和らげた海華は熱に潤んだ目を瞬かせ、自分を見下ろす朱王と伽南へ弱々しい視線を投げた。




 「先生……ご迷惑、おかけします」



 「何を水臭い。すぐに良く効く薬を用意しますから、もう少し、辛抱してくださいね」



 限りなく優しい声色で告げた伽南は急いで腰を上げる。

それを合図としたかのように先客は羽織の前を掻き合わせ、ゆっくりと流れるように優雅な動きでその場に立ち上がった。



 「先生、あたしはそろそろ失礼しますよ。お薬、ありがとうございました」


 「いいえ、とんでもない。何のお構いもできずにすみません。松葉によろしく伝えてくださいね」


 「はい、必ず。お嬢さん、ここにきたからにはもう大丈夫、熱なんてあっという間に下がっちまうからね」


 海華の虚ろに揺れる瞳を覗き込みながら、男……浅黄は艶やかに微笑む。『それじゃぁ、お大事に』そう朱王に一言残し、軽く会釈をした浅黄は庵の玄関へと消えていく。



 あっという間に見えなくなった色鮮やかな美男子、彼が纏っていたお香のような甘い香りが朱王の周辺にほんのりと漂った。



 「先生、今の方は?」


 「あぁ、私の友人で浅黄と言います。芳町にある照月という茶屋の色子ですよ。同じ店の子が風邪を引いたらしいです。ちょうど海華と同じ熱が高いと。ちょっと待っていて下さい、今、同じ熱止めを用意します」



 そう言うなり、伽南は文机の上にあった乳鉢に手を掛ける。

ゴリゴリゴリ、と薬草を磨り潰す重い響きの中で、伽南は手元をじっと見詰めながら更に唇を動かした。


 「私がここに籠るようになってすぐに知り合いましたから、もう二、三年の付き合いになりましょうか。あ、私に衆道の気はありませんよ、念のために」


 困ったように笑う伽南へ朱王は『わかっています』と言いたげに口角をわずかに上げて頷く。



 彼と浅黄がどのような理由で親交を深めるようになったのか、それは敢えて聞き出さない。人それぞれ、様々な理由があるものを根掘り葉掘り聞き出すのは不粋である事くらいはわかるだろう。



 「浅黄も貴方達と同じ、と言ってもいいでしょう。昔から色々と苦労してきた人でしてね。―――― さぁ、できました。量は、このくらいでいいでしょう」



 乳鉢の中の薬草を机の上に引いた和紙に移し、それを小分けにして包み直した伽南は、茶色い紙袋に入れて朱王へと差し出した。



 「朝晩煎じて飲ませてください。湯呑に二杯分くらいで十分でしょう」


 「わかりました。先生、ありがとうございます」


 袋を受け取り、懐から取り出した財布を開いて幾ばくかの代金を伽南へ払った朱王は袋を懐にしまい、畳に横たわる海華を軽く揺さぶる。微睡んでいたのだろう彼女はうっすら目を開け朱王を見た。



 「大丈夫か? 先生が薬をくださったぞ。帰ったら飲ませてやるから、もう少し頑張れ」



 「うん……。先生、ありがとうございました」



 ぎこちない微笑みを浮かべて伽南へ視線を向けた海華は朱王に抱き起される格好で身を起こす。

再び朱王に背負われる海華は庵を出る直前、熱で赤らんだ顔を伽南へと向け、『お薬、苦くはないですか?』と心配そうな声色で尋ねていた。


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