第三話
東の空が白み始めた頃、部屋の戸口がぶち破られるかと思うほど激しく叩き付けられる。
寝ぼけ顔の朱王が布団から這い出し、扉を開けると、酷く慌てた様子の留吉が息を切らして立っていた。
何か? と尋ねる前に、口から唾を飛び散らせながら留吉が喋り散らす。
「朱王さんが捜してた女ぁ、見つかったぜ!」
「お紺さんが!? どこでですか!?」
留吉の台詞に朱王の眠気が一気に吹き飛んだ。
「入谷の鬼子母神前だ。けどなぁ、死体になってんだよ」
「死……体って、なぜ……なにがあったんです!?」
思わず迸った大きな叫びに眠りを妨げられたのだろうか、海華の布団がモゾリと動いた。
「なんでだか、まだわからねぇんだ。腹を一刺しされて殺されてたんだよ。 悪りぃんだが今から来てくんねぇかい?」
「わかりました、海華っ! おい起きろっ!」
「なぁによ……。五月蝿いなぁ……」
未だ夢と現を漂っているかのような声が布団から上がる。
彼女の隣では竹一も穏やかな表情で眠り続けたまま。
起きる気配のない妹に痺れを切らした朱王が部屋いっぱいに響き渡る大声を張り上げた。
「お紺さんが見つかったぞっ! 俺は先に行っているから、竹坊を見てろっ!」
お紺の名前に反応し、跳ね起きた海華だったが、戸口は開いたまま既に朱王の姿はどこにも無かった。
寝乱した髪もそのままに、朱王は入谷へと疾走する。
現場はまだ朝早という事もあり、人影は疎ら。
番屋の者と思われる人間が数人いるだけだった。
「朱王さん連れてきやした!」
「おう! 朝っぱらからすまねぇなあ、朱王さん」
十手で肩を叩いていた親分がこちらに振り向く。
その足元には、無造作に筵を被され、転がっているモノ。
ボロボロになった筵の端からは、痩せた二本の足がニュッと突き出ている。
息を切らせ、蒼白な顔をした朱王の目に、左足に巻かれた泥だらけの包帯が映し出された。
「起きがけに見せたいモンじゃねぇが、頼むぜ」
そう言った親分が、バサリと筵をめくる。
現れたモノ、それは結わえ髪をザンバラに乱し、カッと両目を見開いたまま息絶えたお紺だった
脇腹には柄な部分まで深く突き立てられた脇差しのような刃物。
他の部分にも、斬られたり刺されたりした跡がいくつも見受けられた。
殺されてから時間が経ったのだろうか、地面に染み込んだ血や、お紺自身から微かに腐臭が漂う。
天を見据えたままの瞳は、既に白く濁り始めていた。
「お紺さんです……間違いありません」
愕然としながら朱王が呟く。
背中に冷たい汗が流れた。
「そうか。ありがとよ」
無惨な死体に手を合わせ、また筵を被せ直した親分は、ふぅと掠れた溜息をついた。
「殺されたのは夕べから朝にかけてらしい。暖けぇから傷みが早まったんだ。ヒデェ真似しやがるぜ。無念だったろうな……赤ん坊残してよぉ」
グスリと親分が鼻を啜る。
朱王は返す言葉が出なかった。
目の前に突き付けられた現実が、今だに信じられなかったのだ。
「朱王さん、あの赤ん坊はどうすんだい?」
恐る恐る留吉が尋ねる。
「――もう暫く預かります。こうなったら、父親を捜すしかない」
沈みきった声色で答えた朱王は親分に一礼し、フラフラとその場を後にしたのだった。
「どうしてお紺さんが殺されなきゃなんないのよ……」
クタリと畳にへたり込み、海華は竹一を抱きしめた。
何もわからない赤ん坊は、ただ嬉しそうに笑いながら襟元を握る。
乳を貰ってお多喜の所から帰ると、既に朱王は帰宅しており、ボンヤリと机の前に座り込んでいた。
兄の口から事情を聞いた海華も最初は驚愕の表情を見せたが、沈みきった兄を見るうちに、その話しが真実だと理解したようだ。
海華は朝飯を作る気も無ければ、朱王は食う気も無い。
打ち沈んだ空気の中に、竹一の声だけが聞こえていた。
「――こうなれば、なんとしてでも大黒屋の旦那に竹坊を引き取って貰わないとな」
「出来るかしら? お紺さん死んだのも、案外あの旦那が絡んでたりして。だとしたら、そんな人ン所に竹坊はやれないわ」
ググッと海華の眉が吊り上がった。
勿論、それは朱王も考えていたのだが……。
「あの旦那が人殺しなんざ出来るタマか。その手の奴らを雇うツテも無いだろう。海華、暫く大黒屋を見張っていてくれないか?」
「わかった。竹坊は、お多喜さんに頼むしかないわね。兄様はどうするの?」
「俺は、お紺の長屋を見張る。まさかとは思うが、竹坊まで狙われるかもしれん」
難しい顔をした朱王が髪をかき上げる。
「そんな事させないわ。竹坊のためにも必ずお紺さんの仇は取るんだから!」
ギリギリと歯を食いしばり、海華が呟いた。
この日から竹坊は丸一日お多喜の元へと預けられ、朱王達も朝早く長屋を出掛け、帰りは深夜となる日が続いたのだ。
「兄様! どう? 誰か来た?」
むじな長屋にあるお紺の部屋、その真向かいにある空き部屋の中に海華が滑り込む。
半分壊れた格子窓から外を監視していた朱王が彼女の声に応えるように片手を上げた。
「猫の子一匹通らないよ。お前の方は? 何かわかったか?」
ニヤリと口角を上げ、海華が頷く。
「店の丁稚手に菓子あげて、色々聞いてきたわよ。まぁ、あの女将、旦那の浮気にゃ目くじら立てるくせに、自分は昼間っから歌舞伎役者と茶屋へシケ込んでるの。旦那は入り婿だから強く言えなくて、見て見ぬふりだってさ」
「旦那とお紺さんの事、知っていたのか?」
「竹坊の事も知ってるのよ。あの女将、裏で金貸しやってて、その筋の連中とも知り合いらしいの。そいつら使って調べさせたんじゃないかしら? あの夫婦、子供がいないから余計頭にきたみたい」
そう言って鼻で笑った海華。
「まぁ、日がな一日眉間に皺寄せてるような女だから、旦那だって子供なんて作る気にゃならないわよ」
「そんなに気の荒い女なのか?」
半ば呆れたように朱王が尋ねた。
「客の前でも平気で使用人怒鳴り付けるような人だもの。大方……」
「シッ!!」
突然朱王の手に口を塞がれ、目を白黒させながら海華は床に這った。
「来たぞ。男が二人だ」
目から上だけを格子窓から出し、じっと部屋の方を見据える朱王。
口を塞がれたままの海華は身動きが取れない。
その手をなんとか引き剥がし、兄と同じく外を覗くが、もうそこに人影は無かった。
「どこにいるのよ?」
「中へ入った。……行くぞ」
音も無く立ち上がった兄の袖を引いた海華が、やおら何かを手渡す。
それを見た朱王へ怪訝な顔で小首を傾げた。
「何だこれは?」
「来る時買ったの。付けてった方がいいわよ? 正体バレたらまずいでしょ?」
小声で促し、彼女は戸口からスルリと抜け出て行く。
朱王もそれを手にしたまま、妹について空き屋を出た。
ゆっくり、静かにお紺の部屋の戸を開いていく海華。
暗い中からは、ガサガサと何かを物色する物音が聞こえる。
音を立てている主は、二人の存在に全く気付いてはいない。
その内の一人へ、朱王が影のように滑り寄る。
気配に気付いたのか、人影がガバリと振り向いた。
その左肩を引っつかみ、朱王の鋭い一撃が影の鳩尾に叩き込まれる。
ぐぇ、と蛙が鳴くような声を漏らし、影はその場に倒れ伏す。
もう一人は、土間の隅で仰向けになり、バネ人形のように手足をバタつかせていた。
その首には、赤い紐がギリギリと食い込み、それを外そうと爪が皮膚を掻きむしり、指は血だらけだ。
しかし、必死の抵抗も虚しくゴボゴボと口から蟹の如く泡を吹き出す音を立て、手足はぱたりと地面に落ちた。
「死んだのか?」
朱王が人影を引きずり、近くの柱に縛り上げる。
「まさか。ちょっと寝て貰っただけよ。兄様、 こっちもお願い」
そう告げると転がる影を蹴り飛ばし、海華はそばにある手桶を持って表へと姿を消した。
朱王に気絶させられ、ぐったりと頭を垂れている男に、手桶の水が浴びせ掛けられた。
ゲホゲホと咳込み、ようやく目を醒ました男は激しく頭を振り、周りへ水しぶきを飛び散らせる。
「やっと起きたか」
頭上からくぐもった声が降る。
不精髭を生やし、水の滴る顔をガバリと上げた男は、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
男を見下ろしていたのは、二匹の鬼。
闇に溶け込む長い黒髪の鬼は、右手に白く煌めく大刀を握っていた。
男の体がぶるぶると震え出し、歯の根は合わない。
血走った眼は目の前に立つ鬼を凝視していた。
「貴様、ここで何をしていた?」
鬼が言葉を発した。
闇に浮き上がる白い顔が不気味に揺れる。
男は縋るように共にいた仲間を目で捜すが、隣で泡を吹き、正体不明で倒れている人影を認めると、顔から一気に血の気が引いていった。
「言えねぇ、言えねぇんだ……! こっ、殺されるっっ!」
紫色に変わった分厚い唇を戦慄かせ、男が喚く。
すると、眼前に立つ鬼がすっと間合いを取った。
「言えないとさ。どうするか?」
奥に控えていたもう一匹の鬼へ話し掛けると、 ウフフ、と小さな笑い声。
「鼻でも削ぎ落としましょ。死ぬよりはマシじゃない?」
ヒイィィッ! と不様な悲鳴を上げ、男はめちゃくちゃに暴れ出す。
しかし、固く結ばれた縄はビクともしない。
長髪の鬼が、刀の切っ先を男の鼻先へ突き出した。
「待っ……待ってくれっ! 助けてくれぇっ!」
「鼻が嫌なら目を潰すわよ?」
奥に控えた鬼から冷酷な台詞が飛ぶ。
ヒィ! と一度掠れた悲鳴を上げて、男は白旗を上げた。
「わかったっ! 話す! 話すからやめてくれぇっ!」
鼻水と涙を垂れ流し、男が懇願し出す。
二匹の鬼は顔を見合わせた。
「テメェら、テメェら誰だ? 何者なんだよぉ!?」
男は半泣きで、交互に鬼達を見遣った。
「何者かって? そうだな……鬼子母神の使いだよ」
抑揚のない声で答えたと同時、鬼が持つ刀が冷たい光りを放った……。
お紺の部屋からギャア、と潰れた悲鳴が上がる。
暫くしてそこから出てきたのは、あの鬼達。
「意外と上手くいったじゃない?」
カパリと鬼の顔が外れ、幾分頬を赤くした海華が笑った。
手にしているのは、どこにでもある夜叉の面。
朱王も同じ面を外し、ふぅ、と息をつく。
「やっと話しが見えたな。後はどうケリをつけるかだ」
「しっかり作戦練ってよね。女将の方はあたしが見張ってるからさ。……ところで兄様、あの二人始末しなくてよかったの?」
心配そうに眉を潜め、海華は面を玩ぶ。
すると朱王は再び面を顔に当てた。
「気絶させるだけで済むように、コレを使ったんだろう?」
「そうだったわ。でも、鬼子母神の使いって上手い事言ったわね」
海華はバシリと朱王の背を叩く。
二人が本格的に動き出したのは、それから二日後の事だった。




