第三話
修一郎からは、快諾とは言い難い返事が返った。
しかし、一応仕事が続けられる事となった海華は、あの夜からすこぶる機嫌が良い。
勿論、全ては声が出るようになってからの話しだ。
あの事件から、既にひと月近くがたっていたが今だに良くなる気配すら無い。
しかしこの頃には筆談にもすっかり慣れ、日常生活に支障は無くなっていた。
今日二人は、清蘭のいる療養所へと足を運んだ。
海華の喉と朱王の手首の傷を診てもらうためである。
朱王はすっかり回復し、傷も跡が残ることなくキレイに塞がっていた。
海華も首に付いていた痣が大分薄くなり、包帯で隠す必要もないと言う事だった。
声の方は、相変わらず。
もう少し様子を見ましょうとだけ言われたのだ。
「包帯だけでも取れて良かったな」
療養所からの帰り道、海華の肩を軽く叩きながら朱王が呟く。
ニコニコと笑みを漏らした海華は大きく頷いて己の首を撫でる。
まだうっすらと紫色が残ってはいるが、目立つ程では無い。
あんな布切れが巻き付いているだけでも、首はかなり暑かった。
鬱陶しい物が取れただけでも良しとしなければ。
「声は長い目で見るしかないよ。診療代の事なら心配するな。だからしっかり診てもらえ、いいな?」
朱王の台詞に、海華は『うん』と頷く。
と、朱王さん! 海華ちゃん! と、よく聞きなれた男の声が道の向こうから飛んで来た。
二人が声の方へ目をやると、重たそうな風呂敷を背負った惣太郎がよたつきながらこちらへ走ってくる。
「惣太郎か! 暑いのにご苦労さんだな、外回りか?」
「ああ、新しい薬が入ってね」
額から流れ落ちる汗を拭い、惣太郎は白い歯を見せた。
だが、海華に目を移した途端に心配そうに彼の眉が寄せられる。
「ところで海華ちゃんは大丈夫なのかい? 声が枯れたって聞いたけど」
己の顔を覗き込んでくる惣太郎へ、海華は苦笑いを見せる。
そして、ポンポンと喉元を叩き小さく頭を横に振った。
「本当に声出ないのか、医者も薬も役に立たないなぁ」
酷く残念そうにそう漏らす惣太郎に、そんな事は無いさ、と朱王が返した。
道端で話し込む二人。
話せないため、その輪に入れない海華は何気無く辺りを見回している。
老若男女が入り交じり、騒がしく混雑した大通り。
店先に下げられた暖簾がサワサワと風に揺れていた。
ふと、海華の視線がある子供に引き付けられる。
それは三つ、四つ程の女の子だ。
海華と同じ赤の着物、その袖をヒラヒラ揺らせながら宙を舞う蝶を夢中で追い掛けている。
母親らしき女は立ち話しに夢中、子供が自分の傍を離れた事にも気付いていない。
ひらりと風に舞い上げられた蝶は、筵で包まれた炭を山積みにした大八車の上を飛んでいた。
自然と子供も大八車の後ろに駆け寄ってそこに立ち尽くし、空を見上げている。
あんな所で危ないな、そう海華が思った直後、炭の山の向こうから男の声が飛ぶ。
「荷物を早く下ろしておくれ! ここじゃあ邪魔だよ」
僅かに迷惑そうな色を帯びた声に、『へい、わかりやした!』と威勢の良い返事が返った、次の瞬間、大八車がギシギシ音を立てて動 出す。
ぐらりと、一番天辺の包みが大きく揺れた。
「危ないッッ!!」
絹を引き裂くような女の叫び。
それは、海華の口から飛び出たものだった。
脱兎の如くに子供に走り寄り、かっ浚うようにその小さな体を抱き上げる。
そのまま後ろに飛びすさると、目の前にダンッ! と重い響きを轟かせ、炭の包みが地面と叩き付けられた。
ワーッ! と悲鳴やら咆哮じみた叫びを上げた通行人が、あっという間に海華の周りに集まる。
腕の中の子供は、まるで火が付いたようにけたたましく泣き叫んだ。
「海華っ!? 大丈夫かっ!」
その騒ぎを聞き付け、て人だかりを掻き分けて血相を変えた朱王と惣太郎が海華に駆け寄った。
泣きわめく子供は、既に母親の腕へと戻っている。
母親は、ありがとうございますと何度も礼を繰り返し、泣きじゃくる子供を抱き締めていた。
「怪我は無いか!?」
海華の前に屈み込み、強く肩を揺さぶる朱王。
「うん、大丈夫。びっくりしたわ、いきなりなんだから」
茫然とした表情で海華が言った。
その途端、朱王と惣太郎 の瞳が驚きに見開かれる。
「海華ちゃん、声……」
「お前……! 声出るのかッ!? もう一度、もう一度何か喋ってみろ!」
がくがくと首が前後に激しく揺れる程、朱王の揺さぶりが強くなる。
「まっ……! 待ってよ兄様っ! ――出るわ、声出るっ! ちゃんと話せる――っ!」
キャ―――ッと悲鳴と歓喜が入り交じった叫びが一天の曇りも無い夏空へと響き渡って行った。
ジリジリと肌を焦がす太陽に追い立てられ、滝のような汗を流した都築と高橋が、暑い暑いとボヤきながら番屋へと駆け込んで来た。
それに気付いたのだろう、プカプカと煙管をふかしていた忠五郎がひょいと顔を上げる。
「こりゃぁ旦那方、この暑い所をご苦労様ですね」
そう言った彼は、その場からのそりと腰を上げ、留ーッ! と奥へ向かって大声を張り上げる。その間、二人は上がり框へ座り流れる汗を拭っていた。
「今年は酷く暑いな」
茹で蛸のように顔を紅潮させた高橋が呟く。
「本当だ。これじゃ干からびてしまうわ」
げんなりした表情で都築も呻く。
留吉が水の入った茶碗を二人の前に出したその時、スパーン! と乾いた音を響かせ、跳ね返らんばかりの勢いで戸口が開かれた。
「親分さんっ! あ、高橋様! 都築様も!」
全員の目が戸口に向けられる。
そこには、頬を真っ赤に上記させた海華が、はぁはぁと肩で息をしながら立っていた。
「海華殿……!?」
「お前、声が出るのか!?」
大きく目を見開いた都築が、跳ねるように立ち上がる。
弾みで横に置かれた茶碗がひっくり返った。
「今、今出るようになったんですよ! ちゃんと喋れるんです!」
満面の笑みを見せ、最大級の喜びを表す海華。
その場にいた者全員に、歓喜と安堵の表情が浮かんだ。
「そうか、そうか良かったなぁ海華!」
興奮気味の都築、その分厚い手のひらがバンバンと海華の背中を叩く。
「はい! 都築様方には本当にお世話になりました。早く知らせたくて……」
走って来たんです。
そう笑いながら、顎から滴る汗を拭う。
「そうか、ところで朱王殿は一緒ではないのか?」
そう言いながら、高橋は小首を傾げた。
「ああ、兄様ですか?」
今気付いたというように、海華が戸口を開ける。
「なんでぇ、海華ちゃん一人で来たのかい?」
「いいえ、一緒ですよ。ちょっと兄様、大丈夫?」
表に出た海華が、その場にしゃがみ込む。
どうしたのかと思った忠五郎は留吉に向かい、おい、見てこいと促した。
ひょいと戸口から顔を除かせた留吉の身体が、ピョンと小さく跳ね上がる。
「うわ!? 朱王さん!」
彼の口から思わずすっとんきょうな叫びが上がった。
外には力無くへたり込み、番屋の壁に凭れ掛かる朱王がいた。
海華を追い掛け、全速力で走って来たのだ。
惣太郎は、あの場に置き去りにしてしまった。
全身を使ってゼェゼェと息をつき、端から見れば息も絶え絶えな有り様だ。
もはや海華や留吉の呼び掛けに答える元気すら無い。
「いやねぇ、ちょっと走っただけなのに。普段座ってばかりいるからよ」
呆れ果てたように漏らす海華。
誰のせいだっ!と怒鳴り返したい朱王だったが、その台詞は激しい息継ぎに紛れて消えていた。
海華の声が戻ってから三日あまりが過ぎた。
ひと月程の沈黙期間からやっと解放され、今、二人の部屋は以前と変わらない賑やかさを取り戻している。
「それじゃあ、あたし行ってくるわね。夕飯は作ってあるから、ちゃんと食べてよ? ……兄様聞いてる!? ねぇ兄様ーっ!!」
「そうギャアギャア喚くな! ここは牛小屋よりも狭いんだ、そんな大声出さなくても聞こえる!」
「なら、ウンとかスンとか返事してよね! 行ってきまーす!!」
ガラリと元気良く戸が開かれ、夜の紫と夕日の赤が入り雑じった空の下、海華が部屋を飛び出し、その後すぐ、追いかけるようにに朱王が顔を突き出した。
「おい待てっ! 今日は早めに帰って来るんだぞ! それから……」
「人通りの無い所は歩かない、何かあったらすぐ逃げる、でしょ? 朝から何回聞いたと思ってるのよ?大丈夫だから、じゃあねっ!」
ブンブンと手を振り、海華の下駄が思い切り地を蹴る。
その姿は長屋の木門をくぐり抜け、あっと言う間に見えなくなった。
「おやまぁ、喉が治った途端に仕事かい?」
含み笑いを交えたしゃがれ声が耳に入る。
朱王が顔を長屋奥へ向けると、継ぎはぎだらけの前掛けで手を拭うお石が歩み寄ってきた。
「相変わらずだねぇ、海華ちゃんは」
「はい。一時も黙っていられないんだ。困ったもんですよ」
苦笑いを浮かべた朱王が頭を掻く。
お石は、軽く唇を吊り上げた。
「いいじゃないか。海華ちゃんが喋らなきゃ、あんたの部屋は静かすぎて気味悪いよ。あんたもいつも以上に無口になっちまってたしさ。居るんだか居ないんだか、わかりゃしなかったさ」
「それは……返事が返ってこないのに、一人で喋ってちゃ余計に気味悪いですからね」
「そう言われりゃそうだねぇ」
ゲラゲラと、お石の盛大な笑い声が夕暮れの長屋に木霊していった。
すっかりと日も沈み、天空には三日月ポッカリと浮かんでいる。
海華が用意した夕飯を平らげた朱王は、仕事の続きに入っていた。
昼間は茹だるような暑さだったが、さすがに夜ともなると気温も下がり、今は心地好い風が僅かに開けた戸口から入り込んでいる。
コンコン、と微かに戸を叩く音が響いた。
こんな夜に、誰が訪れたのだろうか?
「はい、どなたでしょう?」
「朱王! 俺だ!」
狭い隙間をガタガタとこじ開け、のそりと大柄な体躯が姿を現した。
「修一郎様!?」
驚きに眉を上げた朱王。
鼠色の着流し、腰に刀を差した修一郎は、遠慮がちに上がり框へと腰を下ろした。
「夜分にすまないな。海華はいるか?」
「いえ……その、申し訳ありません、仕事に出ております」
どぎまぎしながら朱王が答える。
修一郎は、笑いながら顔の前で手を横に振った。
「なに、案ずるな、お前に小言を申しに来たのではない。俺もきっと海華は仕事に出たのだと思っていたわ」
その言葉な、朱王はほっとした表情を浮かべて修一郎の側へ正座する。
「今日来たのはな、お前、海華がどこで仕事をしているか知っているか?」
些か照れくさそうに修一郎が尋ねてくる。
先日、修一郎の邸宅へ声が出たと海華が知らせに来た時、修一郎は飛び上がらんばかりに喜んだ。
しかし、それは新たな心配の始まりだった。
声が戻れば、海華はすぐに仕事を始めるだろう。
本当に大丈夫なのか、と、夜が来るたび気が気ではない。
そわそわと落ち着かない修一郎に見兼ねた雪乃が、『そんなに心配なら一度見に行かれたらいかがです?』と進言した。
それがいい、と邸宅を出て来たものの、海華がどこで仕事をしているのか全く知らない。
街中全てを探して歩く訳にもいかず、こうして朱王に聞きにきたのだ。
「そこまで案じて頂いて……。ありがとうございます」
顔を綻ばせた朱王。
海華のいる所なら大体見当がついた。
「きっと色街の近くにおります。私もご一緒させて頂きますので」
「おお! 良いのか?」
パッと顔を輝かせ、修一郎は喜びを露にした。
実は朱王も、海華が夜働いている姿はあまり見た事が無いのだ。
乾いた暖かい風を全身に受けながら、二人は色街、海華の元へと向かって行った。
柳の大木がずらりと並ぶ川端。
川向こうの色街へと掛かる小さな橋のたもとに、海華はいた。
欄干にもたれ掛かり、御神籤の箱を足元に置いた海華の周りには、顔に白粉、唇には紅を塗りたくった女が四人、全員が小脇に蓙を抱えている。
朱王と修一郎は、一本の柳の陰に隠れ海華の様子を伺っていた。
「なんだ、客と言うのは夜鷹ばかりか?」
「何時もは色街に通う者らなのですが……」
幹から僅かに顔を出した朱王。
キャアキャアと喧しく喋りまくる夜鷹達の中に、見覚えのある顔がいた。
祭りの夜に会った、お安とお町だ。
そよぐ風に乗って、女達の話す声が二人の所まで届く。
「海華ちゃん話せるようになって良かったねぇ、長い事見なかったから、心配してたんだよぅ」
「本当? お安さんありがとう! あたしもどうなるかと思ってたんだけどさ、どうにか治ったわ。それより、さっきの客の話し、どうなったのよ?」
にやにやと笑みを溢しながら海華が小首を傾げる。
「そうだ、そうだ、途中だったね。ふざけた話しなんだよ。ヤル事だけしっかりやっといてさ、お代は半分にしてくれって。馬鹿にしやがってさ!」
「ケチ臭い野郎もいるのねぇ、で? それからどうしたの?」
瞳を輝かせながら海華が尋ねる。
お安は、フンッ! と鼻で笑った。
「決まってんじゃないか、お町と、そこのお竹と一緒にタコ殴りだよ。ねぇ?」
「そうそう、ヒイヒイ喚いてさぁ、面白かったよ」
お町と、隣のお竹がケラケラ笑う。
「今度そんな奴来たらあたしに言ってよ。タマ切り落として口にでもぶち込んでやるわ」
海華が放った一言に、ドッと笑いが起きた。
木の陰にいた二人は、思わずその場から飛び出しそうになる。
「朱王よ……、本当に仕事続けさせてもよいのだな――?」
幹にしがみつき、口元を引き攣らせる修一郎。
朱王は頭を抱えた。
「申し訳ありません、後で……きつく言いますので」
二人が深々と嘆息した時、その横を一人の女が駆けていく。
すれ違い様、女はチラリと二人を一瞥した。
真っ直ぐに海華達の元に向かった所を見ると、どうやら夜鷹の仲間らしい。
仕事と言う名の猥談、雑談はそれから暫く続いたのだった。
喋るだけ喋ると、夜鷹達はそれぞれのショバへと戻って行った。
すると、海華も人形や御神籤箱を片付け始める。
もう帰るのか、と隠れ見ていた二人が思った時だった。
「修一郎様ー! 兄様ー! 隠れてないで出てきたらどうです!?」
カンカンカン……と、橋桁を駆ける小気味良い音を響かせ、海華が幹からヒョコリと顔を覗かせた。
「なんだ、気付いておったのか?」
照れ笑いを交えた修一郎は、ポンポンと海華の肩を叩いた。
「いいえ、私は知らなかったんです」
ニコニコと笑みを見せ、答える海華。
「さっきこっちから走ってきた女が教えてくれたんですよ、柳の下に、幽霊みたいな男と石臼みたいなお侍がいてアンタの事見てるよ、って」
「幽霊……」
「いっ、石臼……?」
あまりりの言われ様に、二人は愕然とした表情を浮かべる。
あら、失礼しました、と返した海華だが、クスクスと笑いをこらえきれない様子だ。
「ああ、そうだ! 修一郎様、小春ちゃんの頭、見付かったんですね? お町さんが言っていました」
「頭……? おお、あの夜鷹のか。そうだ、見付かったぞ。どこだかの木乃伊職人の元にあったそうだ。又兵衛の奴が持ち込んだらしい」
いくら夜鷹と言えども、頭が無いままでは浮かばれない。
大切な証拠だし、何より残された身内が不憫である。
修一郎は桐野に草の根分けても探し出せ、と命じていたのだ。
言い付けどおり、桐野やその配下の役人は立派に職務をこなしたのである。
「お安さんも、仲間の人達も驚いていました。たかが夜鷹の頭を、お上が必死で探してくれるなんて、って。ありがとうございました。小春ちゃんも酷い死に方したけど、やっと帰ってこられました。本当に――」
ありがとうございました、と海華は一礼する。
ピョコンと顔を戻した後、不思議そうな眼差しで二人を交互に見遣やった。
「ところで、どうして修一郎様と兄様がここに?」
「お前の事を案じて来て下さったんだ」
「出てきたまではよいが、お前がどこにいるかわからなくてなぁ、朱王に連れて来てもらったのだ」
バリバリと頭を掻きながら修一郎は朗笑する。
「わざわざ見に来て下さったんですか!? あり がとうございます! でも、もう大丈夫です。同じヘマはしませんから」
ニッコリと微笑み、背中の傀儡箱を背負い直す。
「私、もう一ヶ所行かなくちゃ」
「なんだ、まだ帰らないのか?」
不服そうに朱王が目を細めた。
「あっちにも顔見知りがいるのよ、暫く顔見せてないから、死んだと思われちゃ困るもの」
いいですよね? 海華は甘えるような声色を出し、修一郎を見上げた。
修一郎は、チラチラと朱王の顔色を伺いながらも、うむ、と了承する。
「ね、兄様行っていいでしょ?」
「修一郎様がいいとおっしゃられるなら……。 気を付けてな」
「じゃあ行ってきます!修一郎様、ありがとうございました!」
朗々たる叫びが夜空に木霊する。
海華は、二人の横を走り抜け、あっと言う間に闇へと消えて行った。
柳の下に残された男二人組み。
「……修一郎様は、海華に甘過ぎます」
「しっ、仕方なかろう! 妹なのだからな。――俺から言わせれば、お主も同じだ」
二人は顔を見合せ、小さく苦笑する。
ザラリと風が吹き抜け、柳を揺らす。
残暑厳しい、ある夜の事だった。
終




