第三話
修一郎の訪問から二日たった。
この頃には海華の喉も元通りになり、今日は早朝から二人の部屋が騒がしい。
「それじゃあ兄様行ってきます!」
戸を勢いよく開け放ち、晴れやかな表情の海華が朝の清々しい空気の中へと飛び出した。
その後ろから、急いた様子の朱王が顔を突き出す。
「ちょっと待てっ! さっきの約束覚えてるな!?」
「覚えてるわよ、絶対に守るから信用してよ」
「もう一度ここで言ってみろ」
有無を言わせず、といった風に朱王が見下ろした。
面倒臭い、とは思いながらも海華はその約束を復唱し始める。
「日のあるうちに帰って来る、知らない人間に付いていかない、人通りの少ない所は通らない、何かあったら、取り敢えず逃げる!」
「よし、俺は昼から出掛けるからな。気を付けて行って来い!」
それを合図としたかのように、行ってきます! と一声、彼女の足が地面を蹴った。
近所の者達に、お早うございます! と挨拶しながら、あっという間にその背中が小さくなって行く。
朱王は心配そうに妹の消えた方向を暫く見詰めていたが、やがて部屋へと引っ込んでいった。
仕事に没頭していると、時は矢のように過ぎてしまう。
昼に少しの休憩をし、それから道の辻数ヶ所に立てば、辺りはすぐに夕焼けに染まり地べたに長い影を作り出している。
「さぁて、そろそろ仕舞いにしなくちゃね」
日のあるうちに帰る。兄と交わした約束を頭の隅に置きながら、海華は慌ただしく片付けを始めた。
地面に箱を置き、人形を仕舞う海華の小さな背中に黒い人影がヌッと覆い被さったのだ。
「もし、ちょっと失礼します」
頭上から野太い男の声が降る。
突然の事に仰天し、飛び上がるように突っ立った海華の前にいるのは、瑠璃紺の羽織を纏った肩幅の広い熊のような体格の男だった。
「突然申し訳ありません。私、廻船問屋、北原屋の者です。失礼ですが、中西長屋に居られる朱王様のお身内の方でしょうか?」
厳つい顔に似合わず、男は丁寧な話し方をした。
何が何やら訳がわからない海華、しかし兄の名前を出されて思わずはい、と返事をする。
ポカンとした面持ちの彼女へ男は更に続けた。
「実は先ほど、朱王さんが店の前で気分を悪くされまして。今、中でお休みになっているのです。何でも、妹様が居られるとおっしゃっておりましたので、主人が探してお連れしろと」
「え! 兄様が!?」
彼の話を聞いた刹那、海華の表情が一気に曇った。
朝は具合が悪そうな気配など全く無かったのだが……この暑さにでもやられたのだろうか?
しょっちゅう熱を出している自分とは違い、朱王は殆ど体を壊した事は無い。
だから、余計に不安だった。
「そうですか、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません! 今すぐ迎えに参ります」
片付けもそこそこに、海華はその男に付いて店へと急ぐ。
知らない者に付いていかない。 出掛ける前の約束など、とうの昔に頭に中から吹き飛んでいた。
「海華殿! 海華殿!?」
半刻ばかり行った頃か、足早に歩く海華の後ろから突如聞きなれた声が飛んだ。
立ち止まって振り向くと、高橋と都築が小走りに近寄ってくる。
「海華、どうしたのだ? 顔色が悪いぞ」
案ずるような声色で都築が顔を覗き込んできた。
「兄様が、出先で具合悪くして……。これから迎えに行くんです」
オロオロ声で答えると、高橋は僅かに眉を寄せる。
「朱王殿が? それは心配だな。海華殿一人で大丈夫か?」
「はい、兄様一人位なら大丈夫です」
やり取りを続ける二人の横で、都築はひょいと連れの男に視線を移す。
すると男は妙に落ち着き無い様子で、サッと顔を背けたのだ。
「ああ、私もう行かなくちゃ。すみません、失礼します」
海華はわたわたと慌ただしく二人に向かって一礼し、再び男と歩き出す。
「朱王殿、大したことなければよいがなぁ」
顎の下を擦りながら、高橋は二人の背中を見送っていた。
その横で、都築は険しい表情となり高橋へと目をやる。
「なぁ、あの男、何かおかしいと思わぬか?」
「おかしい? 何がだ?」
不思議そうに高橋が返す。
「あ奴、不自然に俺から目を反らしたんだ。羽織には確か北原屋とあったが……。どうも気になる。俺は二人の後をつけてみる。高橋、悪いがひとっ走り忠五郎と桐野様に知らせてくれぬか?」
ただならぬ相方の物言いに、高橋の表情も引き締まった。
「承知した。以前の件もあるしな。成るべく早くそっちに向かう」
お互いに顔を見合せ、軽く頷くと二人は夕暮れ迫る道を正反対に別れて走り出したのだった。
「兄様大丈夫!?」
北原屋の母屋、一番奥の座敷に通された海華の目に飛び込んできたのは、一人ぽつんと座している兄の姿だった。
「お前! 何ともないのか!?」
妹の大声に反射的に振り返った朱王も、すっとんきょうな叫びを上げる。
「お前がこの店先で具合を悪くしたと聞いて、飛んで来たんだ」
「え? あたしは兄様が体調崩したって聞いたわ」
まるで狐に摘ままれた様だ。
二人が訝しげな表情で顔を見合わせていると、突然海華の後ろからドヤドヤと男達がなだれ込んで来たのだ。
思わずよろめいた海華、直ぐに立ち上がった朱王が慌ててその身体を支える。
「お二人共お揃いですな?」
黒茶の着物をきっちり着こなした丸顔、初老の男が人懐っこい笑みを見せた。
そして隣では、贅肉を纏った寸胴の見覚えがある男の姿があり、黄ばんだ歯を覗かせながら薄笑いを浮かべている。
「ご足労頂いて申し訳ない、私ここの主、十吾と申します。隣は……もうご存知ですかな?」
初老の男は相変わらず笑みを崩さず、兄妹へと視線を流した。
「……奇影堂の又兵衛さんですね。これは、一体何の真似ですか?」
声に怒りの色を滲ませた朱王が男達を睨め付けた。
「いえねぇ、この又兵衛がぜひとも貴方達を材料にしたいと申しましてねぇ」
あっさりとそう言った十吾の目が、すっと細められた。
「ざ、材料って、……何の?」
兄の後ろに身を隠し、その着物を強く握り締めた海華が恐る恐る口を開く。
彼女の問いに答えたのは又兵衛だった。
「勿論、見世物の材料ですよ。新しい商品を造らなくてはなりませんからなぁ」
「ふざけるなッッ!」
柳眉を逆立て、朱王の怒号が響き渡る。 瞬間、目前の男らが一斉にドスやら短刀、荒縄を二人に向かってつき出したのだ。
「ふざけてなどはおりません。あまり騒ぐとここで死んで貰いますよ? まぁ私としては生身の方が有難いが、別に死骸でも一向に構いませんのでね」
じりじりと凶器を手にした男達との間合いが狭まり、二人は部屋の隅へと追い詰められていく。
「それでは下まで来て頂きましょう。」
十吾は唐突に障子を開いた。
一人の男が前に進み出ると、乱暴に二人を突飛ばして廊下へと押し出す。
小さな悲鳴を漏らした海華は、兄にしっかりと抱き付き怯えた眼差しを自分たちを取り囲む男たちに向けた。
畜生、と低く吐き捨てた朱王だが、周りを囲まれてしまってはなすすべが無い。
「下へ降りたら、泣くも叫ぶもご自由に。どうせ外までは聞こえませんからね」
ヒヒヒ、と薄気味悪い又兵衛の笑い声が鼓膜を掠め、海華は震える目蓋をギュッと閉じて、ただただ兄にしがみつくしか出来ないでいた。
捕らえられた二人が連れていかれたのは、周囲を石で造られた薄暗い地下室だった。
重厚な木の扉が開かれた瞬間、鼻先を殴られるような衝撃が二人に襲い掛かる。
湿った空気と黴の匂い、濃厚な血と脂、腐った肉に排泄物。
ありとあらゆる悪臭が混じりあい涙が出そうな程に鼻腔を刺激した。
胃袋がひっくり返る感覚を覚えた二人は、思わず口元を押さえる。
十畳程しかない部屋は奥に石を彫って造られた大きな寝台があり、周りの壁には様々な大きさ、形の刃物や太い針、金属で出来た匙や鑿など見るも不気味な器具がぶら下がり、床にはどす黒く変色した大小の木桶が並んでいた。
「さて、まずは妹の方から処理しますか。兄貴は……そこの柱にでも繋いでおけ」
濃紺の前掛けを着けた又兵衛は、い並ぶ男達にてきぱきと指示を出す。
すると、複数の太い腕が伸び、あっという間に兄妹は部屋のあちらとこちらに引き剥がされた。
「何するんだッ! 離せっ……! 海華っっ!」
「兄様ッッ! このっ! 降ろせ! 降ろせってば!」
猛烈な勢いで暴れる朱王は男数人がかりで側にあった柱へ後ろ手に縛り付けられ、その首にも二重に荒縄が絡み付き柱へと完全に固定される。
背負っていた木箱を奪い取られた海華は一人の男に軽々と抱え上げられ、必死の抵抗も虚しく奥の寝台へと連れて行かれた。
「妹に触るなっ! 何をする気なんだ!?」
耳まで紅潮させた朱王は鬼の形相で傍らに立つ十吾を威喝する。
十吾はこの場にそぐわない 楽しげな笑みを溢した。
「あまり暴れると息が詰まりますよ? そう言えば又兵衛、その娘は何に作り変えるかまだ聞いていないよ?」
「そうでしたか? また人魚にしようと思っておりました。前にいた奴が何をとち狂ったのか水槽に頭突っ込んで、死にましてねぇ」
奥から、これまた楽しそうな返事が返る。
続いて海華のかん高い悲鳴と共に、シュルシュルと帯を解かれる衣擦れの音がした。
朱王の顔から一気に血の気が引いていく。
「この際だから作り方も教えましょうかねぇ。まずは、足の内側の皮を全部剥がします。次に傷口をしっかり合わせて置いておくだけ。傷が塞がれば、足はぴったりくっついたままですよ。後は刺青で鱗をつければ、はい、人魚の出来上がり」
一通り喋った十吾は、ニタリと冷たい笑みを浮かべる。
「この……腐れ外道っ……!」
「貴方も時期に、外道の仲間入りですよ。人間の姿でここから出られた人はいませんからね」
怒りに呻く朱王を鼻で笑う十吾。
その時、キャーッ!と一際悲痛な叫び声が朱王の鼓膜を震わせた。
「おお、まだ未通女か。旦那様、これは売り飛ばしてもいいですな。高く売れますよ」
「痛いッ! 離して……! あ!イヤぁぁぁっ!」
ギャンギャン泣き叫び、暴れ狂う海華だが、首まで固定された朱王にはその姿は見えない。
ただ、罵声と怒号を張り上げながら、なんとか縄をほどこうともがく。
しかしそのたびにザラザラした縄が首に食い込み、擦れた手首からは血が流れた。
「俺なら何をしてもいい! 腕切るなり皮剥ぐなり好きにしろっ! だから妹だけは……」
「そうはいきませんよ。ここまで来たんだ。いい加減諦めたらどうです? 時期に貴方も同じ目に合うんだ」
必死の懇願も軽くあしらわれるだけ。
「兄さんの方は達磨にしましょう。ウチには男の達磨はいませんからね。それにしてもよく喚く娘だ。喉を潰すより舌ごと切ったがいいですなぁ」
「嫌だ! 嫌……いやあぁぁぁぁっ――!」
「海華――ッッ! 止めろ! 止めてくれッッ!」
又兵衛の無慈悲な台詞に、ギリギリと縄を食い込ませながら朱王は血を吐くような絶叫を迸らせた。
「やれやれ、活きのいい。まぁ、この間の夜鷹よりは楽しめますか。縮みあがって泣きも喚きもしなかったからねぇ」
恥も外聞も無く叫び散らす朱王を呆れたような眼差しで眺めながら、十吾が小さく口元を歪める。
その刹那、旦那様っ! と切羽詰まった呼び掛けと共に、ギリギリと重そうに扉が開け放たれたのだ。
「どうした!? ここには入るなと言ったはずだぞ!?」
十吾が飛び込んで来た男を激しく咎める。
すると男は、皺の目立つ顔を蒼白にしながらオロオロと開け放したままの扉の外を指差した。
「それが、都築とか言う町廻りの侍がさっきここへ来た娘に会わせろと……」
「何、町廻り!?」
驚愕の叫びを上げ、十吾の顔からみるみる血の気が引いていく。
反対に、朱王の胸に微かな希望の火が灯った。
十吾の叫びに驚いたのか、又兵衛がひょこりと顔を覗かせる。
「どうかしましたか?」
「いや……少々邪魔が入ったらしくてね。私が追い返して来るから、続けていて下さい」
どうにか平静を保ちながら十吾は今来た男と共に部屋を出ようとする。
その時だった。
「お待ち下さいっ! そちらには何も……!」
「黙れっ! あの娘を出せと言っているのだ! 邪魔立てすると容赦せぬぞっ!」
バタバタと慌てふためく足音と、都築の雷の如き怒鳴り声がすぐ近くで響き、思わず十吾はピタリと足を止めた。
「都築さまぁぁぁ――っ! 助けて下さいっ! お願い……助けて――っっ!」
「都築様っ! 下、下です! 助けて下さい都築様っ!」
海華と朱王が喉を破らんばかりに絶叫を上げ、海華は足で寝台をダンダンダンッッ! と激しく叩き付ける。
思いもよらぬ反撃に、彼女を拘束していた男らの顔に焦りの色が浮かんだ。
「馬鹿野郎っ! 早く口塞げっ!」
「扉を閉めろっ! 早くしろっ!」
又兵衛は慌てて寝台に飛び付き、十吾は重い扉を懸命に閉めようとする。
「離してっ! うわあぁっ!」
突然海華の叫びが途絶え、代わりにゴロゴロと喉が鳴る音が朱王の耳に届く。
十吾と男が扉を閉める瞬間まで朱王は髪を振り乱し、声を限りに叫喚し続けた。
その最中、無慈悲にもドン……。と鈍い音を上げ、扉が閉められたのだ。
安堵の表情を浮かべた十吾が、頑丈な鉄の鍵を手にした、次の瞬間。
「朱王っ! 朱王いるのかっ!? 朱王ッッ!」
「都築様っ!」
バンバンと扉が震える程激しく都築の拳が打ち付けられ、驚きに目を見開いた十吾の手から鍵が滑り落ち、ガチャンと鋭い音を立てた。
ここを開けろ! と怒鳴り散らしながら都築は扉を打ち続けるが、その程度で扉はびくともしない。
「開けろっ! 開けろと言っているのが、わからんのかぁぁぁぁ――っっ!」
ズガーン! と派手な土埃を舞い上げ、扉が内側にふっ飛んだ。
その弾みで、すぐ側にいた十吾と男は声も出せぬままに扉と一緒に土壁へと猛烈な勢いで叩き付けられる。
怒号一声、都築が扉を蹴り破ったのだ。
それを目の当たりにした又兵衛と男達は血相を変えて一番奥にあった隠し扉から必死に逃走してしまった。
が、今の都築にそんな者を構っている暇は無い。
「朱王無事かっ!? 今ほどいて……」
湯気を出さんばかりに真っ赤に上気した顔で都築は刀を抜いて朱王を拘束する荒縄を断とうとする、しかし、朱王は大きく頭を振りすがり付くような視線を向けた。
「私は平気です! それよりも、奥に海華が……!」
「わかった、すぐに高橋達も来るからなっ! 暫く辛抱してくれ!」
煌めく抜き身を握ったまま寝台へと走る都築。
そこに打ち捨てられた海華を見た途端、うわぁ! と小さな叫びが上がり、バサバサと布を拾うような物音がした。
「生きていますか!? 海華は……無事なんですかっ!?」
朱王からは、切羽詰まったような声が上がる。
「だ、大丈夫だ! 首を絞められて気絶しておるが、息はあるぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、朱王は全身の力が抜けたような気がした。
首の縄が無かったら、そのまま崩れ落ちていただろう。
震える唇からは何度も礼の言葉が零れ、青ざめた頬に一筋、光る物が流れた。




