第一話
「一気に暑くなりましたなぁ。」
獅子頭のような面を崩し、目の前に座る男が扇子を振るった。
穏やかな春が過ぎ去り、江戸は初夏の季節を迎えている。
長屋口に立つ傾きかけた木門の下には、いつの間に生えたのか、朝顔が抜けるような蒼い空目掛けて日々細い蔓を延ばしていた。
「わざわざお越し頂いて申し訳ありません」
男に向かって礼を述べ、朱王は部屋に澱んだ空気を流すために戸口を開け放つ。
幼い女児がヒラヒラ舞い飛ぶ蝶を追い掛け、歓声を上げながら走り去っていった。
長屋を訪ねて来たこの男、名を杉村光源と言う。
元は米を商う大店の主人だったが、六十を過ぎた頃に店を親類夫婦に譲り渡し、きっぱり商売からは身を引いた。
そして町外れに魅草庵という庵を建て、さっさと隠居してしまったのだ。
杉村は、すっかり毛の抜けた頭をツルリと撫でた。
「なに、散歩のついでに寄らせて貰いました」
ガハガハ笑いながら、扇子を振る。
色艶のよい頬から汗が滴り落ちていた。
朱王からすれば、まだ堪えられぬ暑さでは無い。
しかし、杉村はたっぷりと贅肉を纏っている為か、人より暑さが身に染みるのだろう。
息をつくだけでも、タプタプと腹の肉が揺れている。
達磨の体に獅子頭がちょこんと乗ったような風体をした男だった。
「ああ、朱王さん。催促ではないんだが、あの人形はどこまでいったかね?」
「はい、頭と胴体部分は概ね完成しました。後は錺り物と着物を待つだけです」
朱王の言葉に満足気に鼻の穴を膨らます杉村。
「そうですか、いや、あれは客間に置こうと考えていた物ですからね。錺りも着物も、上等なやつを頼みますよ。なに、金は幾ら掛かっても構いません。ところで……」
口ごもりながら、杉村は懐から煙管入れを引っ張り出す。
「一服させて貰ってもいいかね?」
はい、と応じた朱王は、早速煙草盆に種火を入れ、彼に差し出した。
煙草を詰めて火を付け、旨そうに胸一杯吸い込んだ杉村が、僅かに咳込む。
「うむ、うまい。これだけは止められませんな」
そう笑いながら杉村は煙管を口へと運んだ。
部屋の中に煙草の煙りと香りが充満する。
異変が起きたのは、彼が三口目の煙りを吐き出そうとした時だった。
いきなりカッと目を見開いた杉村の厚い唇が大きく痙攣し、ゲボリとどす黒い血と涎の入り混じった物がが吐き出される。
「グゲェッ! ゲボッッ!!」
「杉村、様っ!?」
突然の事に、朱王は身動き出来なかった。
杉村の顔は、みるみる土気色に変わり、巨体ははガクガク痙攣を起こす。
そして、血まみれの手に煙管を握り締めたまま、彼はドタンと重い響きを立てて畳へ倒れ伏したのだ。
一部始終を、唖然とした表情で見ていた朱王、その時、開け放していた戸口からパタパタと軽い足音が響いた。
「兄様ただいま! お昼……」
部屋に飛び込んできたのは、朱王の妹である海華だった。
一仕事を終えて帰ってきたのだ。
その目に映ったのは、血まみれで倒れている巨体の男と、その側に佇む兄の姿。
彼女の笑顔が一瞬で凍り付いた。
朱王がソロソロと腕を延ばして杉村の肉が弛んだ首をまさぐる。
「兄様……ッ、お医者……!」
唇を戦慄かせながら海華が言った。
しかし、朱王は小さく首を横に振る。
「忠五郎親分を呼んで来い。……もう駄目だ、死んでいるよ」
その一言で、海華は弾かれたように走り出す。
背中の木箱から、がたがたと激しい振動が伝わる。
一心不乱に走り続け、泣きそうな表情で海華は忠五郎のいる番屋へと駆け込んだのだった。
長屋の周りには黒山の人だかり。
その野次馬達を掻き分けるように杉村の遺骸は戸板に乗り、筵を被せて運ばれて行く。
戸板の後ろを固い表情で歩くのは朱王と忠五郎。
海華は番屋に残り、二人を待っているのだ。
往来を行く二人と遺骸に遠慮無く好奇と恐れが混ざった視線が突き刺さっていた。
「兄様!!」
番屋の近くまで来た時、向こうからから海華が 駆け出して来た。
「遅かったから、気になって……。大丈夫?」
「ああ。――とりあえず話しは中でだ」
ぎこちない笑みを見せ、朱王は遺骸を一瞥する。
重そうにしなる戸板を先頭に、三人は足早に番屋の中へと姿を消した。
「ありゃあ毒だな。間違いねぇ」
ドンヨリと篭る生暖かい空気。
忠五郎は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた
巨大な骸は、番屋の裏へ据え置かれ、引き取り手を待っている。
人は全て出払っているらしく、今は曇った表情を浮かべた三人がいるだけだった。
「毒、だとしたらあの煙管か煙草に仕込まれていたと?」
朱王が髪をかき上げる。
杉村が死ぬ直前に口にした物は自分が出した茶と、あの煙草だけだ。
「キセルか煙草かどっちかはわからねぇ。多分、伽南先生辺りに聞きゃあわかると思うがな」
忠五郎は落ち着き無く、貧乏揺すりを繰り返す。
普段ならここでキセルが出てくるのだが、今はとても吸う気にはならないようだ。
「杉村様の身内は? もう知らせたのですか?」
「ああ、留の奴を使いにやった。もうすぐ来るとは思うが……」
そう言って、忠五郎が席を外す。
それを待っていたかねように、海華は兄の腕をつついた。
「ねぇ、ウチで死んだ人って誰なのよ?」
「俺の客だ。この間言ったろう、二十両の仕事が来たって」
あの人なの、と海華が呟いた。
と、戸口の障子越しに人の影が映り込み、ガラリと音を立てて戸が開かれた。
「親分、呼んできやした」
丸い顔を紅潮させ、息を切らせた留吉の後ろには、まだ若い女がおどおどしながら立っている。
海華と同じくらい、多分二十代前半だろう。
白地にきらびやかな金糸銀糸の小花柄の刺繍を施した高価そうな着物を纏い、髪も乱れ無く結われている。
姿は良家の娘だが、なぜだか雰囲気は田舎臭い。
太めの眉に厚い唇、黒目がちの瞳が部屋を見渡した。
白粉を塗っていても、肌の浅黒さは隠し切れていない。
鍬でも持って、畑にいた方がよっぽど似合う女だった。
「いきなり呼び付けて悪かったな。アンタ、あの爺さんの孫か?」
忠五郎が女を見下ろした。
俯いた女は、消え入りそうな声を発する。
「いえ、あの、杉村の家内です」
「……はっ?」
思わずポカンと口を開け、忠五郎が聞き返す。 再度女が、家内です。と答え直し、それは朱王と海華の所まではっきりと聞こえた。
「「あぁ―――っ!?」」
忠五郎と海華が発した驚愕の叫びは、番屋の外にまで、大音量で響き渡った。
「家内って、家内って奥さんの事っ!?」
「馬鹿、当たり前だ。」
素っ頓狂な叫びを上げる海華を、ぴしゃりと朱王が征した。
表情一つ変えていない朱王だが、内心ではかなり動揺している。
杉村は確か六十を過ぎているのだ。
そんな老人に海華と同じ位の嫁がいるなど、信じろと言う方が無理である。
忠五郎はぎくしゃくとした様子で女を中へ招き入れた。
戸惑いがちに朱王達へ軽い会釈をし、女が忠五郎について裏へ向かう。
死臭に引き寄せられたのか、小指の先程ある銀蝿が低い羽音を唸らせて飛び去った。
「ねぇ留吉さん、あの人が奥さんって本当なの?」
たたきに座り汗を拭う留吉に、海華が耳打ちした。
「そうらしいぜ。まぁ、後添いらしいが、俺も聞いた時にはたまげたな」
「後添いってねぇ、あんな爺さんがよくやったわよ」
「海華!」
片眉を上げた兄にジロリと睨まれ、思わずぺろりと舌を出す。
「……いやに静かだな」
裏へと目を向け、朱王は腰を上げる。
足音を忍ばせ、奥へ消えた二人を伺った。
筵を剥がされ、床に曝された遺体。
その傍らに女は立ち尽くしていた。
泣きも喚きもしない、能面のように感情の伺えない女は、ただただ道端に転がる石でも見るような面持ちで変わり果てた亭主を見下ろしていた。
「お前ェさんの旦那に間違い無ぇな?」
コクリと女の顔が動く。
その背中を見詰める朱王には、いやに冷たい暗い影が女へと覆いかぶさる錯覚を覚えた。
死臭を纏った羽音が、頬を掠めて消えて行く。
澱んだ空気がユラリと揺れた。
夕方、番屋から戻った二人は、すぐに部屋の掃 に取り掛かった。
「畳はもう駄目ね。」
雑巾を放り出し、海華がその場へとへたり込む。
杉村が吐いた血はどす黒く固まりは傷んだ畳の目へこびりつき、拭けど擦れど取れはしない。
「こんな擦り切れ畳だ。変えるいい機会だろ」
一足先に掃除を放棄していた朱王は、作業机やら鏡台を部屋の隅へと押しやっている。
「何がいい機会よ。家ん中で人に死なれて、よくそんな事が言えるわねぇ。――大体、兄様何やってんの?」
片隅に積み上げられた鏡台を見て、海華が眉を寄せた。
「何って、寝る場所を作っていた。お前、その上で寝る度胸があるのか?」
「ある訳無いじゃない!……それよりさぁ、先立つ物はどうするのよ? 人形のお金も、まだ貰ってないんでしょ?」
膝立ちで兄ににじり寄り、海華はため息をつく。
「前金で五両は貰ってる。が、材料代で飛んで行ったよ」
つまり、畳を変える金なんか無いのだ。
しかし人形は殆ど出来上がっている。
このままでは商売にならないし、仕立て屋のお駒や、錺物屋の幸吉までが困る事になるのだ。
「掛かった分は、きっちり頂くよ。金の事は任せておけ」
頼むわよ、と念を押しながら、海華は水気で湿る血のシミへ乾いた手拭いを被せる。
「気持ち悪くて見てらんないわ。おまけに臭いし」
あからさまに嫌な表情を浮かべ、彼女はクタリと兄に寄り掛かる。
確かに、シミからは二人が今まで嗅いできた血とは違う悪臭が微かに漂うのだ。
吐き出した胃液、道端で腐った鼠の死骸、日当たりの悪い長屋裏のドブ川……。
あらゆる悪臭が混雑した、胸の悪くなる臭い。
「こんなの嗅いだこと無いわ。やっぱり毒のせいかしら?」
「うん。なぁ、明日先生の所へ行ってみようと思うんだ」
そう言いながら、壁際へ手を伸ばし、酒壷と茶碗を手繰り寄せる。
「珍しいわね、あたしに行く所教えるなんてさ。一緒に来いって?」
「嫌ならいいんだぞ?」
酒を満たした茶碗を唇へ当て、朱王は口角を上げた。 兄の肩辺りに頭を凭れていた海華は、上目使いに視線を移し、ニヤリと笑う。
「嫌なんて言うと思ってた?」
「いいや、全然」
押し殺した笑いが上がる。
次の朝、何時もの辻に、木箱を背負った海華の姿が無かったのは言うまでもない。
次の日、二人は朝一番で伽南の住む庵に向かった。
凶器の可能性がある、あの煙管と煙草は忠五郎の手により、すでに伽南へ届けられている。
御免下さい、と呼びかけるとすぐに、どうぞと返事が返る。
障子戸を開けると、何時ものように山積みの書物に囲まれた机の前に座る伽南がいた。
「おや、二人共。昨日は大事でしたねぇ」
ズレた眼鏡を直しながら、伽南が言った。
二人困り顔で、はい、と微笑み、入るよう促され座敷へ座ると、伽南がいる机の上に刻んだ煙草の葉らしき物が和紙に広げられてるのを目にする。
その横には、乾いた血糊がこびりついた煙管が一本。
朱王の目は、それに釘付けになった。
杉村さんの物ですよ。親分さんから預かりました。」
「やっぱり、これに毒が?」
「まだ詳しく調べていないのですが、きっとこれにも毒は仕込まれているでしょうね。一つだ けわかったのは、煙草の事です」
一呼吸置き、煙草の乗った和紙を引き寄せる。
「夾竹桃の葉が大量に混ざっていました」
「きょう、ちくとう?なんですか、それ?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、海華が首を傾げた。
朱王も初めて聞いた代物である。
伽南は、近くにある高く積まれた書物の中から、ある一冊を引き出した。
「夾竹桃、簡単に言えば毒を持つ木ですよ。茎から葉に至るまで全ての部分に毒がある。木を燃やした煙りも猛毒です。それが、煙草の葉と一緒に混ぜてあったのです」
「それは……どこにでもある木なのですか?」
朱王が尋ねた。
「街中では殆ど無いでしょうねぇ。ましてや、 これに毒があると知る人も少ない。ただ、殺害されたのが魅草庵の主だとすると……」
「みそうあんって、杉村さんが住んでた所ですよね? そこ、何かあるんですか?」
率直な海華の問い掛けに、伽南は困ったように頭を掻いた。
「それが、私のような薬種に関わる人間の間では有名な、特異な場所でしてね。その魅草庵も……。まぁ、一度行ってみればわかります。」
伽南にしては妙に歯切れの悪い答え方だった。
これ以上突っ込んで聞いた所で、伽南を困らせるだけだろう。
「先生、ありがとうございました。早くから申し訳ありません。海華、失礼しよう」
しっかりと頭を下げ、朱王が立ち上がる。
海華もそれに続いた。
「いいえ、そうだ朱王。魅草庵に行くのなら、 お新さんにくれぐれもよろしく伝えて下さい。 ああ、杉村さんの奥様ですよ」
奥様と言われ、二人の頭に、あの田舎娘の浅黒い顔が浮かんだ。
「承知致しました。それでは……」
パタリと戸口を閉めた朱王、それと同時に、海華と視線がぶつかる。
「行くんでしょ?」
見透かしたように、円らな黒い瞳が揺れる。
「ああ」
答えはそれだけ、ついて来るかとも聞いてこない。
なぜなら、好奇心に手足の生えたような妹が、行かないと答える事は有り得無いからだ。
片日影の小道を風が吹き抜ける。 二人の足は、真っ直ぐ魅草庵へと向かっていた。




