第一話
湿り気を帯びた生温い風に乗り、賑やかな笛や太鼓、そして人々の歓声が部屋に届く。
夏真っ盛りの江戸の街は、今や祭り一色だ。
老若男女が華やかな浴衣を纏い、次々と夜の街へと繰り出しては出店や神輿、高々と打ち上がる花火を楽しむ。
しかし、周りが浮足立つ中でも海華は仕事に忙殺されていた。
道に立つ大道芸人にとって、人通りが多くなる祭り時期や正月は絶好の稼ぎ時なのだ。
今日も日が落ちる間際に部屋へ戻り、慌ただしく夕餉の支度をすると朱王が思わず眉を潜めるほど、ガツガツと掻き込むように食事を終えた。
そして、休む間も無く再び出掛ける準備を始めたのだ。
「落ち着かないな。祭りは逃げないんだ、そう泡喰って行く事もないだろう?」
むったりした表情で、朱王は箸を置く。
「祭りは逃げないけど、人はどんどん行っちゃうのよ! 稼げる時にうんと稼いでおかなくちゃ!」
ぐいと口元を拭った海華は、さっさと下駄を突っかける。
行ってきます! と一声、戸口に手を掛けた時、木箱を背負った背中に『おい!』と朱王の声が飛んだ。
「なぁに? 洗い物はそのまま置いといていい……」
「違う違う! 今日はもう仕事は無しだ。せっかくだから、俺達も祭り見物にでも行こう」
兄の口から飛び出たその台詞を聞いた途端、海華は呆気に取られた様子でポカンと口を開き、固まっていた。
人込みが大嫌いな上、出無精の兄から祭りに誘われるなど思ってもみなかった。
まさに、天地がひっくり返ったような衝撃だ。
余りの暑さにやられたのか、それとも何か悪い物を食べたのかと海華は本気で心配していた。
「なんだ、俺と一緒じゃ嫌だってのか?」
不審そうに自分を見詰める妹に機嫌を損ねたのか、フンと鼻を鳴らして横を向いてしまう。
そんな彼へ海華はもの凄い勢いで首を振った。
湿っぽい髪から、ほのかに汗の匂いが漂う。
「行くっ! いや、行きたい! あ、その前に湯屋に行きましょ、汗かいて気持ち悪いわ!」
頬に髪を張り付かせ、次の瞬間には海華は喜びを爆発させた。
仕事抜きに祭りをみるなど、何年ぶりだろうか。
下駄を脱ぎ捨て、バタバタと畳に上がると、木箱を背負ったまま突然長持ちの中を引っ掻き回し始める。
「確か浴衣があったはずよ、しまったままだったけど……」
長持ちからは、寝巻やら帯やらが放り出され畳へと広がる。
バタバタ忙しなく出掛ける用意をする海華を眺め、軽く口角を上げた朱王は再び食事に戻っていく。
「兄様いつまで食べてるの!? 早く!」
「わかってる! お前な、飯ぐらいゆっくり食わせろ!」
やっと捜し出した浴衣を抱きしめ、満面の笑みを浮かべる海華に早く早くと急かされ、朱王は今までに無いほど慌ただしい夕餉を終えたのだ。
朧月の下、淡いぼんぼりの光りが街を彩る。
風呂で一日の汗を洗い流した兄妹は、そのまま祭りへと繰り出していた。
流水に菖蒲柄の浴衣を纏い、黒い帯を絞めた海華は足取りも軽やかに押し寄せる人波をくぐり抜け、並び立つ出店の冷やかしに夢中だ。
黒い細縞の浴衣を身につけている朱王は、水気を含んだ髪を後ろで一括りにし、慣れぬ様子で人込みを避けている。
その足元を狐の面を付けたのを先頭に、数人の子供が甲高い歓声を上げながら駆け抜けて行く。
子供の頭が腰にぶつかり、よろめいた彼を海華が咄嗟に腕を伸ばして支えた。
「兄様大丈夫? 逸れないようにしてね」
「それはこっちの台詞だ。ちょろちょろ動いて変な所行くなよ? 見えなくなったら、そのまま置いて帰るからな」
人でごった返す往来、一度逸れれば捜し出すのは一苦労だ。
「心配無いわ。兄様人より背が高いから、すぐに見付けるわよ」
海華は平然な顔でそう言って退ける。
そんな彼女を見下ろして朱王は小さく溜息をつく。
人に揉まれる二人の耳が、ふと、ある会話を雑踏の中から拾い出した。
「お前見たかい、奇影堂の出し物さ」
「見た見た! あの見世物小屋だろ? 気味悪りぃ木乃伊だの化け物の死骸だのが、わんさかあったぜ。どっかの女房がそれ見てぶっ倒れてよぉ」
「俺の女房も真っ青な面してやがったぜ。何でも、奥には生きた化け物がいるらしい、怖がって誰も行かないらしいがなぁ……」
男二人の会話は、そこで騒音に掻き消された。
二人は同時に顔を見合わせる。
「ねぇ、今の聞いた?」
「ああ、見世物小屋の話しだろ?」
「ちょっと覗いてみない?」
キラキラと瞳を輝かせる海華に対し、朱王は露骨に嫌な顔を作り出す。
「化け物だ幽霊だが苦手なくせに、どうしてそんな物を見たがるんだ?」
「いいじゃないの! どうせ干からびた木乃伊なんだからさ。怖かったら、すぐに出てくればいいんだし。ねぇ、行きましょうよ!」
強引に朱王の手を引っ張り、海華はどんどんと先を行ってしまう。
今来た道に、見世物小屋なぞは無かった、あるとすればきっとこの先だろう。
「夜中に怖い夢見て跳び起きても知らないからなっ!」
彼女の強引さに負け、渋々歩みを進める朱王。
先ほどの話に出ていた見世物小屋、奇影堂は、歩いてそう遠くない場所に建っていた。
急ごしらえだが、そこそこに広さのあるどっしりした木組みの小屋。
『どなた様も寄ってらっしゃい、お代は後だよ、さぁどうぞ!』
そんな威勢の良い呼び口上に吸い寄せられ、続々と人が中へ吸い込まれて行く。
二人もその人の流れに乗り、薄暗い小屋へと足を踏み入れた。
蝋燭の明かりに照らし出された場内は、まさに魑魅魍魎、異形が巣くう狂乱の世界だった。
揺らめく蝋燭の灯りに浮かび上がる、人外の骸。
鋭い牙を剥き出しにし、三日月形に反り返るこげ茶色をした人魚の木乃伊、四つん這いになり、ポッカリと窪んだ眼窩を向ける、ひび割れだらけの甲羅を背負った河童。
刃物のような爪を見せる、肘から下だけの鬼の手。
その後ろには、ボサボサの毛並みをさらけ出す頭が三つある犬や、親指ほどの太さがある棘が背中一面に生えた猫ほどの大きさもある奇妙な動物の剥製が作り物の目に客たちの姿を映す。
通路の右側には所狭しとミイラや剥製が並べ られており、反対側には分厚い硝子の筒に収まった、ぶよぶよとした肉の塊が黄ばんだ液体に浮かんでいた。
暗がりに目を凝らせば、それは灰色に変色した胎児の遺骸。
ある者は、顔の真ん中に一つしか無い白く濁った目を見開き、またある者は小さな腹から茸のように、もう一つの頭が生えている。
澱んだ空気が立ち込め、人が歩く度に埃が舞い上がり、皆、着物や浴衣の袖で口元を覆う。
そして一様に硬い怯えた表情を見せ、無言のまま足早に出口へと消えて行った。
「凄いわね……。本物なのかしら?」
人魚の鱗をまじまじと眺めながら、海華が感嘆のため息を漏らす。
朱王はと言えば、顔の崩れた胎児に釘付けだ。
二人共、恐れよりも好奇心が先に立っているようである。
「気に入って頂けましたかな?」
不意に後ろから低い声が響き、朱王は驚いたようにグッと息を飲み、海華はビクリと肩を竦めた。
気配無く立っていたのは、一人の中年男だ。
漬物樽に手足が生えたかのような背の低い丸々した体つき、ニヤニヤと笑う目の下にも、たっぷりと肉が垂れ下がり濃い陰影を作り出している。
どこか筒に浮かぶ胎児に似ていると朱王は思った。
「お二人共熱心にご覧になっておられましたもので。私、ここの主で又兵衛と申します」
揉み手をしながら、男は頭を下げた。
いきなりの事にたじろぎながらも、二人は軽く会釈する。
そんな二人に舐めるような目付きを送り、男が通路の奥を指した。
「この奥には、もっと面白い見せ物が山ほどございます。どれも諸国を廻って集めた者達で。皆様は恐ろしがって素通りなさるのですが、お二人は肝が座っているとお見受けしました。せっかくですから、どうぞご覧になって下さいませ」
そうしわがれた声で言った彼の指差した先には、重そうな板で出来た古い扉がある。
海華は『どうする?』と言いたげな視線を兄へ送った。
朱王は暫く思案していたが、やがて行くか、と小さく呟く。
どうもあの奥が気になるようだ。
「どうぞどうぞ、こちらでございます。あぁ、奥様は旦那様の手を握った方がよろしいかと。女性にはちと刺激が強すぎますからな」
「はぁ……。私、妹なんです」
思いもよらぬ台詞に思い切り眉を寄せる海華。
しかし男は、それは失礼しました。との一言だけで、ニヤニヤ笑いながら奥へと進んでしまう。
笑いを噛み殺しながら付いていく朱王、しかし重厚な扉が開かれた途端、その笑みは彼方へと吹き飛ぶ事となる。
扉を開けた瞬間、襲い掛かって来た強烈な臭気 と動物じみた呻き声に二人の足が止まった。
濃縮された汗の匂いと僅かな香の香りが混じり合い、思わず海華は鼻を押さえて一歩後ずさる。
先程の通路より更に暗いそこは、両側に鉄製の檻が並べられ、ギラギラ光る幾多の目玉らしき物が一成にこちらへと向けられた。
「暗いですから、足元にお気をつけ下さい」
ニヤリと二人へ笑いかけ、男は足を進める。
「……行くか?」
「うん」
不安そうな表情を見せながら、海華は兄の手をしっかり握った。
檻に閉じ込められていたモノ、それは地獄絵図から抜け出たのかと思うような醜悪で異常な生き物達だ。
木乃伊でも死骸でも無い、息をして動き回る異形達。
口が耳まで裂け、唇すらも無い男が涎を流しながら歪んだ笑みを向けている。
その隣には、背中一面に黒い毛を生やした褌一枚の少年が四つん這いでぐるぐると檻の中を廻っていた。 グッ、グッと呻くような音だけが、赤黒い舌を垂らした口から漏れる。
「これは犬と人の間に出来た者でしてね」
そう言うと、男は檻の中へ手を突っ込んだ。
瞬間、グアッ! と唸り声を上げた犬男が身体ごと力一杯檻にぶつかる。
ガチャン! とけたたましい響きを立てて、鉄格子の檻が揺れた。
「きゃあ!?」
悲鳴を上げた海華が兄にしがみつく。
ガアガアと吠え立てる犬男の澱んだ瞳を目の当たりにした朱王も、思わず頬を引き攣らせて息を飲んだ。
「いや、失礼致しました。躾がなっていない犬でしてねぇ」
何事も無かったかのように言って男は更に歩みを進めた。
青い顔をしながら固まる海華の肩を軽く叩き、 朱王が一歩踏み出した。 と、突然、浴衣の裾を強く引かれ、足がよろめく。
「お兄さん、いい男だねぇ。ねぇ、こっち来て、抱いておくれよ」
地の底から沸き上がるような細い女の声。
慌てて裾を見ると、骸骨のように細く白い手が伸び、しっかりと裾を握りしめている。
声の主は、ガリガリに痩せ干からびた女だった。
油気の抜けた長い髪を流し、赤い襦袢だけを纏った女の身体には肉が無い。
骨に直接皮が張り付いているよう、脈うつ心臓すら見えてしまいそうだった。
「――悪いが、肉付きの良いのが好みなんでね」
表情を強張らせつつ、朱王が言った。
ひび割れた唇を歪ませ、女はケラケラ笑いながら、あっさりと裾を手放したのだ。
「これは餓鬼憑き女です。物が食べられない。食べてもたちどころに吐いてしまう。だから痩せ細っているのですよ」
男は一つ一つの檻の前で丁寧に説明を繰り返すが、もはや二人の耳には入っていない。
手足の無い女が口で筆を加え文字を書く。
両足がピタリとくっつき、下半身に螺鈿のような鱗の刺青を施した人魚が、気だるげな視線を投げ掛けた。
米俵程の背丈しかない小人男は、キィキィと猿の鳴き声を上げて檻の中を跳ね回る。
立ち上る臭気とあちこちで響く奇怪なわめき声。
全ての異形を見終わり、表に出た二人の表情は固く冷たく凍りついていた。
「楽しんで頂けましたかな? また、是非おいで下さいませ」
薄気味悪い笑顔に見送られ、出口で小銭を払った二人はフラフラと見世物小屋を後にする。 祭り囃子の喧騒をくぐり抜け、ひたすら無言を貫いて、辿り着いたのは柳が連立する河っ淵。
肩の力が抜けた海華の口から、大きなため息が漏れた。
「とんでもないモノ見ちゃったわね」
「流石に肝が冷えたな」
そう答える朱王も今だに顔を強張らせている。
「諸国から集めた化け物って言ってたけど、本当かしらね?」
「俺には全部人間に見えたよ。まぁ、成れの果てには違い無いが」
ザワリと風が二人の間を吹き抜け、柳の枝を掻き乱す。
その途端、海華の背筋に電流が走った。
「ギャーーッ!」
凄まじい悲鳴を迸らせ、海華の体が派手に跳ね上がる。
尋常ではない絶叫に朱王も思わず横へと飛びすさった。
「何だいきなりっ!?」
朱王が眦を吊り上げて吃驚の表情を向ける朱王。
彼の前で首筋を押さえながら、海華はバタバタと慌てふためいた。
「触ったっ! 誰かに首触られたぁっ!」
今にも泣き出しそうに喚き立てる。
朱王が周りを見回すが、自分達以外に人はいない。
ボンヤリと光を放つ辻行灯が一つ立っているだけだ。
「誰も居ないぞ? 柳の葉が当たっただけだろう」
「違う! 人の指だったもの! いやだ、もしかして……」
幽霊かも、と口走る妹を朱王は鼻で笑い飛ばす。
「柳の下に幽霊か? そう都合良く……ウワァァッ!?」
突然、海華に負けず劣らずの叫びを上げて朱王の背中がビン! と真っ直ぐに伸びる。
冷たい何かに、下から背筋を撫で上げられたのだ。
あたふたと後ろを確かめる兄を目の当たりにし、海華は完全に固まっている。
そんな二人の耳に、キャアキャアと甲高い女の笑い声が飛び込んできた。
「嫌だねぇ、いい大人がそんなに怖がっちゃってさあ!」
その声につられて同じ方向を向いた二人、太い幹から白い顔が二つ覗いている。
アッ!と声を上げ、海華はその顔の一つを指差した。
「お安さん! お町さんもっ! 何やってるのよ!?」
血の気が失せていた顔が、みるみる紅潮していく。
朱王はポカンと口を開け、笑い転げる女達を眺めていた。
「後ろ姿で海華ちゃんじゃないかと思ってさ、つけて来たんだよ。ちょいと驚かしただけさ」
瓜ざね顔の年増女が眦に浮かぶ涙を指先で弾く。
白粉と真っ赤な紅を塗りたくったもう一人は小脇に抱えた蓙を落としそうになる程ゲラゲラ笑いこけていた。
この二人、近くの色街界隈を縄張りにしている夜鷹である。
夜に海華が御神籤を売る場所と近いため、顔見知りであり時には客になる相手だった。
瓜ざね顔の女、お安が視線を立ち尽くす朱王に移してニヤリと妖艶な笑みを投げる。
大きめの八重歯が口元から覗いた。
「海華ちゃんの兄さんって、この人かい? 噂にゃ聞いたがイイ男だねぇ」
「役者にしてもいい位だわ。ね、せっかく会ったんだからさ、少し遊んで行ってよぉ」
やっと笑いが収まったお町は、切れ長の目を細めながらスルスルと朱王にすり寄り、彼の胸に痩せぎすの身体をしなだれ掛けた。
白粉と汗が入り交じった匂いが鼻に付く。
朱王はお町を軽く押し退け、些か不機嫌そうに片眉を上げた。
「妹がいるんでな。また今度だ」
「海華ちゃんなら先に返せばいいのよぉ」
同意を促すかのように、お町は視線を海華に投げた。
「あたしは先に帰ってもいいけどさ、兄様たらし込む時間があれば、もっと割のいい客なんて幾らでも見つかるわよ? その人死ぬほど女嫌いだから」
からかう気味に海華が返す。
お安は、きょとんと目を見開いた。
「女嫌いだって? はぁん、もしかして、あっちの気があるのかい?」
「そんな物あるかっ!」
とんでもない台詞に、朱王の語気も荒くなった。
お安は驚いたように身体を離す。
笑いをこらえながら、海華が小首を傾げた。
「色事には興味無い人なのよ。ところで小春ちゃんは一緒じゃないの?」
小春とは、お安達といつもつるんでいる夜鷹だ。
二人よりも年は十程若く、まだ二十代前半の娘である。
小春の名前を出した途端、夜鷹たちの表情が一変した。
「それがね、あの子、急にいなくなっちまったんだよ。 最後に見たのが、四日前さ」
「いなくなったって? 男でも作って逃げたのかしら?」
海華の言葉に、お町は勢い良く首を振る。
「あの子はそんな事しないわ。病気のおっ母さんと、まだ小さな妹がいるんだもの。薬代稼ぐのに夜鷹なんかしてるって聞いた事があるわ」
仕事のついでに見掛けたら教えておくれ。
そう言い残し、夜鷹たちは闇へ溶けて行った。
残された兄妹の周りには、白粉の残り香が暫くの間漂っていた。




