第三話
「海華殿ーっ!!」
鉈が振り下ろされようとした刹那、表から男の咆哮が轟いた。一瞬、お六の手元が狂い、鉈は海華の頭ではなく、後ろの箪笥に叩き込まれる。バキッ! と破裂音を響かせた箪笥、木屑が海華へバラバラと降り懸かった。
ドタバタ土を踏み鳴らす大勢の足音が近付いてくる、その中に海華が待ちに待った兄の声が混ざっていた。
「海華――っ! 海華どこだ――ッッ!?」
凄まじい絶叫が鼓膜を震わす。恐怖に縮こまっていた海華の瞳が大きく揺れた。
お兄ちゃん……! お兄ちゃん助けてっっ! 助けて――ッッ!」
小さな体から出たとは思えない程の叫びが、乾ききった喉から放たれた。それと同時に、広間へ一気に人がなだれ込む。御用、の提灯を携えた者達の手により、老人と老婆は凶器を手にしたまま、あっという間に畳へと引きずり倒された。
呻く老人、金切り声で泣き叫ぶ老婆。罵詈雑言、口汚い怒声の入り交じる狂乱の中から、一つの影が踊り出る。髪を油汗で顔に貼付かせ、死人のように蒼白な朱王だった。
「お兄ちゃ……キャアッ!」
そんな朱王の姿を目にしたお六は一瞬で鬼の形相に変わり、箪笥から鉈を引き抜くと、海華の髪をわしづかんて、無理矢理その場に引き立たせた。朱王が止める間も無く、白い喉へ鋭利な刃が押し当てられる。
「止めろっ! 頼むから、止めてくれ! 海華を離せっ!」
ゼェゼェと荒い息を吐き、朱王が一歩前へ出た。
「来ないで! 早く出て行ってっ! でなければ……この子の首が飛びますよ! 早くここから出て行ってッ!」
ギリギリと鉈が食い込み薄い喉の皮膚を破る。糸のような血が一筋、喉元を流れ、ヒュウッと海華の喉が鳴る。いっそ気絶してしまえればどれだけ楽だろう、しかし、髪を強く引かれる痛みが意識を現実へと留めていた。
涙でぼやける瞳に、兄が唇を噛み締めたのが映り込む。その後ろで、やおら一つの影が揺らめいた。
「朱王! 海華動くなーっ!」
雷の如き怒号と共に、何かが朱王の右頬を掠める。 それが何かを確かめる暇も無く、眉を吊り上げたお六の眉間に、白い塊がけたたましい音を響かせてぶち当たった。
「ギャッ!!」
お六の眉間から血が飛び散る。
ガツン! と鈍い音を立てて陶器の破片が砕け散った。鉈を投げ出し、海華も突き飛ばすように放ったお六は、顔を押さえて畳の上を呻き声を上げながらのたうちまわる。
倒れ伏した妹に朱王が飛び付き、痛い痛いと泣き叫ぶお六は、数人の男達の手によって部屋から引きずり出されていった。
「海華ッ! 海華大丈夫か!? しっかりしろっ!」
彼女の両肩を掴みガクガクと揺さ振るが、既に放心状態の海華は、力無く焦点の合わない瞳を開けたまま。軽く頬を張ると、やっと目に光りが戻る。
「おい! 海華っ!」
「お、兄……ちゃん……。ウ、ワァァァーッ!」
血だらけの腕を兄の首にしっかり巻き付けた海華が、狂ったように泣き叫ぶ。
「もう大丈夫だ、大丈夫だからな!」
わななく体を強く抱きしめ、朱王は安堵の息をついた。
「朱王、海華殿は!?」
膝をつく朱王の後ろに男が立った。辺りは既に薄闇に包まれ、人の顔がなんとかわかる程度だ。
「桐野様……。怪我はだいぶありますが、命だけは」
微かに声を震わせながら、朱王が振り返る。泣きじゃくる海華を目にした桐野は、深く眉を寄せた。
「あの女はこちらに任せろ。お前は海華殿を、よいな?」
はい、と頷き、朱王は海華を抱き上げる。周りにはもう、お六もあの老人達の姿も無い。桐野と数人の役人の姿がいるだけだ。妹と肩紐の切れた木箱を手にして庭へと下りる。
そこには黒い巨大な影となった桜の木が二人を見下ろしていた。その根本に掘られた深い穴が、地獄の入り口よろしく漆黒の口を開けていた。
長屋へと急ぐ朱王の背中で、海華は失神するように眠りに落ちていた。庵に駆け込んできた朱王から事の次第を聞いた伽南は、真っ青な顔で長屋へ飛んで来た。兄の手で寝巻に着替えさせられた海華に、伽南は迅速な処置を施してくれる。首や腕は、殆どを白い包帯に包まれた。幸い、命に関わる程の深い傷は見当たらない。
「私が余計な事を教えたばかりに……」
伽南は申し訳無さそうにうなだれた。
「先生のせいではありません。あの女の本性を私も海華も見抜けなかった。まさかあんな事をするなんて……」
朱王には未だ信じる事が出来なかった。あんな優しい笑顔を浮かべていたお六が、先程まで鬼の形相で妹を殺そうとしていたのだ。
「それにしても、よく海華があの家に居るとわかりましたね?」
伽南が首を傾げた。朱王の口から、その理由が静かに語られていく。
桐野が切迫した表情で長屋に駆け込んできたのは、日が傾きかけた頃だった。
海華は? と聞かれ、まだ帰らないと答えると、 やおら袖を掴まれ外へ引き出されたのだ。何でも、今しがた番屋に立ち寄った忠五郎との雑談の中で、ふとあの神隠しの件が話題に上がったのだ。
そして、二人の話しを横から聞いていた留吉が思い出したように呟いた。海華が見掛けない女と二人で、神隠しがあった方向へ向かって行ったと。
妙な胸騒ぎを覚えたのだろう桐野は、そのまま長屋へと走る。留吉の話しを朱王に伝えると、あの屋敷とお六の存在が判明した。
「あの辺りに住む者で海華が簡単について行くとすれば、あの女しか考えられません」
海華の髪を撫で、朱王が言った。あの後、半信半疑のままに夕暮れ迫る桜並木を桐野達と走りに走り、屋敷まで辿り着いた。庭に駆け込んだ際、桜の根本に掘られた以前より深い穴を見た時、お六への疑いは確信へと変わっのたのだ。
「流石は桐野様。間一髪でしたね」
伽南が呟いた。 もう一歩遅ければ海華は骸に変えられ穴の中。あの子は帰りましたとお六には言い張られておしまいだっただろう。
「それでも命だけは助かってよかった。…… ああ、暫くは側に着いてあげて下さい。きっと落ち着かない状態が続くと思いますから」
そう告げると、伽南は立ち上がる。外まで見送った朱王が部屋へ戻ると、布団から苦しそうに呻く声が聞こえた。慌てて覗き込むと、海華は歯を食いしばり額に玉の汗を浮かべている。
「海華! おいっ! 海華っ!」
布団の上から体を揺さ振ると、熱に浮されたような瞳がボンヤリと開かれた。
「お、にぃ……ちゃ……?」
「あぁ、ここにいるぞ」
布団からさ迷い出た包帯だらけの手を、朱王はしっかりと握る。
「怖かった……、お兄ちゃん、怖かったぁ……」
潤んだ目からとめどなく涙が溢れ出す。それを手の平で拭いながら、朱王は安心させるかのように微笑んだ。
「もう大丈夫だ。俺がいるから、心配しないで ゆっくり休め」
カタカタと震える頭を撫で続けると、布団を強く握り締めたまま、海華はまた眠ってしまう。彼女の不安定な状態は、伽南の予想通り一週間ほど続いたのだった。
「桜の下からゴロゴロ出てきやがったぜ」
煙草の煙と共に、忠五郎が吐き捨てた。
今、朱王はだいぶ落ち着きを取り戻した海華を連れて番屋へ来ていた。勿論、先日の礼を言うためだ。
間の良い事に、桐野、高橋、都筑の三人も顔を揃えている。桐野達が屋敷へ踏み込んだ翌日、早速桜の根本が掘り返されたのだ。
結果、四人分の人骨と夥しい数の犬、猫と思われる骨が発見された。疑いまでも無く、神隠しの被害者達だ。しかし、忠五郎の言葉に朱王は首を傾げる。
「いなくなったのは、確か三人のはずでは?」
その答えは、桐野の口から明らかにされた。
「うむ、神隠しにあったのは三人だ。だが、その前にもう一人殺していたらしい」
「もう一人って……誰なんですか?」
今だ包帯を巻き付けたままの海華が、恐る恐る尋ねる。
「お六の亭主だ」
顎の下を擦りながら、桐野がボソリと答えた。お六の話しでは、亭主は病死していたはずだ。
「あの爺婆が吐きやがったんだ。お六が頭かち 割ってぶち殺したんだとよ」
忌ま忌ましそうに、忠五郎が事件の全貌を語り出した。
今から四年前、お六の両親が相次いで死んだ。これは正真正銘の病死だったらしい。この後から、亭主の態度がガラリと変わった。
以前は大人しく影の薄い男だったが、遊郭通いが激しくなり家にも帰ってこない。大酒を喰らった上、お六に暴力を振るう時もあったそうだ。耐え兼ねたお六は、二人の使用人と一緒に亭主を殺害した。
「婿入りした旦那だからな。舅、姑が死んでタガが外れたんだろうぜ。で、殺しを隠す為にあそこへ埋めたんだ。周りには病で死んだと言いふらしてなぁ」
「それは……殺しを隠そうとしたのは解らなくもないですが、何故赤の他人まで手にかけたのです?」
今だ納得出来ない朱王だ。それがなぁ、と些か呆れた様子で忠五郎は頭を掻く。
「親が死んだ年から、あの桜が花を咲かせなく なったんだと。で、亭主殺して埋めた年から満開だ。それから桜が咲かないと、自分に不幸が起きると思い込んじまったみてぇだな」
だから毎年肥料と称して人を埋めていたのだ。
「桜が弱りかけると、あの爺に言い付けて犬猫を追加で埋めたらしいぜ。まあ、あの木もかなりの古木だ。毎年咲けって方が無理な話しだ」
はあぁ、とため息をつきながらキセルをくわえる。 高橋と都筑は、呆気に取られたように顔を見合わせた。朱王と海華も同様だ。
「亭主を殺した時から、あの女は狂っていたのだろうよ」
一人、桐野がこぼした。きっとそうなのだろう、と言いたげに朱王も頷く。
「あの……。お六さんはどうしてるんですか?」
忠五郎の話しを肩を落として聞いていた海華が口を開いた。その問い掛けに、都築の鼻息が荒くなる。
「あの女も困ったものだ。私に何の罪があるのかと、牢の中で喚き散らしている」
「まだ詳しい調べも出来ていないのだ」
高橋も困り顔。ガツン、と忠五郎がキセルを叩き付ける音が響いた。
「完全におかしくなっちまったんですよ。海華ちゃん、あんな女なんざ気に掛ける必要ねぇぜ。最初から、殺すつもりで近づいたんだからよ」
はい、と弱々しい返事が口から零れ落ちる。がくりとうなだれ、己の膝を見詰める海華は、泣き出しそうな程に悲痛な表情を浮かべていた。
番屋からの帰り、先を歩く朱王から少し離れてトボトボと海華が行く。相変わらず下を向き、足取りも何時もの元気さが感じられない。
突然、朱王の足が止まった。が、それにすら気付かない海華は歩みを止めず、そのまま兄の背中にぶつかった。
「あの女の事は、もう忘れろ」
ゆっくりと朱王が振り向いた。柔らかな春風に揺られ、髪がなびく。
「うん。……でもあたし、まだ信じられないの よ」
海華の唇が歪む。瞳を輝かせて自分の人形芝居を見てくれていたのも、全てが嘘、あの優しい笑みも、全部お六の芝居だったのか。忠五郎の言った通り最初から自分を殺す手筈だったのか。彼女はいまだに信じられない、いや、信じたくないのかもしれない。
「俺もまだ信じられない。だがな、人が何を考えていたかなんて頭かち割っても、胸切り裂いてみてもわからないんだ。それに、起きてしまった事実は今更変えられないだろ?」
全て受け入れるか、徹底的に目を反らすしか無いい。どのみち、直ぐには楽になんてなれないのだ。
くしゃりと顔を歪めながらも、海華は小さく頷 き、兄の手を握った。朱王は妹の手を引きながら、再び歩き出す。
「そう言えば、お前が『お兄ちゃん』なんて言ったの、久しぶりに聞いたな」
思いだしたように、朱王は小さく笑った。海華がまだ幼少の頃、修一郎と朱王をお兄ちゃん、と呼んでいた。しかし、お静に兄様と呼べと厳しく窘められ、いつしかそう呼ばれる事も無くなっていたのだ。きっと相当怖かったのだろうと、朱王は思っている。
「え? あたしそんな事言ったの?」
驚いたように海華が尋ねた。実は、あの辺りの記憶は曖昧なのだ。
覚えていないのも無理はない、屋敷から助け出されてからというもの、海華は暫く混乱状態だった。
夜中にいきなり悲鳴を上げて跳び起きる。昼間は昼間で、突然泣き出したり、フラフラと部屋から抜け出たりしていた。
朱王は一時足りとも目が離せない。酷い時には、伽南から貰った眠り薬を飲ませ、無理矢理寝かせていた状態だった。
「まぁ、覚えていなくてもいいんだがな」
そう言いながら、突然細い横道を左へと曲がる。長屋とは反対の方向だ。
「ねぇ、どこ行くの?」
握った手を軽く引き、海華は小首を傾げた。
「錦屋さんだ。着物、一枚駄目にしたろ?」
「買ってくれるの!?」
思わず声が上擦った。
「生還祝いだ。好きなの選べ」
そう告げて振り返った朱王がニヤと笑う。ありがとう! と歓声を上げた海華の顔にも、久方ぶりに笑顔が戻っていた。
陽射しが燦々と二人を照らす。 麗らかな春の午後だった。
終




