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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第十四話 寂然の蝉
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第二話

 海華が声を失ってから十日程たった。

朱王は最近、仕事先に海華を伴っている。

いつまでも部屋に閉じ込めて家事だけをさせるのはさすがに可哀想だし、何より自分が留守の間が心懸がかりなのだ。

万が一危険な目にあっても、彼女は今大声で助けは呼べないのだから。


 「今日は長くかかったな。疲れただろ?」


 依頼人の家に品物を届けた帰り、朱王は隣を歩く海華へ視線を落とす。

怪我を負った側の足を若干庇うように歩く海華は、口元を綻ばせながら小さく首を振った。

その首元には、あの忌まわしい痣を隠す包帯が巻かれており、道行く人々の視線を集めている。


 海華の身を案じる者がある一方、心無い陰口を叩く者もいた。


 ――あの子、口が利けなくなったんだってさ。 普段の行いが悪いんだよ、きっと――


 ――たかだか人形で大金踏んだくりやがって、 だから妹が喋れなくなったんだ。バチが当たっ たんだろ。――


 この数日、こんな中傷がいくつも二人の耳に入った。

現に今も二人の姿をチラチラ見ながらひそひそ話しをする者がいる。

普段の海華なら、すぐに怒鳴り付けて蹴りの一発もお見舞いしてやるのだが、いかんせん声が出ない。

相手を射殺さんばかりに睨み付け、その場を立ち去るのが精一杯だ。

遠慮無く突き刺さる視線から逃れるように顔を伏せる。

そんな妹の肩を、朱王は静かに引き寄せた。


 「気にするな、口さがない奴なんて、どこにで もいるさ」


 そんな朱王の言葉にちょこんと海華の頭が縦に振られる。

自分なら、どんな悪口雑言を言われようが一向に構わない。

だが、兄が悪く言われるのだけは許せなかった。

兄へ向けた陰口を聞くと身体が震える程に腹が立ち、同時に兄に対して申し訳ない気持ちで一杯になるのだ。


 ごめんなさいも言えないのか……。

海華の口が細く空気を吐き出す。

丸まった妹の背中を、大きな手のひらが、バン!と叩いた。


 「そうしょぼくれるな、そんなんじゃ余計に陰口言われるだけだぞ? お前は何も悪くないんだから、胸張っていればいいんだ」


 そんな言葉と共に些か乱暴に頭が撫でられる。

海華は、ぐいと目元を拭った。

既に太陽は真上まで登っている。

じりじりと肌を焦がす日差しを浴びながら、二人は長屋へと急いだ。





 「ああ、帰って来ましたね」


 赤く染まった顔から流れる汗を拭いながら、伽南が微笑んだ。

二人が長屋に戻った時、彼が部屋の前に一人 立っていたのだ。


 「先生! ずっとここに?」


 暑い中、どの位待っていたのだろうか。

朱王は慌てて戸口を開いた。


 「いえいえ、そんなに長くは待っていません。 中を見たら留守だったので、勝手に入るのも悪いと思いまして」


 にこにこと返す伽南に、朱王も海華も苦笑いだ。


 「どうぞお上がり下さい。先生が倒れたら、それこそ一大事です。海華、冷たい物を……と言っても、水しかありませんが」


 申し訳なさそうに朱王が頭を下げる。

そんな二人を残して海華はパタパタと奥へ駆け込んだ。


 「どうぞお構い無く。傷の具合を診に寄っただけですから。――そうだ、朱王。少しいいですか?出来れば、海華のいない所で」


 急に伽南が顔を近付け、声を潜めた。


 「はい、では奥で。海華! ちょっと出て来る。 すぐに戻るからな」


 部屋に向かって叫ぶと、薄暗い奥からヒラヒラと白い手のひらが降られた。

それを確認した朱王は、伽南を井戸端へと案内する。

そこはいい具合に日陰になっており、人もいなかった。


 「先生、お話しとは……海華の喉の事ですか?」


 不安げに尋ねる朱王に伽南は首を振る。

しかし、伽彼の表情はどこか暗かった。


 「実はね、修一郎様の事なんですよ」


 「え? 修一郎様の?」


 伽南の口から出た名前に、朱王は意外そうに目を見開いた。


 「はい、夕べ私の所にみえましてね。どうしたら海華の仕事を辞めさせられるかと相談されました」


 困ったように顔を歪め、伽南は頬を掻く。

兄妹と修一郎の関係を伽南は知っている。

だが、それを修一郎は知らないのだ。

多分、信頼出来る知人として相談したのだろう。


 「今回の事をかなり心配しておられるようです。ですが、海華の考えもあるでしょう」


 「はい、その件は私も修一郎様から聞いておりました。海華とは話し合ったのですが……」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、朱王は腕を組む。


 「辞める気など、更々無いのでしょう?」


 「はい……。海華は自分で修一郎様に話すと言っているのですが、二人の性格からして……」


 どちらも頑固だ。

兄妹だからか、おかしな所が似てしまった。

こうと決めたらテコでも変えない。

話しがすんなり進むとは、到底思えなかった。


 「とにかく、早めに三人で話し合った方が良いと思いますよ。後々延ばすと余計ややこしく なりますから」


 顔を曇らせたまま、はい、と返事を返した朱王。

きつく腕組みをしたまま、深い深いため息をついていた……。






 「朱王さんと海華ちゃんがみえましたよ」


 自室で書類と格闘中の修一郎に、雪乃が声を掛けた。

もしや海華の喉が治ったのか? 淡い期待を胸に、修一郎は自ら玄関へと出迎える。

だが、小さく頭を下げた海華の首には、まだ包帯が巻き付いたままだった。


 「突然押し掛けて申し訳ありません。海華の事でお話しがあります、お時間よろしいでしょうか?」


 何故か硬い表情の朱王が口を開いた。

海華は俯いたままだ。


 「勿論だ。さぁ、入れ入れ」


 二人の様子を些か不思議に思いながらも、修一郎は奥へと案内する。

すぐに雪乃が茶を運んできてくれ、大丈夫なの? 等と海華に尋ねると、やっと海華の表情が和らいだ。


  「近いうちに長屋へ顔を出そうと思っていたところだった。どうだ、あれから変わりは無いか?」


 海華がこくんと頷く。

が、そわそわと落ち着かない様子で兄を見上げた。

朱王は、大丈夫だとでも言いたいように、小さく微笑みを返し、すっと修一郎へ目を戻す。


 「今日は海華の仕事の件で参りました。海華から、改めて修一郎様にお話ししたい事があるそうです。――勿論声は出ませんが……」


雪乃が下がったのを見計らい、朱王が話し出す。

口が利けないのにどうやって? と首を傾げた修一郎の前に、海華が三枚の白い紙を差し出した。

ここを訪れる前、今の気持ちを全て書き綴ってきたのだ。


 「これがこの子の気持ちです。どうぞ、お目通し下さい」


 真剣に修一郎を見つめる二人。

彼は黙ったまま、その紙を手に取った。

小さな文字で、びっしり埋まる三枚の紙。

それには、仕事は辞めたくない、兄の収入だけには頼りたくない、自分の口は自分で養いたい、出来るだけ多く金を蓄えたい等海華の本心が切々と綴られていた。

読み終えた修一郎は、弱りきったように頭を抱え、大きなため息をつく。


 「お前の言いたい事は、よくわかった。だがな海華、今、食えぬほど困窮しているわけではあるまい。蓄えなど、朱王の稼ぎでいくらでもできるだろう?」


 ゆっくりと顔を上げた修一郎の視線に射られ。

海華は膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。


 「こんな事は言いたくないが、お前が昼夜、外で得られる額など微々たるものだろう? 何も危険な目に遭ってまで仕事をすることはない。命の方が大事だ」


 その言葉にギリギリと唇を噛みしめた海華。

やはり、修一郎は何もわかっていない。

なぜなら金に困った事が無いからだ。

野良犬のように外で眠り、今日食う物にも事欠く生活。

金が無いことが、どれだけ惨めなのかを知らないのだ。


 「――海華、もういい。あの事を話そう。もう、それしかない」


 修一郎の言葉を黙って聞いていた朱王が、ぽつりと呟く。

しかし、海華は目に涙を一杯に溜めて、俯くだけだった。


 「聞きたくないなら、外してもいい。どうする?」


 文字亀の髪がフルフルと揺れる。

海華は、座り込んだままだった。


 「なら話すぞ? 修一郎様、私の話しを聞いて頂けますか? お聞き頂いて、それでも駄目だと申されるのなら、私が責任を持って海華に仕事を辞めさせます」


 修一郎は怪訝そうに眉を潜めながらも、うむ、と頷く

隣に座る海華の握り締めた拳へ、ぽたりと涙が滴った。


 「私達が上方から戻って……、こちらへ伺った時の事、まだ覚えておられますか?」


 朱王の口から漏れたのは、随分と昔の出来事だった。


 「覚えておる。確か、七年前だったか……。あの時は天地が返るかと思う程驚いたぞ」


 しみじみとしながら返す修一郎。

もう七年もたったのか、と、朱王は静かに微笑を浮かべる。


 「あの時修一郎様には、只今戻りました、と申しました。ですが、私達が江戸へ戻ったのは、 実はその一年前だったのです」


 「なんだと!? 一年前!?」


 驚愕の叫びを上げた修一郎は、目を見開き、思わず二人へとにじり寄る。


 「今まで隠しておりました。……申し訳ございません」


 彼に向かい、二人は深々と頭を下げた。


 「それは……まぁ、いい。それより一年間どこにいたのだ? あの長屋か?」


 「いいえ。大川の、橋の下です。打ち捨てられた小屋に住んでおりました」


 朱王からの答えを聞いた瞬間、修一郎は呆気に取られて口を半開きにした。

朱王は、ポツリポツリと過去語りを始めたのだ。


 上方で九年、ある男の元で人形造りの修行をした。

海華は傀儡廻しの女に預けられ、離れ離れ。

年に一度、会えるか会えないかの生活だった。


 十年目にして、男は『教える事はもう無い。』と言い残し、朱王の前から姿を消す。

示し会わせたように、海華も兄の元へ戻された。

上方に残るか、江戸へ帰るか……。

二人は悩んだ。


 「結局、江戸へ戻ろうと。やはり、生まれ育った土地が恋しかったのです」


 嫌な思い出しかない場所なのに、とは言えなかった。


 「上方で貯めた金は、あっという間に路銀で使い果たし、江戸へ着いた頃には無一文です。長屋なんぞには到底住めません」


 遠い目をした朱王が自嘲気味に笑う。

海華は小さく鼻を啜った。


 「私も今では天才だの、稀代の人形師だのと持て囃されますが、あの頃は無名です。仕事なんか来るはずが無い。……貧乏のどん底でした」


 金が無ければ人形の材料も買えない。

わずかばかりの着物や、身の回りの品を手当たり次第に質入れし、やっと造った人形を抱えて朱王は売り込みに駆けずり回った。

しかし、どこの店でも門前払い。

精根込めて作った人形すら見て貰えない時もあったのだ。


 「何度、人形師を辞めようと思ったか……。あの刀を売って、金を作ろうとも。海華が酷く怒りましてね、父上様の形見なんだから! って。 海華は、寝る間も惜しんで働いてくれました。 本当に、苦労ばかりさせていました」


 ごしごしと泣き腫らした目を擦り、海華は強く頭を横に振る。

苦労なんて思わなかった。

やっと、また兄と一緒に暮らせる、それが一番嬉しかった。

きっと兄は世間に認められる。

人形を作る金、とにかく金を稼ぎたかった。

二、三日物が食べられなくても、芝居が下手だと石を投げられても、金さえ入ればよかったのだ。


 「人が弱っている時には、色々な奴が集まってくるものですね。僅かな金や食い物を持って、妹を女郎屋か遊廓に売れだの、私に陰間になれだの、そんな話しが山程ありました」


 パサリと髪が伏せがちの顔に掛かり、修一郎から朱王の表情は伺えない。

どちらも絶対に嫌だった。

特に海華とは、二度と離れたくはなかった。

せっかくあの忌まわしい紅格子の世界から抜け出せたのだ。

再び同じ世界へ売り飛ばすなど、死んでも出来ない。


 「全て断って叩き返しましたが、無理矢理拐 (さら)って行こうとする輩もいて。気が気じゃありませんでした」


 ふう、と朱王は天井を仰いでため息をつく。

海華はガタガタと肩を震わせて、顔を両手で覆っていた。


 「なぜ、ここへ来なかったのだッ! そんな目に遭いながら、どうしてもっと早く俺の所へ来なかったのだ!?」


 ダンッ! と重い響きを轟かせ、修一郎の拳が畳に打ち付けられる。

まなじりはギリギリとつり上がり、顔は赤鬼のように真っ赤に紅潮していた。

ヒュッと海華の喉が鳴る。

出来るならこの場から逃げ出したかった。

今、目の前にいるのはいつもの修一郎ではない。

罪人どもに恐れられる、『鬼修』の顔だ。

お白州で見せる表情で、修一郎は自分達を見ているのだ。


 「俺は、そんなに頼り無いか? そこまで…… そこまで俺は信頼できぬ男なのか?」


 紅潮していた顔からみるみる血の気が引き、 苦しそうに表情が歪む。

修一郎は、がっくりと肩を落とした。


 「決してそうでは……そうではないのです!」


 バッと朱王の顔が振り向けられ、黒髪が宙に舞う。

蝋燭の灯りに浮かぶ彼の顔は蒼白、瞳だけがギラギラと光った。


 「一度、こちらに伺いました。そこの通りまで来た時……修一郎様と雪乃様が門から出て来られたのです。……奥方様なのだと、すぐにわかりました」


 声など掛けられるはずはなかった、二人で逃げるようにその場を去ったのだ。


 「勝手にこちらを飛び出して十年、乞食同然の私達が突然現れたら、修一郎様はどうなされましたか?もう何の関係も無いと、そのまま追い返されましたか?」


 「馬鹿を申すな! そんな訳がなかろう!」


 再び大きく目を向いた修一郎、だが、その眼差しには怒りではなく悲哀の感が混じっていた。

十年間、生きているのか死んでいるのかもわからない実の弟と妹。

ずっと助けてやれなかった事を後悔していた。

その二人が突然目の前に現れた時、確かに驚きはしたが、それよりも嬉しさが勝った。

無事に生き延びていてくれたのだ、と。


 「修一郎様なら、きっとそう仰るだろうと思いました。ですが、雪乃様にはどう説明されるおつもりでしたか? また、遠縁の者だと仰られたのでしょうか?」


 朱王は静かに目を伏せた。

修一郎も同じく返す言葉が見つからない。

朱王の言う通りだった。

雪乃は出来た妻だ、だが、嫁いできたばかりの者に二人の出生の秘密を話す勇気は無かった。

結局、遠縁の者らだと嘘をついていただろう。


 「突然見ず知らずの者らが転がり込んで来たら、雪乃様はどう思われるでしょう? それに……修一郎様に頼っては、十年前と何も変わらないのです」


 遊女の子として生まれ、妾の子として育ち、ここで人を殺めた。

そんな場所で、のうのうと暮らせる訳は無い。


 「一人前の人として、お会いしたかった。せめて人並みの生活ができるまで、それまで待とうと。一年も掛かってしまいましたが。――これで良かったんだよな、海華?」


 うん、と涙で汚れた顔を綻ばせ、海華は隣の兄を見上げる。


 「私も海華も金儲けがしたいのではありません。広い家も、贅沢な食べ物もいらない。ただ、二人で静かに暮らせれば、それで良いのです」


 淡々と語る朱王、視線はしっかりと修一郎を見据えたままだ。


 「さっきは、怒鳴って悪かった……。俺は、何もわかっていなかった。すまなかった……」


 すっかり意気消沈してしまった修一郎。

違う、と海華は思った。

わからないのは当たり前だ、自分達が隠していたのだから。


 「海華が仕事を辞めないのは、この時の事があるからです。金の有り難さも、無一文の悲惨さも、この子はよく知っている。だから必死に働く、先ほど修一郎様は、私の稼ぎで充分だと仰られましたが、決してそうではないのです」


 意外な朱王の言葉に、修一郎は首を傾げた。

なぜなら、朱王の人形は法外な値段が付けられる事をよく知っているからだ。

不思議そうにこちらを見遣る修一郎に、朱王は小さな笑みを投げる。

蝋燭が、じりじりと黒い煤を放っていた。


 「確かに、今は食うに困るなど殆どありません。そこそこ注文も入りますし、私が戸惑うような値で売れる時もあります。ですが、これから先、一年後、十年後まで順調に仕事があるか、保証は無いのです」


 自嘲しながら、朱王が言った。


 「これから、私より腕の良い人形師など後万と出てくるでしょう。私の造る物が飽きられてしまえば、あっという間に仕事は無くなる。人形師としてはお払い箱です。別の職につくにしても先立つ物が必要です」


 だから海華は働くのだ。

少しでも多く貯えるために、惨めな暮らしに逆戻りしないために。


 「私一人の稼ぎより、二人で稼い方が金は入る。仰られたように傀儡廻しで得られる額など雀の涙ほどです。それでも私は助かっています。それに……」


 危ないから、稼ぎが少ないから仕事を辞めろと言うのは、海華の人生を全て否定するようなものです。


 妹の方を向き、些か寂しそうな口調朱王は漏らした。

海華は驚いたように瞳を見開き、兄を見返す。

そんな風に思ってくれていたとは、考えもしなかった。


 「自分の身を守る術は、この子もよく知っています。簡単に殺られる程、柔ではありません。 また今回のような事があり、もう駄目だと判断した時は、私が必ず辞めさせます。いいな、海華?」


 朱王の問いに力強く頷く海華。

ここまで言われて、嫌とは言えない。

朱王は修一郎に向かって畳に額を擦り付けた。


 「どうかこのまま続けさせてやって下さい。お願い致します。」


 海華もガバリとひれ伏した。

声が出ないのが本当にもどかしい。

修一郎は難しい表情を変えず、自分に向かって頭を下げる二人をただ見ていた。

が、不意に立ち上がり、ガラリと庭に面した障子を開く。

見上げた夜空には、鏡のような望月が天高く煌めいていた。


 「そうか、なら好きなだけ働くがいい。……とは、正直言えぬ」


 天を仰いだまま、修一郎は語る。

二人はそろそろと身体を起こした。

修一郎の広い背中が、暗い影となって立ちはだかっている。

フワリと庭から風が吹き込み、蝋燭の炎を緩慢に揺らした。


 「もろ手を上げて賛成は出来ん。あくまでも反対だ。だがな、海華。俺はお前の十年間を否定する事も出来ぬのだ」


 海華の瞳が瞬いた。

同時に、修一郎はドカリと縁側へ胡座をかく。


 「散々偉そうなことを申したが、お前に何かあった時、俺は何もしてやれん。朱王のようにいつでも側にはいてやれん、桐野や都築らのように、すぐ駆け付ける事も出来ぬ」


 なんと不甲斐ないことか。

今回だって、ただ狼狽えながら桐野らの報告を待つしかなかったのだ。

本当なら務めもなにも放り出し、二人の元へ駆け付けたかった。


 「朱王、海華、俺も雪乃も、誰よりもお前達の身を案じているのだ。それだけは忘れんでくれ」


 修一郎の唇が閉じられたと同時、一瞬の静寂が部屋を包み込む。


 「ありがとう……ございます」


 やがて朱王は涙声で答え、海華も唇をわななかせた。


 「それだけ、わかってくれればいい。だが、次にあのような事があれば、俺も黙ってはおらぬからな。……夜の辻立ちは、用心しろ」


 ありがとうございます!  海華の口が叫ぶように動かされた。

勿論、感謝の言葉も嬉し泣きの咽びも、音としては出てこない。

黒い塊となって浮かぶ背中に、二人は暫し頭を下げ続けた。

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