第一話
障子戸を開くと、狭い部屋には暑く澱んだ空気と古畳の埃臭い匂いが充満していた。
「海華は、これからどうなるのだ……」
苦しそうに漏らした修一郎の一言が頭から離れない。
まともに歩けず、邸宅から背負って連れ帰った海華は静かな寝息を立てていた。
布団を手早く敷いてその上に寝かせると、薄い目蓋がピクリと痙攣を起こす。
まるで離れたく無いとでもいうように、白い指が朱王の髪を一房握り締めた。
爪が食い込む程に固く握られた指を朱王は一 本一本ほどき、強張ったその手を両手で包んだ。
冷え性のせいか海華の指先は年中冷たい。
何時もならさほど気にしないその冷たさが、今は酷く哀れに思えてしまう。
ゆるゆると力の抜けた手を布団へ入れ、朱王は隅に置かれた煙草盆を静かに引き寄せた。
胡座をかき、陰鬱な面持ちで火を付けた煙管をくわえて大きく息を吸えば、苦い煙が舌にしみる。
「――これからどうなる……か……」
薄くなった煙と共に、修一郎の台詞を反芻する。
それを聞きたいのは、こちらの方なのだ。
喉に傷があるといった原因があるなら、まだマシである。
しかし、それすらもわからない。
医者に匙を投 げられてしまった今、朱王にはなすすべはないのだ。
もしも治せる医者がいるならどこへでも馳せ参じるし、薬があるならいくらでも金は出す。
何も出来ない自分にひどく腹が立った。
目の前でたった一人の妹が苦しんでいるのに、ただ指をくわえて見ているしかないのだ。
煙管の吸い口に歯が立てられ、彼の両眼は揺らめきながら燃える蝋燭の焔を睨み付けていた。
あの二人、十吾と又兵衛の忌々しい顔が脳裏にちらつく。
許されるなら、今すぐにでも牢に飛んで行って斬りつけ思い切り苦しませながら殺してやりたかった。
海華以上の恐怖を味わいながら、のたうちまわって死ねばいいのだ。
蝋燭が煤を出しながら仄かな光を放つ。
急に朱王が弱々しく目を伏せ視、線は死んだように眠る妹へと向けられた。
「海華――、ごめんな……」
消え入りそうな声と同時に、カツンと乾いた音を立て煙管が煙草盆へと落ちる。
灰の中で赤く燻る火種もそのままに、朱王は両手で顔を覆った。
畳の匂いを掻き消し、温んだ空気に苦い香りが広がり、やがて消えていった……。
目蓋を透かして白い光を感じる。
海華は夢の中からゆっくりと抜け出た。
ぼやける視界に入るのは見慣れた天井、自分の部屋だ。
寝惚け眼を擦りつつ、布団から身を起こすと隣では兄が規則正しい寝息を立てている。
いつここに戻って来たのか、どうも記憶がはっきりしない。
昨夜、修一郎の邸宅へ行ったのは覚えている。
確か桐野の姿もあった、桐野から事件の話しを聞いて……そこからはわからない。
釈然としないまま、海華は兄を起こさぬようにそろそろと布団から抜け出る。
首に巻かれた包帯が汗を吸い込み、じめじめと気持ちが悪かった。
鏡の前に座り湿ったそれを外すと、黎明の光を受け、首に張り付くどす黒い痣が目に飛び込んで来る。
恐る恐る首を撫で、はぁ、と嘆息を漏らしてはみるが、彼女の口から出たのは空気が抜ける細い音だけ。
―― 声、出なかったわね ――
今更ながら残酷な事実を突き付けられた海華の顔が、鏡の中でクシャリと歪む。
この喪失感は、何なのだ。
今までも声が枯れて話しづらい時はあった。
しかし、今は全く話す事が出来ない。
唄えない傀儡廻し等あり得ない、廃業したも同然だった。
何より、兄と話せない事が一番辛い。
もう一緒に大声で笑ったり、泣いたり、怒鳴り合って喧嘩する事は永劫に出来ないのか?
鼻の奥が、ツンと痛む。
海華は激しく頭を振った。
いくら涙を流しても、鬱いでいても仕方ない。
とにかく、他人と少しでも意思疏通する手段を考えなくては。
海華はおもむろに立ち上がり、部屋をぐるりと見渡す。
暫くするとその目が何かを捉え、瞳が大きく揺れ動いた。
トントントン……。
包丁がまな板を叩く軽やかな音色で朱王は目を覚ました。
慌てて布団から飛び起きると、何時ものように朝飯の支度をしている海華と視線がかち合う。
「お、前。大丈夫なのか?」
戸惑いがちに尋ねる兄へコクリと頷き、海華はおもむろに手元にあった紙を掲げた。
目を凝らしてよく見ると、黄ばんだ雑紙に丸文字で『おはよう』と書かれている。
朱王はポカンと口を開け、呆気に取られてその紙を見詰めていた。
そんな兄に向かい、海華は焦れた様子で手にした紙を数回振ってみせた。
「あ――、お、お早う。それ、どうした?」
細い指が、すっと朱王の作業机に向けられた。
つられて顔をそちらにやると、たっぷりと墨を含んだ筆と雑紙やら瓦版が置かれている。
朱王はすっかり失念していた。
海華は字が書けたのだ。
話せないなら書いて示せばいいと、考えたのだろう。
「お前、よく考えたな」
立ち尽くしたまま感嘆を漏らす兄へ満足そうな笑みを浮かべる海華。
朱王が、暫くぶりに垣間見た妹の笑顔だった。
海華は包丁と紙をまな板へ置き、生米を入れたザルを手に、外へと出ようとする。
「おい! ちょっと待て!」
戸口に手を掛けた妹を、朱王は咄嗟に駆け寄り押し止める。
「あのな、長屋の人達にはまだ言ってないんだ。お前の……声が出ない事をな。だから、あまり人前には――」
酷く心配顔で自分を見下ろしてくる兄へ、海華は小さく頭を振る。
そしてポンポンと自らの懐を叩き、朱王が止めるのも聞かずに表へ出て行ってしまった。
気が気でない朱王は戸口の隙間から様子を伺う。
井戸の辺りでは長屋の女達が大勢集まり、世間話に花を咲かせながら米や野菜を洗っている最中だ。
その輪の中に海華が入っていった。
口々に声を掛けてくる女達に海華は懐をまさぐり、何かを取り出して皆の前に掲げる。
次の瞬間、飯の匂いが漂い始めた長屋に女たちの驚愕した叫びが響き渡ったのだ……。
海華の声が出なくなった。
噂は風のように長屋やその周辺を駆け巡り、 連日二人の部屋には見舞い客が訪れた。
声枯れに効くという飴や茶を持参して来る者もいたが、二人が一番驚いたのは大家の女房、お石がいかにも胡散臭そうな祈祷師を引き連れて来た事だった。
この先生の祈祷は良く効くのだ。と、口角泡を飛ばして力説するお石に、応対に出た朱王はただただ唖然とするしか無かった。
「まじないで治るなら世話ないんだがなぁ」
お石と祈祷氏をなんとか追い返し、朱王は頭を掻きながら机の前にドカリと腰を降ろす。
兄の言葉に苦笑いを浮かべた海華、その腕には商売道具の人形が大切そうに抱えられている。
十吾の屋敷で奪い取られたままだった人形を、先程部屋を訪れた都築が持ってきてくれたのだ。
地面へ放り捨てられていたため多少の汚れはあるが、派手に壊れてはいない。
人形の事がずっと気掛かりだった。
飯の種だから、と言う訳ではない。
もう長い間、昼も夜も同じ時を過ごした大切な相棒だ。
自分の分身でもあり、朱王が人形師として手掛けた最初の作品でもある。
手元に無いのは半身を引き裂かれるのと同じ位辛かった。
それが無事に戻り、胸のつかえが取れた海華の表情は、幾分柔らかいものへと変化している。
「新しいのを作ってやろうと思ったんだが……。充分使えそうだな」
うんうん、と嬉しそうに頷く海華は、ふと何かを思い付いたように立ち上がると人形を箱に仕舞う。
そして四つん這いになってぱたぱた机に寄り、 置かれたままの筆を握るとまたもや紙に何かを書き出した。
それを兄へと差し出すと、みるみる朱王の眉間に深い皺が刻まれる。
紙には、 『ないしょくさがしてきたい』
と書かれていた。
「駄目だ!」
ぴしゃりと朱王が言い放ち、紙を突き返す。
心配の種が消えた途端、また悪い虫が騒ぎ出したか。 と、朱王は内心呟いた。
『どうして? ひまなの』
不満気に頬を膨らませながら新たに書き足す。
机に頬杖をつきながら、朱王は横目で妹を睨んだ。
「こんな時にまで働く必要は無い!」
確かに暇なのはわかる。
声が出ないだけで身体は足の傷以外なんともないのだ。
日がな一日部屋に籠っているのは苦痛だろう。
しかし、万が一海華が働いている事が修一郎の耳にでも入れば、邸宅に呼び出されるか、ここに怒鳴り込まれるかのどちらかだ。
「暇なら――。そうだ、俺が仕事をやる」
ぽん、と手を打った朱王はパッと腰を上げると、何を思ったのか長持ちの中を探り始めた。
小首を傾げる海華の前に差し出されたのは、二枚重なった着流しだ。
「上のは裾がほつれて、下は袖口が破れかかってる。縫い直してくれ」
それを聞いた途端、海華の顔が心底嫌そうに歪められる。
彼女は針仕事が大の苦手だ。
他の家事なら大抵こなせるが、どうしても縫い物だけは上達しなかった。
雑巾一つ縫うにも針目はバラバラ、数え切れないくらい針が手に刺さる。
勿論、それは朱王も周知していた。
だからわざと頼んだのだ。
「今は昼だから、二枚縫うなら夜まで掛かるだろ? いい暇潰しだ」
ニヤリと口元を吊り上げる兄に対し、海華はキリキリと柳眉を上げた。
突然、筆を鷲掴み、『いじわる』と、怒りを込めて殴り書き、兄から着物を引ったくった。
「本当なら、お駒さんに頼もうと思ったんだが、ちょうど良かった。綺麗に縫わないとやり直しだからな?」
とどめの一言を放つ兄へ、海華は思い切り舌を突き出した。




