第四話
街中から外れた小道の脇に、その茶屋はあった。 既に一通りの途絶えた子の刻。
行灯が一つ灯る表口から、ほろ酔いの女と付き人らしき少女が姿を現す。
その二人を、薮の中から四つの瞳が捕らえた。
何も知らない女と少女は、突き当たりを左に曲がる所だ。
その時、後ろを歩く少女の首に、音も無くスルリと赤い紐が絡み付いた。
抵抗も、声すら出す暇も与えずに紐は細い喉首に食い込む。
ヒュウ……、と大きく開かれた口から空気が漏れ、少女の膝がカクリと砕けた。
それに全く気付かず、女は鼻歌混じりに角を曲がっていく。
「――待て」
暗闇から沸き上がるような低い声が、女の背中に投げられた。
怪訝そうに眉を寄せ、女が振り返る。
そこには、帯状に差し込む月光に照らされ、一匹の鬼が立っていた。
「誰っ!? 誰だいっ!」
声を震わせた女がよろめく。
酔いは一気に吹き飛んだようだ。
「お前、大黒屋の女将で間違いないな?」
鬼が一歩前へ出る。
女はガクガクと頷いた。
「お紺というを殺し、その赤ん坊を狙ったのも、間違いは無いか?」
お紺、という名前を聞いた途端、女のこめかみに青筋が浮かぶ。
「あの泥棒猫……! 畜生っ! 誰に頼まれ たっ!?」
「殺したのかと聞いている」
女の問いには答えず、鬼がジリジリと近寄る。
恐怖に足が竦み、女は一歩たりとも動けない。
「そうだよ、あたしが頼んだ……。あの小娘、ウチの人を寝取りやがった! 揚げ句の果てには子供が出来たと……!」
眦を吊り上げ、赤い唇がわななく。
「ウチの人まで、子供を引き取りたいなんて! 誰のお陰で店の主になれたんだっ! ふざけるんじゃないよっ!」
足を踏み鳴らし、聞くに耐えない雑言を吐き散 らす女。
はっと気付くと、鬼はすぐ目の前まで迫っている。
「お紺の仇だ」
感情を現さない鬼の顔、その手元で何かが煌めく。
フワリと音もなく漆黒の体が覆い被さり、ブツリ、と女の腹に灼熱の衝撃が走った。
女は裂けんばかりに両目を見開き、その膝がワナワナ震える。
「ぎゃっ…… !ぐぇぇっ……!」
長めに整えられた爪が鬼の肩にぎりぎりと食い込んだ。
鬼に凭れ掛かった身体は強く叩き押される。
ズルリと腹から抜けたのは血の滴る脇差しだ。
女は仰向けのまま、ドシャリと道へ倒れた。
傷口からドクドクと溢れ出るどす黒い血潮が、みるみる萌黄色の着物へ吸い込まれ汚れたシミを作り出していく。
「兄様、やった?」
軽い足音と共に、鬼の面を携えた海華が背後から駆け寄ってきた。
鬼は脇差しの血潮を丁寧に拭い去り、懐へ納める。
鬼の面が取り外され、朱王が無表情のまま足元に転がる女の骸に酷く冷たい眼差しを向けた。
見開かれたままの虚ろな瞳に、ポカリと月が映しだされている。
朱王は踵を返し海華と向かい合った。
「さっきの娘はどうした?」
「茶屋の前に置いてきた。気絶してるだけだから大丈夫よ。それより早く帰りましょ。もうひと仕事するんでしょ?」
「ああ、次が本番だ」
そう言って頷いた朱王が、固く拳を握り締めた……。
草木も眠る丑三つ時、しかし、大黒屋の主人は布団の中で悶々としながら何度も寝返りをうっていた。
女房は今だ帰らない。
またどこかで男と遊んでいるのだろう。
女房の男癖の悪さは今に始まった事ではない。
しかし、番頭としてこの店に入り女房の親である先代の主人に見込まれて、半ば無理矢理結婚させられた自分には、強く窘める事も出来ないのだ。
主人は、今宵何度目かのため息を漏らす。
その時だった。
――カタリ……。
足元で、微かに何かが動いた。
女房かと思い起き上がってみると、障子越しに朧げに光る人影が目に飛び込む。
「誰かいるのか!?」
戦きながら震える声を張り上げる。
すると、音も無く障子が開かれ、真っ暗闇に蛍のような光りが広がった。
光りの中心に立つのは、純白の着流しを纏い、 髪を高く結い上げた長身の人物。
思わす息をのむほどに美しい顔立ち、目元と唇には赤く朱が引かれ、顔は着物に負けないほどに白い。
男か女かの区別もつかない中性的な顔立ちをしたその人物は、主人を見詰めたまま微かに唇を開いた。
「我、入谷鬼子母神の眷属である」
軽く開いた唇も動かさないまま、透き通るような声色が部屋に響く。
主人はただ、ガタガタ体を戦慄かせて布団へ とへたり込んだ。
「汝、お紺と言う娘と通じ、赤子をもうけた事に相違無いか?」
「お紺……!? はい、はい間違いありません!」
痩せた顔をグシャリと歪めて主人は頷いた。
「そのお紺、先日汝が妻に命じられた者達により、我が主の前で惨殺された。主、残された赤子を哀れみ、今まで庇護せしものなり」
光る人影は、手にしていた布の包みを差し出す。
そこからは、安らかな顔で眠る赤ん坊が覗いていた。
主人は、泣きじゃくりながら布団へ額を擦りつける。
「汝が妻、お紺を殺めし罪により、我配下の者らが成敗致した」
「成敗……!? そんな……」
涙で汚れた顔を弾き上げた主人、その目の下には消える事のないクマが暗い影を落としていた。
人影はさらに続ける。
「汝、生涯妻とお紺の御霊を弔い、汝が子、竹一を引き取り、慈しみ育てるようここに申し付ける。 異存は無いか?」
「はい、赤ん坊は責任持って私が! どうか……どうか子供を! 竹一をお返しください!!」
人影に掴みかかりそうな勢いで、主人は布団を飛び出した。
人影は同じく光りを放つ手で、主人をその場に押し留める。
「明朝 卯の刻、入谷鬼子母神の前まで来い。竹一には我が主の加護を賜ったゆえ、これから先、子を責め苛んだ場合には、汝、汝の親類縁者もろとも、命は無いとそう思え!」
そう一喝し、切れ長の瞳が主人を睨み据えた。
声を上げて泣きながら、主人は再度布団に顔を伏せる。
どの位そうしていただろうか? 次に顔を上げた時、既に部屋は闇に包まれ、あの人影は跡形も無く消えていた。
分厚いお包みの中で、竹一はスヤスヤと眠っていた。
夜明け前、鬼子母神像の前に立つ二人。
竹一を抱く海華は冴えない表情で腕中の赤ん坊を見詰めている。
「本当にあの旦那に渡して大丈夫なの?」
「あれだけ脅かしたんだ。下手な真似はしないだろう」
そう言った朱王は、海華に竹一を置くよう促す。
渋々竹一を置いた海華は、その滑らかな頬をそっと撫でた。
「竹坊……、元気でね」
後ろ髪を引かれるような思いで、二人は近くの薮へと身を隠す。
大黒屋の主人が姿を現したのは、それからすぐの事だった。
血の気が抜けた真っ白な顔。
髪を振り乱し、寝巻姿のままでふらつきながら鬼子母神の像へと駆け寄る主人は、竹一の姿を目にすると小さな叫び声を上げ、飛び付くように抱き寄せて痩せた頬を擦り付ける。
そのまま地面にへばり付くと、像の前で子供のように号泣した。
そして、ぐしゃぐしゃ歪めた顔で、何度も何度も鬼子母神へと礼を言い、頭を下げると竹一をしっかり胸に抱き、覚束ない足取でその場を去っていく。
「……終わったな」
「うん」
主人の背中を見送る海華が、乱暴に目尻を擦った。
朱王も腕組みをしたまま、主人が見えなくなるまで黙ってその方向を眺めていたのだった。
大黒屋の女将殺しは、結局お倉入りとなった。
女将を恨んでいた人間は山ほどいたうえに、唯一下手人と接触した少女は誰の姿も目撃してはいなかったのだ。
そして主人が突然連れて来た赤ん坊、竹一は遠縁から引き取った子供、と店の者に紹介され、跡取りとして大切に育てられている。
気性の荒い女将がいなくなった事に、店の者は隠れて安堵していた。
お紺の長屋にいたゴロツキ二人組みも、朱王が後に見に行った所、軽く緩めておいた縄を外して逃げ出していた。
大黒屋には二度と近寄るなと散々脅かし、また、金を払う女将も鬼籍の人となったのだ、もはや竹一に危害が及ぶ事もないだろう。
さて、例の鬼子母神の眷属、勿論朱王が化けたものである。
白い着流しに燐を塗り、光らせていたのだ。
最初は海華が化けるはずだったが、背丈が足りず迫力が無い。
仕方無く、朱王が白粉やら紅を塗りたくり髪を結わえた。
芝居がかった台詞は、朱王の後ろに隠れた海華が喋っていたもの。
抱いていた赤ん坊は、人形の頭だった。
全てが終わり、これで朱王と海華の生活も元通り、とはいかなかった。
竹一がいなくなってから海華の様子がおかしいのである。
夜、床に入る時間が極端に遅くなり、仕事にも身が入っていない。
家にいる時も心ここに在らずの状態だ。
この日、仕事先から帰った朱王は、井戸の前でお時に声を掛けられた。
「お多喜さんから聞いたけど、竹坊の父親見つかったんだって?」
はい、と返した朱王はバツが悪そうに頭を掻いた。
女将を始末した後、お多喜の部屋へ乗り込んで竹一を返して貰ったのだ。
熟睡していた所をいきなり叩き起こされたお多喜には後から散々文句を喰らったのである。
それもお時は既に聞いているのであろう。
「母親は死んじまったけど、まぁ、もう片方がいたからよかったじゃないか。……それよりさぁ、海華ちゃんこの頃元気無いけど、大丈夫なのかね?」
お時はいかにも心配そうな表情で朱王を見上げた。
「はい、どうも気伏せの病らしくて」
「竹坊がいなくなって寂しいんだろうさ。情が移ったんだよ」
きっとそうだろう。 と、朱王も思っていた。
共に暮らして十数日、情が移るには充分な時間だ。
その証拠に、竹一が使っていたおしめや産着、背負い紐などは綺麗に洗われて部屋に置かれたままなのである。
朱王も片付けろとも捨てろとも言えないでいた。
「そのうち元に戻りますよ」
そう言い残し、朱王は部屋へと戻る。
先に帰っていた海華は、壁に凭れ掛かりながらボンヤリと宙を見詰めていた。
その手中にあるのは、竹一にと買ったでんでん太鼓だ。
「どうした? 具合でも悪いか?」
「ううん」
ゆるゆると首を振り、俯きながら海華が答えた。
向かい合ってしゃがみ込んだ朱王の大きな手が、ぐしゃぐしゃと短めの髪を掻き回す。
「この頃寝るのが遅いぞ。疲れが出たんだ」
「――匂いがするのよ。竹坊の」
海華が太鼓を玩ぶ。
パラパラと乾いた響きを立て、太鼓が手から滑り落ちた。
「ずっと一緒に寝てたから、布団に匂いが残ってるの。 ……寝てても何だか落ち着かなくて、だから」
自嘲気味に海華が呟いた。
ふぅ、とため息をつき、朱王が立ち上がる。
「明日、大黒屋まで行ってみるか?」
その一言に海華が伏せていた顔を跳ね上げた。
「だって、兄様もう関わるなって……!」
驚きを隠しきれないように、彼女は大きく瞳を見開く。
「勿論会いはしない。遠くで眺めるだけだからな?」
海華の顔がパッと輝き、まるでバネ仕掛けの如くその場に跳ね起きる。
「兄様ありがとうっ!」
ガバリと兄に抱き付き、きゃあきゃあと歓声を上げる海華。
それを受け止める朱王は苦笑いだ。
「わかったわかった、それより飯はまだなのか?」
「うん、すぐに作るから!」
ニコニコ顔で言った海華は生米の入った笊を手に表へと飛び出していく。
どうやら、気伏せの病は完治したらしい。
「お時さん! こんばんは!」
杏色に染まる春の空に、海華の明るい声が響き渡っていた。
終




