第三話
人形を手にしたお新は、朱王の前で初めて輝くような笑顔を見せた。
まるで子供のようにはしゃぎながら人形を飾り棚へ置く彼女の姿を眺める朱王の頭からは、伽南の所から引きずってきたあの暗い疑問は既に消え去っている。
「本当に素晴らしい物を、ありがとうございました。今日はあの娘さんとご一緒ではないのですね」
人形の肩に指を滑らせながら、お新が振り向く。
「ああ、妹ですか。はい、今日は仕事に出ていますので」
「そうですか、あれから何度か訪ねてきてくれましたの。元気な妹さんですわね」
「いや……、いい年をして、跳ねっ返りのじゃじゃ馬で困っていますよ」
ニコニコ顔のお新に対し、朱王は内心ドキリとした。
海華は村だけでは無く、お新の所にまで探りを入れに来ていたのだ。
と、お新は不意に立ち上がると、あの庭に面する障子に手を掛けた。
客間の薄暗さを切り裂くように差し込む眩い夏の陽射し、本格的に鼓膜を震わす蝉の大合唱、陽炎に歪む 極彩色の花々……。
一気になだれ込む光、音、色彩に思わず目を細めた朱王の前に立つお新の姿は逆光により黒い影と映る。
「朱王様のような兄様がいたら、私も違った生き方が出来たでしょうね……」
ポツリと零れた呟きは、蝉時雨に掻き消される。
「えっ――?」
聞き返した朱王に向かい、お新は振り返りざま、酷く物悲しい笑みを投げ掛けたのだった。
とっぷりと日が暮れた道を、海華が走る。
頭上には朧の月が揺らめいていた。
今日は思いがけず、帰りが遅くなった、きっと兄は心配しているだろう
そう頭の片隅で思いながら、彼女は部屋の戸を勢いよく開く。
「ただい……わあっ!?」
「お帰り」
戸口を開いたまま、海華は驚愕の表情を露わに後ろへ飛びすさる。
目の前にいたのは右手に包丁を握り、襷掛けをした不機嫌そうな面持ちの朱王だった。
「何やってたんだ!」
包丁を持ったまま、枯葉じりじりとにじり寄る。
「仕事に決まってんでしょ!? 兄様こそ何してんのよっ!?」
後退りながらも、海華は負けじと叫んだ。
「飯炊きだ! 何時までたっても帰って来ないから、待ちくたびれたぞっ!」
「ご飯焚き!? 嘘でしょ……あぁもうッ! わかった! わかったから、とにかく包丁置いて!」
彼女の叫びに、はっとしたように朱王は包丁を後ろへと隠した。
はぁ、と息をついた海華が部屋へ入ると、竈の上でグラグラ煮立つ鍋が目に飛び込んでくる。
沸騰寸前の鍋、海華が慌てて木蓋をあけると、それは正体不明の茶色い欠片が浮かぶ味噌汁だった。
見た目は味噌汁、しかし中に何が入っているのか。
問い質したいのをぐっと堪えつつ、火の勢いを調節した海華は再び木蓋を鍋に置き、朱王の方を振り返った。
「遅くなってごめんなさいね、すぐ支度するから……。でも、さすがにあの村と街中の往復は疲れるわね」
背負っていた木箱を降ろし、水を一口飲み下す彼女に朱王は軽く眉を顰める。
「お前また村に行っていたのか。
呆れたように朱王が言い、海華は再び水を口にしながら、パタパタと手を振った。
「今日は本当に仕事で行ったのよ。まぁ、ちょっとは情報も集めて来たけどさ」
これが収穫よ。 そう言って、おもむろに木箱を開く。
朱王が覗くと、艶々と光る濃紫の茄子と、綺麗な半月に曲がった胡瓜が詰め込まれていた。
「お金の代わりに貰ったの。毒入りじゃないから、安心してね」
茄子を玩びながら、海華はニヤリと口角を上げた。
飯の支度は俺がする。 朱王がそう宣言したものの、彼に任せて食べられるモノが出てくるなど海華は到底思っていない。
その証拠に、その場から立ち上がり再び味噌汁の鍋を覗き込んだ海華は、そこにプカリと浮かぶ具が何かを確かめた途端、軽い眩暈を覚えた。
汁に浮かんでいたのは、乱雑に切られ色の変わった茄子だった。
「味噌汁ってさ、何でもぶち込みゃいいってモンじゃ無いのよ」
ウンザリとした表情で、海華は汁を掻き回す。
「……そうか、なら、これから魚でも焼いてやるか?」
低い声色でそう言いつつ、こちらを睨む朱王に海華は慌てて頭を振った。
「この上、炭出されるなんて冗談じゃないわ! ――ところで兄様、今日人形納めに行ったんでしょ?」
「行ったぞ。お前がよく来るとお新さんが言っていた。まだあの辺りウロついてたのか?」
「まあね」
お玉を使って味噌汁の味見をしながら朱王は頷く。
見た目は良くないが、味はまぁまぁだ。
「行っても何も出ないだろう? 大体、お新さんは夾竹桃に毒があるなんざ、知らないらしいからな」
「知らないって? そんなはず無いわよ!」
パチパチと瞬きを繰り返し、海華は鍋から顔を上げた。
「知ってるはずよ。だってねぇ……」
海華は今日、ある村人から聞き出した話しをし始める。
杉村が死ぬ一週間程前、村の女が山へ薪を拾いに出掛けた。
彼女はそこで綺麗な白い花を見つけたのだ。
女はその花を幾つか摘み帰ろうとした時、 ちょうど杉村とお新に会ったのだ。
杉村は、その花をみた途端に血相を変え、それは夾竹桃である事、花も猛毒だと女に教えたのだ。
「お新さんも一緒にいたから、夾竹桃の事も毒があるって事も知ってるはずよ」
朱王の顔がみるみる曇る。
あの疑惑がまた頭をもたげた。
「それは本当なんだな?」
「うん、その人があたしに嘘ついたって何にもならないじゃない?」
確かにそうだ。
嘘や出鱈目を言った所で、女には一文の得にならない。
「この事、親分には言ったか?」
怖い顔で腕組みをする兄に、海華は首を傾げた。
「言って無いわよ。何で嗅ぎ回ってるんだって、聞かれたら困るじゃない」
「そえはそうだが、明日朝一で知らせて来い。役に立つかもしれないからな」
わかった。 そう答えて、海華はもう一度鍋の中身を大きく掻き回す。
しかし次の朝、海華が知らせに走る前に、親分は伽南と共に長屋へと飛び込んできた。
今にも泣き出しそうな伽南の口から告げられたのは、魅草庵が今朝がた火事で焼け落ちたという一報だった……。
朱王達が駆け付けた時には、魅草庵は既に焼け 落ちた後だった。
辺りには真っ白な煙と息が詰まる程の焦げ臭い匂いが立ち込め、ほぼ炭化した木材が無惨な姿を晒している。
昼間訪れた庵の変わり果てた有様に、朱王はしばし呆然とした様子だったが、すぐに隣に立つ忠五郎にお新の安否を尋ねた。
「火が出る直前に出掛けたのを村の奴が見てるんだ。どこに行ったかは、まだわからねぇ」
「火が出る前って、じゃあお新さんがやったって事ですか?」
海華の問いに、忠五郎は渋い顔で首を縦に振った。
「たぶんそうだろうと思ってる。草の根分けて探して、必ず見つけてお縄にしてやるぜ!」
そう息巻いたかと思うと、忠五郎はひしめく野次馬を掻き分け、村の方へと駆け出して行った。
「……出来る事なら、見つからないで欲しいです」
悲痛そうに顔を歪めた伽南が、ポツリと零す。
朱王も、海華も、その時同じ事を思っていたのだ。
しかし、お新はすぐに見つかった。
命を失った冷たい死体となって。
既に朽ち果て、廃屋と化した生家の中で、彼女は毒を飲んで悶死していた。
傍らには、一通の遺書と朱王の人形だけが置かれていたという。
遺書には、事の全てが記されていた。
やはり、杉村を殺めたのはお新だった。
理由は父親の復讐だ。
杉村は結婚に反対し続ける父親に痺れを切らし、お新に毒入りの菓子を持たせて父親を始末した。
この事をお新は結婚してから知った。
杉村がつけていた日記を、盗み読みしたのである。
お新の計画は、この時から始まった。
必死に毒物の種類や性質を学び、復讐の機会を狙っていたのだ。
そして、魅草庵の毒草を全て灰にし、自らの命も絶って彼女の復讐は完結した。
最後に書かれていたのは、朱王達に対する詫びの言葉。
人形は、燃やしてしまうのが余りにも忍び無く、一緒に持って出たともあった。
また、自分の墓は、母親と父親の傍に建ててくれるようにとも書いていた。
やっと、家族一緒に居られますね。
忠五郎から遺書を見せられた伽南は、そう呟き涙に咽んでいた――。
天空に流れる暗雲が白い月を隠す。
村から戻った二人は、蕎麦屋おふくの暖簾をくぐった。
いつもなら、六つ程ある飯台はほぼ埋まっている頃なのだが、今日はまだ兄妹しか来ていない。
店の一番奥、窓際の場所に暗く沈んだ雰囲気を漂わせながら、二人は座っていた。
会話は殆ど無く、朱王は酒をちびちびと舐め、海華は出された蕎麦に少し手をつけただけで俯きながらため息ばかりをついていた。
普段ならにこやかに話し掛けてくるお福も、 二人から漂う空気に何かを感じ取ったのか、今は静かに奥へと引っ込んでいた。
「五月蝿く嗅ぎ回るんじゃなかったわ」
飯台の木目を指でなぞり、海華がポツリと零す。
眉間には深い皺が刻まれていた。
朱王も同じような厳しい表情を崩さずに、黙りこくったまま猪口を口へと運ぶ。
あの遺書を読んだ時から、二人には自責の念が重くのしかかっていたのだ。
「……お新さんが飲んだ毒だが、トリカブトだったと。煙管の吸い口にも同じ物が塗られていたらしい。先生が言っていたよ」
「やっぱり最初から死ぬ気だったのかしら? ――馬鹿よ、まだ若いのに。やり直す時間なんて幾らでも……」
最後は言葉にならなかった。
パタリと飯台に突っ伏し鼻を啜る。
朱王は頬杖をつき、ボンヤリと格子窓越しに闇が支配する外を眺めた。
「お新さん、あの庵でずっと父親の復讐だけを考えて生きてたんだろうな。毒の勉強して、殺す時期を窺って……」
「惨すぎるわよ。そんなの」
「だから、だからな。ひどく都合のいい考えかもしれんが、やっと開放されたんじゃないか? 杉村からも、毒草からも」
その言葉に海華はゆるゆると面を上げ、赤くなった目で兄を見上げる。
事が発覚すれば、獄に繋がれ最悪は死罪。
上手く隠し通しても、いつ真実が明るみに出るかと怯えながら暮らす。
死ぬのと生きるのと、どちらが幸せなのだろう。
二人には、いや、お新以外には明確な答えは出せないのだ。
パタパタ……ザ―――ッ……。
乾いた地面を雨粒が叩く。
二人が表に視線を移すと、激しく降りしきる夏の雨が、闇に薄絹の膜を掛けている。
それを破るかのように、人々は右往左往しながら雨宿りの場所を求めて飛沫を上げ、走り去っていく。
店にも、雨を凌ごうとする者達が数人、駆け込んで来た。
「きっと、お新さんの泪雨だろうな」
外に目を向けたまま朱王が呟く。
そうね、と短く返した海華は、くしゃりと顔を歪めて再び飯台へ突っ伏した。
その肩は、小刻みに震えている。
「――お福さん、酒をもう一本頼む。それと……雨が上がるまで、居てもいいかな?」
客の相手をしていたお福に朱王が声を掛けた。
ふわりと笑みを零し、お福は頷く。
「いいよ。好きなだけ居ておくれ」
ありがとう。 そう一言反して微かに微笑んだ朱王。
雨音は二人を包み込むように一際大きく響き、薄い鼓膜を揺らせていった。
終




