第七話
漆塗りの夜空に細かな星屑が煌めく。海華が白狐、羽田十太と夜道で対峙したのは、昨日の夜、ちょうど今時間だった。後少しで亥の刻、それは昨日十太と接触した時刻でもあり、そして今夜、稲荷の社前に来いと指定された時刻でもある。
辻行燈だけがともる夜道には人っ子一人、猫の子一匹いやしない。ただ、足早に稲荷へと向かう朱王と海華の二人だけ。眠たげに灯る行燈の光が二つの影を道に長く長く刻み込む。奉行所の同心たち、そして柳町番屋の忠五郎と留吉達と稲荷の近く、ちょうど雑木林が茂り良い目隠しとなる場所で落ち合う手筈となっていた。つまり、そこに至るまでは海華の護衛は朱王の役目である。
「遅くなっちゃったわ、まだ間に合うかしら?」
背中に背負った木箱をカタカタ揺らし、先を行く海華が振り向きざまに言う。約束の刻まで、あと幾ばくもない。準備に時間を掛け過ぎてしまった。きっと忠五郎らは朱王らのの到着を待ち侘びている事だろう。焦る気持ちを押し殺す朱王は、海華へ顔を向けるなり『そうだな』と小さく頷く。
「少し急ごう。もし遅れたら……、ッッ! 危ないッッ!」
闇夜を咲く緊迫した叫び。彼の手が、海華の肩を鷲掴み力いっぱい自らの方へ引き寄せたと同時、彼女の背後から伸びた白銀が一筋忠を切り裂く。ビュッ! という乾いた響きを残し、道の傍らに立っていた柳の大木から、細長く繊細な葉が音も立てずに散り落ちた。
何が起こったのかわからないといった表情を作る海華、全ては一瞬、瞬きをする間もないほどの間で起きた出来事に、彼女は大きく目を見開いたまま朱王に抱き留められる。その耳元で、刀が鞘から抜かれる涼やかで、繊細な音が聞こえた。
「しくじったか……」
柳の大陰から、小さな舌打ちと共に聞こえる冷たい声色。『誰だ』と聞くまでもない、その声は夕べ、海華が夜道で対峙した男のものだ。ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべ、右の肩に抜き身を置いたまま姿を現した男、その姿を振り返りざま確かめるなり、海華は驚愕の表情を浮かべて朱王の胸を両手で押し返した。
「あんた……どうしてここに!?」
「遅いと思ったのでな、迎えにきてやったのよ」
嫌な笑みを見せつつゆっくりとこちらへ向かってきた男、十太の言葉に、朱王はフンと一つ鼻を鳴らして海華を自分の背後へ下がらせる。彼の右手には、冷たい輝きを放つ脇差がしっかりと握られていた。
「無駄な足掻きを……。まぁよい、どのみち、社の周囲は町方連中が囲んでいるのだろう? 手っ取り早く、ここで二人纏めて始末してくれるわ!」
肩に預けていた大刀、その切っ先を二人に向け、クッと態勢を低くする。薄い唇に笑みを湛えながらも、その鋭い眼光には二人に対するはっきりとした殺意が含まれていた。
「女……いや、貴様ら二人は運が悪かった。女、俺の顔を見たのが運の尽きだったな。人の楽しみを邪魔しおって。二人仲良く三途の川を渡るがいいっ!」
細い目をこれ以上ないほどに大きくかっ開き、怒声一発 十太が乾いた大地を蹴り飛ばす。辻行燈の光を反射し煌めく白刃を振り翳し襲い掛かる十太。彼の振るう凶器は闇を裂いて一直線に朱王の首へと振り下ろされる。間一髪、右後方へと軽やかに飛んだ朱王の背後に立っていた海華の手から、深紅の蛇が解き放たれた。
宙を斜めに裂く刃に襲い掛かる赤い稲妻。ガキィッ! と金属同士が派手にぶつかり合う鋭い響きと同時、夜に咲いた白い火花は脇差を構えてン劇の態勢をとる朱王の網膜に焼き付いた。
「ぐぅ、っ! おのれ……貴様っ!」
手から取り落しそうになった大刀を慌てて握り直し、十太は先ほどまで凶悪な笑みを浮かべていた顔を憎々しげに歪めて海華を睨む。紅い組み紐を手繰り寄せ、先端に付いた銀の槍先を得意げにクルリと回した彼女の唇が三日月の形を作り出した。
「悪いけど、大人しく殺られる気なんて更々ないのよ」
「『覚悟しろ』は、こっちの台詞だ。ここからただで帰れるとは思うな」
脇差を十太に突き付け、そう宣言した朱王の顔を漆黒の影が半分覆う。ほんの一瞬、十太が怯むのを彼は見逃さなかった。黒髪が舞い、足は大地を踏み付ける。鉄砲玉の如く真っ直ぐ十太に向かい飛び出した朱王、彼を迎え撃つべく中段の構えを取った十太の目は血走り、その口角には白い泡が浮かぶ。
『でやぁぁぁぁっっ!!』と、色気の悪い唇から迸る彷徨。朱王の頭上で振り上げられる大刀を脇差一本で迎え撃つ朱王は、表情一つ変えることはない。人に言わせれば『整い過ぎた』顔に艶やかな黒髪を一筋絡め、射抜く眼差しを十太へ向ける朱王は、渾身の力を込めて太刀を跳ね除け、電光石火の速さで脇差の切っ先を首筋に突き付ける。しかし、十太は咄嗟に身を仰け反らせてその一撃を交わしたが、顎先を先端が掠め、赤い血潮が一筋滴り着物の襟を汚した。
『貴様!!』そう十太が叫んだ瞬間だった。彼方から飛んだ海華の組み紐が彼の太刀に絡み、その動きを封じる。強い力で達が引かれたその時には、既に十太の首には朱王が逆手に持ち替えた脇差が深々と食い込み、頸動脈を断ち切っていたのだ。
その場に金縛りとなったように、一度大きく痙攣した十太は刀を取り落し、己の首に刻まれた傷口に手を当てる。手のひらに触っただろう冷たい鋼の感触にを感じたのか、その指先は小刻みに震えていた。
十太の首に凶器を突き立てていた朱王は、顔色一つ変えぬままに脇差を握る手を思い切り横へと引き抜く。
横一文字に切り付けられた傷口から迸る鮮血の飛沫。弧を描いて飛び散るそれを止めようとするように、己が首に手を掛けた十太は金魚よろしく口を数度パクつかせ、二、三歩よろめくなり前のめりに地へと倒れ込む。息が詰まりそうなほど濃厚な血潮の生臭さ。彼の身体は血溜まりに倒れ伏し、数度痙攣を繰り返した後、完全に動きを止めた。
「兄様、大丈夫?」
組み紐を束ね、木箱に突っ込んだ海華が小走りに海華へと駆け寄る。彼女の問いに小さく頷いて答えた朱王は、ふぅと一度息を吐いて脇差を軽く振り、血脂を飛ばした後懐に忍ばせていた鞘へ納めた。
「死んだの?」
「あぁ」
「そう。何だか呆気ないわね。これが巷を騒がせていた白狐の最期か……。あら、兄様ここ、血がついてる」
そう言いながら己の右頬当たりを指さして見せる海華。彼女につられるように右の頬を軽く擦れば、僅かに飛び散った血が茶色に近い掠れとなって指先にこびりつく。と、朱王は穢れた物を見る眼差しで十太の屍を見下ろしながら、やおら屍に近付いていく。
「ちょっと兄様、何をしているの?
「最後の仕上げだ、少し待ってろ。それにしても……獣にお似合いの死に方だな。
あぁ、あったぞ。これだ」
屍の傍らに屈み込み、何かを探す朱王は屍の陰から何かを引っ張り出す。それは、真っ白な狐の面であり、彼は面を目を見開いたまま事切れている十太の顔にかぶせた。
「これでよし。さて、かなり遅くなったが社へ行こうか。忠五郎親分が待っている。コレは……誰かが見付けて届け出すだろうさ」
いつまでも自分たちが姿を現さないのでは逆に忠五郎は疑いの目を自分たちに向けるだろう。脇差を海華の木箱に放り込み、二人はその場から駆け出すとあっという間に闇の深淵へと消えていった。
惨劇の一夜が明け、江戸の町は『白狐』の噂で持ち切りとなった。
昨夜遅く、通りで首を掻き切られ息絶えていた某侍のが、白い狐の面を付けていたらしい。朝一番で刷り上がった瓦版は飛ぶような売れ行きをみせ、その中で、白狐を追っていた御上もその侍を下手人だと認めたようだ。
道の向こうから聞こえる瓦版売りの威勢の良い声に吸い寄せられるよう集まる通行人たち。そこから道一本離れた茶店の奥で、人の目を逃れるよう一番奥の席に座る三人の男女、北町奉行である上条 修一郎と朱王、海華の姿があった。
「昨夜は大変だったそうだな。忠五郎から大体の事は聞いておるぞ」
背中の曲がった老女がよたつきつつ運んできた茶を一口啜り、上座に座った修一郎が二人に向かってほほ笑む。『はい』と一つ頷いて、湯呑を手に包む朱王の横では、茶菓の饅頭をさっそく半分に割る海華がいた。
「見事に待ちぼうけを食らわされました。まさか、あんな場所で斬り殺されているなど露ほどもおもっていなかったので……」
眉を僅かに寄せ、平然と言ってのける朱王。その横で饅頭を頬張る海華は笑いを饅頭と一緒に飲み込みつつ、チラリと朱王を横目で見遣る。あの夜、白狐を三途の川の向こう側へ送った後、何食わぬ顔をして社に向かった二人は、そのまま忠五郎らと合流して白狐が訪れるのを待った。そのうち、侍が斬り殺されているという一報が皆の元へ入り、現場は大騒ぎ。与力も町方も揃って現場へ出張ってしまい、それゆえ二人は早めに長屋へ帰されたのだ。
「しかし、あの狐の首を掻き切るとは、かなりの手練れだと専らの噂だ。どんな面をしているのか拝んでみたいものだ」
茶を飲みつつそうこぼした修一郎の顔を正面から見られずに、海華は顔を赤くして必死に笑いたいのをこらえる。『狐の首を掻き切った手練れ』は、今目の前にいる男です、とでも言ったなら、彼は一体どんな反応を示すだろう。いや、もしかしたら修一郎はわかっているのだろうか?この二人があの忌々しい侍を冥府送りにしたということに。わかっていて、わざとこんな質問をしているのかもしれない。喋ってしまいたいのをこらえているのか、硬く唇を結んだままの海華がチラと朱王へ視線を投げるが、彼はいつもと同じ様子で茶を飲んでいる。
「生け捕りに出来なかったのは残念でしたが、これで命の危険なく夜歩きができるでしょう」
「うむ、朱王の言う通りだ。結果は……今更嘆いても変わらぬ。素直に受け止めるまでよ。それより、今回はお前たちに手間を掛けさせてしまったな」
「とんでもない。こちらこそ、ご迷惑をお掛け致しました。これで、海華を安心して表に出す事がっできます」
『ありがとうございました』そう言って深く頭を下げた二人を前に修一郎は満足げに頷きながら、三人分の茶代を飯台へと置いた。
「俺は、お前たちが無事であればよいのだ。……と、悪いがここで。残務が色々と溜まっておってな」
そう言い残してその場を後にする修一郎を店の外まで見送り、二人はほぼ同時に小さく息を吐く。
「やっと終わったわねぇ。さてと……兄様、あたしはこのまま仕事に行きたいんだけど、いいわよね?」
「あぁ、いいだろう。夜はどうするんだ?」
「そりゃ、もちろん行くわよ。今まで出られなかったんだからさ、今日からしっかり働かなくっちゃ!」
ニッコリ笑って白い歯を覗かせた海華は、『じゃあね!』と一言、ヒラヒラ片手を振りつつ駆け出していく。あっという間に人混みに紛れ消えていく彼女の背中に優しい眼差しを向けていた朱王も、やがて自分の住まいである中西長屋に戻るべく踵を返す。
陽炎立つ初夏の道を、熱を孕ませた風が吹き抜けていった。
終