第一話
春の恵みが江戸市中に満ち溢れる。
麗らかな日差しが街を包み、草木はここぞとばかりに芽吹き、花を咲かせる。
夜はまだ肌寒いが、今日は風も無く街にも人々が大勢繰り出していた。
その中に、朱王の姿が混じっていた。
溜まりに溜まった仕事も一段落し、夜には酒を楽しめる余裕も出来ていた。
納期が遅れたため、依頼を取り消されるのではと気に掛けていたが幸いな事にそれは無く、おまけに見舞い代わりだと言って、代金にイロを付けてくれる家まであったのだ。
たった今、納品に行った所もその類いで、朱王はすこぶる機嫌が良い。
自らの酒と、海華へ土産として買い求めた菓子を手に、足取も軽く家路を急いでいた。
「助けてッ! ――誰か助けて下さいっ!」
もうすぐ長屋という所で、悲痛な女の叫び声が鼓膜をつんざいた。
道を一つ挟んだ場所だ。
思わず朱王は悲鳴の方向へと走る。
暗い裏道、そこには何かを抱えてへたり込む小さな影と、それを取り囲む大柄な男達。
「何をしているんだっ!」
眉を吊り上げ、朱王が叫んだ。
驚いたように振り返った男達は、女をその場に残したまま、バタバタと走り去って行く。
「大丈夫ですか?」
呆然と座り込んだ女へ近寄ると、その胸元で何かがうごめいた。
「あ……ありがとう、ございます」
ガタガタ震えながら女が顔を上げた。
汗と埃で汚れているが、面立ちはまだ幼さが残る。 大切そうに抱えていたものは、小さな小さな赤ん坊だった。
紅葉のような手の平が、女の襟元をしっかりと掴んでいる。
女はもう一度朱王に頭を下げると、よろめきながら立ち上がる。
しかし、転んだ際に負ったのか左足の臑は三角形に皮膚が剥がれ、血が流れ落ちていた。
「怪我をしていますよ、このまま歩くのは無理だ」
「いえ、平気です」
俯きながら女が呟く。
しかし、足元はフラフラだ。
見兼ねた朱王が手を差し出す。
「転んだりすれば、赤ん坊が危ない。うちはすぐそこですから、手当てしましょう。――別に怪しい者ではありません。中西長屋の、朱王と言います」
彼の申し出にしばし躊躇していた女だったが、やがてコクリと頷き、朱王の手を取った。
突然女連れで帰った兄前に、海華は呆気に取られた表情を浮かべたが、事情を知るとすぐに女の手当てを行った。
その間も、女は無言で赤ん坊を抱きしめている。
「はい、終わり。大怪我じゃなくて良かったわ」
傷口を洗い、包帯を巻き終わった海華は、赤ん坊を覗き込む。
「よく眠ってるわねぇ、名前は何て言うんです?」
「竹一、です。私は、紺と申します」
今だ俯いた状態の女、このまま赤ん坊と二人だけで帰すには些か不安だ。
「お紺さん、住まいはどの辺りですか? 送りま しょう。また襲われでもしたら大変だ」
朱王が尋ねた。
「そんな、ご迷惑をおかけする訳には」
「あら、いいのよ。これも何かの縁だと思って」
海華はケラケラと笑い、眠り続ける赤ん坊の頬を軽く撫でる。
そんな二人を交互に見て、女はやっと顔を上げ微かに笑う。
「住まいは……この近くの、むじな長屋です」
「あぁ、裏の方ね? じゃあ兄様、ちゃんと送ってあげて」
そう言い残し、海華は屑入れを片手に部屋を出て行った。
朱王と女も腰を上げる。
その時、いきなり戸が開きいて斜め向かいに住む女房が顔を出した。
「おや、お客さんかい?」
女と朱王を交互に見遣り、女房は小首を傾げた。
「ああ、それよりお時さん、何かありましたか?」
「うん、それがねぇ、うちの吊り棚が落ちちまったんだよ。今、亭主が留守で男手が無いからさぁ。悪いけど朱王さん、修繕頼めないかねぇ?」
心底困ったと言うように、女房は眉間に皺を寄せる。
棚の修繕位なら、そう時間は掛からないだろうと、朱王は思った。
「お紺さん、悪いが少し待っていて貰えます か?すぐに妹が戻ってきますから。」
はい。 と頷き、女は目を醒まし、むずがり出した赤ん 坊をあやす。 朱王はそのまま、お時の部屋へと向かった。
長屋裏でゴミを捨て、海華が部屋に戻ると、既 に兄と女の姿は無かった。 が、部屋の真ん中にあるものが放置されてい る。
「あら?」
不審に思った海華は、その包みを解いた。 出て来たのは、あの竹一という赤ん坊と、一枚 の手紙。 お紺は何処へ行ったのか、と首を傾げながら、 海華は手紙を開いた。 そこに書かれた文字を追う目が、次第に大きく 見開かれていく。
「何さこれっ!?どういう事なのよ!?」
手紙を握り締め、驚愕の叫びを上げると、それ に共鳴するかのように、ワアアァッと赤ん坊が 泣き声を張り上げた。 もうどうしていいかわから ない海華は、泣き叫ぶ赤ん坊を抱き上げ、部屋 を飛び出す。
「兄様ーっ!!兄様ァァァッ!何処行った の!?」
赤ん坊に負けじと叫ぶと、斜め向かいから金づ ちを手にした朱王が現れる。
「どうした?騒がしいぞ。」
赤ん坊を抱いた妹を怪訝そうに見る。 海華は、その鼻先にあの手紙を突き出したの だった。
手紙には、たどたどしい文字でこう書かれてい た。
『かならずむかえにまいります。こどもをおね がいします。』
朱王の体が固まった。 その間も、赤ん坊は延々泣き続ける。
「……あの女は何処へ行った?」
「知らないわよ!あたしが帰ったら、この子だ けしか居なかったわ。捨てて行ったのよ!」
顔を真っ赤にして海華が喚く。 すると、部屋からお時が出て来た。
「どうしたんだい?赤ちゃん泣いてるじゃない か。どれ、貸してごらん。……こりゃお腹空か してんだよ。」
赤ん坊を一目見るなり、お時は断言した。 しかし、朱王と海華にはどうする事も出来な い。 オロオロしながら顔を見合わせる二人を見て、 お時は眉を潜めた。
「なんだい、母親いないのかい?しょうがない ねぇ。」
そう言うと、すぐ隣の部屋へと赤ん坊を連れた まま入っていく。 そこは魚屋の女房、お多喜という女が住む部屋 だった。 二人もつられるようにお時の後について行く。
「お多喜さん!お多喜さんいるかい?」
お時ががらりと木戸を引くと、狭い部屋の真ん 中にデップリとした女が横になり、これまた赤 ん坊に添い寝していた。
「お時さんかい、どうしたのさ?」
欠伸をしながら、眠たそうな目が三人を映す。 お時はズカズカと部屋に上がり込んだ。
「この子に乳やってくれないかい?親が居なく なっちまったんだって。」
「いいよ。あたしもちょうど乳が張ってた所 さ。貸してごらん。」
そう言って起き上がり、肉付きの良い手で泣き 止まぬ赤ん坊を受け取る。 そして朱王が見ているのもお構いなしに胸をは だけ、青く血管が透ける乳房へと持ち上げた。
ピタリと泣き声が止まり、代わりに喉を鳴らし て乳を飲む音がする。 朱王と海華は、ほっと胸を撫で下ろした。 しかし、問題はこの後だ。
「おい、この子どうする?」
「どうするって、返しに行くしかないでしょ。 確か、むじな長屋だったわね?」
「あんな置き手紙まで残したんだ。のこのこ家 に戻っていると思うか?」
「じゃあどうすんのよ?犬や猫の子じゃあるま いし、どっかに捨ててこいって?」
海華に睨み上げられ、朱王は困ったようにこめ かみを掻く。 そうしているうち、腹を満たした赤ん坊は乳首 をくわえたまま、さっさと眠ってしまった。 お多喜が乳から引き離した赤ん坊を、海華が受 け取る。
「ありがとうね、お多喜さん。」 「いいのさ。まだ小さいから、すぐに腹空かせ るよ。親が見つかんなかったら、またおいで。 あたしもこの子産んだばっかりだから、いくら でも乳は出るからさ。」
お時とお多喜に礼を言い、海華は赤ん坊と長屋 へ、朱王は棚の修繕へと別れた。この日から、 二人の受難の日々が始まるのである。




