第二話
「お花見、来てよかったでしょう?」
臑に痛々しい引っかき傷をこしらえた海華が兄を見上げた。屋敷からの帰り道、既に辺りは暗くなり、天空には朧月がぽっかりと浮かび二人の帰り路を照らしている。
夜桜見物は次の機会に、と海華は言ったが、これなら道々堪能出来そうだった。
鶏の襲撃をなんとか乗り切った二人は、それから四半時程お六と世間話等をしながら、あの桜を楽しんだ。会話の中で朱王が人形師だと知ると、お六は是非一体作って欲しいと頼んできたのだ。
思い掛けぬ所で仕事が取れ、遠出が嫌いな朱王もまんざらでは無い様子で頷いた。
「飯はどこかで食べて帰るか」
顔に掛かる髪を払いながら、朱王が言う。
「そうね、今から支度しても遅くなるし、明日からはまた忙しいもんね」
「お前にも使い走りを頼むかもしれない」
わかったわ、と返事をして、カラカラと下駄を鳴 らしながら、海華は兄の腕に絡み付く。辺りには夜桜を楽しもうと、続々人が繰り出し始めていた。
「花の盛りも、今日明日ってところかしら?」
「そうだな。盛りが過ぎれば後は散るだけだ。いい時に来れてよかったな」
「うん。次はいつ見れるかわからないものね」
少し寂しそうに海華が呟く。
「また来年連れて来てやるよ」
その言葉に、海華の顔が輝いた。
「本当!? あたしちゃんと覚えてるんだからね? あ、その前に夏祭りにも行きたいわ」
「わかったわかった」
ありがとう! 喜びの叫びを上げ、朱王にぎゅうと 抱き着く海華。二人は桜吹雪を纏いながら、飛鳥山を後にした。
花見に行ってから早くも五日が過ぎた。冬の間は辻に立つのを控えていた海華だが、春の陽気に誘われ、今年初めての人形芝居を道行く人々に披露していた。
道に置いた箱に次々と銭が投げ入れられる。初日にしてはいい収穫だと顔を綻ばせ、片付けをしていると、一人の侍が近寄ってきた。
「桐野様!」
侍の顔を見たとたん、海華が白い歯を覗かせた。
「元気でやっておるな。あれから朱王も変わりは無いか?」
穏やかな笑みを浮かべた桐野。海華は、昨日花見に行った事や、あの屋敷の桜の事等を話した。ところが、屋敷の場所を話した途端、今まで明るかった桐野の表情がサッと暗く曇ったのだ。そして、キョトンとしている海華の耳元に顔を近付け、思わぬ事を話し出す。
「海華殿、この時期はあまりあの辺りを歩かぬ方が良いぞ」
「え? どうしてですか?」
海華の声が上擦った。桐野はますます声を潜める。
「神隠しだ。毎年一人づつ、人がかどわかされる。もう綺麗さっぱり三人消えておるのだ」
「神……隠しですか」
「そうだ。最初は老婆、次は若い男、去年は子供が消えた。手掛かりすら無いのだ。朱王にも伝えておけ、何かあってからでは遅いからな」
そう忠告し、桐野は去って行く。残された海華は、まるで狐に摘まれたような顔をしながら、その後ろ姿を見詰めていた。
その晩長屋に戻った海華は、早速、昼間に桐野から聞いた事を兄に話した。
「なに、神隠し?」
突飛な話しに、作業の手を止めた朱王が怪訝そうに眉を寄せる。
「そうなのよ、もう三人いなくなってるんだって。兄様にも気をつけろって桐野様が」
「そうか、あんな静かな場所でな」
「あたしもびっくりしたわよ。兄様明日行くんでしょ? 一人で大丈夫?」
海華の心配をよそに、朱王はフンと鼻で笑った。
「神隠しだか人さらいだか知らないが、俺がそう安々と連れて行かれる訳無いだろう」
「うん、……でもね」
「余計な心配してないで、お前はしっかり仕事に行け。間違ってもコソコソついて来るなよ?」
ジロリと横目で睨まれ、思わずたじろぐ。どうやら心中見透かされているようだ。
「っ……! ついてなんか行かないわよ!」
ぷいとそっぽを向きながら、海華は小さく舌打ちをした。
次の日、朱王は午後からあの屋敷へ出掛けた。途中海華の所に寄り、これから行くと伝えると、表情を雲曇らせながら必ず日が落ちる前に帰って来いと、念を押されたのだ。
心配するにも程がある、と軽く嘆息しながら、朱王は街を出る。飛鳥山では、先日まで競い合うように咲いていた桜も、今はあちこちから緑の葉を覗かせ、落ちた花弁は人々に踏まれ、泥に塗れて汚れた無残な姿をさらけ出していた。
人も花も、死んでしまえばいつまでも美しくはいられない。しかし、この花弁達も朽ちて土へと還れば、また来年見事に咲き誇る為の養分となるのだろう。
朱王は花の絨毯に点々と下駄の跡を残しながら歩く。 その体にはサラサラと別れ涙のように花吹雪が降り注いだ。
屋敷の板塀を見上げると、あの桜は今だに散る気配は全く無かった。それどころか、花の重みでますます枝をしならせ、それはさしずめ夏の入道雲だと朱王は思った。
「手入れがいいと長持ちするもんだな」
そう一人ごちた朱王が重厚な門をくぐる。
人の気配は無く、鶏達がやかましく鳴きながら餌を啄んでいるだけ。玄関の方へと歩き出した朱王の目が、ふと桜の根本で止まった。根を板塀ギリギリまで根を延ばす桜、その太い根の間の土が、畳一枚程の大きさで黒く変色している。近寄ってよく見ると、最近掘り返されたかのように土が湿っていた。
「寄るんじゃねぇ!」
屈み込んで地面を眺めていた朱王の背中で、突然激しいダミ声が張り上げられる。驚いて振り向くと、いつの間に来たのだろうか、つぎはぎだらけの汚い野良着を纏った老人が、鋭い目つきで朱王を睨み付けていた。
「いや、申し訳ない。気になったので、つい。あの……奥様はご在宅ですか?」
あまりの剣幕にうろたえながら立ち上がる。老人の背丈は、朱王の胸辺りまでも無い。禿げ上がった飴色の頭には、僅かに糸屑のような白髪がへばり付いていた。老人は怒りを含んだ眼差しのまま、顔を一杯に 上げて朱王を睨み据える。
「今、肥やしをやったばかりだ。この木は根っこが弱ってる。だから、触らねぇで下せぇ。 ……奥様は母家にいますだ」
そう言い捨て、老人は裏庭の方角へと去って行く。節くれだったその手は、泥で真っ黒に汚れていた。朱王は去り行く老人の背中を眺め、気まずそうに頬を掻いていたが、気を取り直したように息をつくと母家へと歩みを進めていった。
『海華ちゃんに、また遊びに来るよう伝えて下さいね』
別れ際、お六はそう言った。どうやら海華は随分と気に入られたらしい。仮彫りをした頭を確認して貰いに訪ねただけだったのだが、また話し相手にと引き止められ、結局屋敷を出たのは日が傾き始めた頃だった。
話しの中でさりげなく神隠しの事を聞いてみたのだが、お六はただ首を傾げるだけ。朱王は何か引っ掛かる物を感じたが、あえて深く追及はしなかった。
玄関を出ると、もう外に人の気配は無い。日中はけたたましく鳴いていたあの鶏達も、今は小屋へと追い立てられたようだった。門の近くまで来ると、朱王の目は自然と桜の根本へと行く。
湿っぽい土をさらけ出した一角は、夕日に照らされ黒い影を作り出している。その時、背中に突き刺さるような視線を感じ、 朱王はさっと振り返った。
少し離れた場所に立ち尽くす一人の老婆。昼間の老人と同じく粗末な服を纏い、乱れた白髪を無造作に後ろで一括りにしている。朱王を睨らむように見遣る目は、左目が眼病でも患っているのか真っ白に濁り、右手にはポタポタと水の滴る草刈り鎌が握られている。
老婆は、朱王と片方だけの視線がかちあうと、 皺だらけの顔を僅かに歪めて、そそくさと痩せた身体を揺らせながら裏へ引っ込んでしまった。
老人と老婆、お六が話していた使用人夫婦だろうか。薄気味悪さを感じながら、朱王は足早に屋敷を出ていった。
「兄様知ってる? 綺麗な桜の下には、死体が埋まってるんだってさ」
漬物を噛みながら、海華が唐突に言った。朱王が屋敷から街へ戻ると、海華が街の入口に立っていた。どうやら心配して迎えに来たらしい。
帰りが遅いのなんのと小言を浴びながら長屋へと帰り、今やっと夕餉にありつけたのだ。いきなりおかしな事を言い出した妹に、朱王の箸が止まる。
「また馬鹿な事を。誰に吹き込まれたんだ?」
「留吉さん。神隠しの話し、色々聞いてみたの」
したり顔の妹に、軽くため息をつきながら味噌汁を啜る。
「人の話しを鵜呑みにするな。大体、人の死骸で花が咲くなら、鳥辺野や化野辺りは一年中桜が咲いてるぞ」
そう言い捨てた朱王の手が、味噌汁の碗を持ったままピタリと止まる。今だ狂い咲く桜、掘り返された根本、老人が言っていた『肥やし』の存在。
「まさか、な……」
ぽつりと呟きが漏れる。
碗を見詰めたままの兄を前に、海華は首を傾げた。
「兄様? どうかした?」
「いや、なんでもない。――海華、絶対あの辺りに一人で行くなよ。桐野様にも言われただろう」
「わかってるわ。それより兄様も気を付けてよね?」
頷きながら答え、最後の飯を口に運ぶ。朱王は、あの屋敷で感じた薄気味悪さが胸の中で大きく膨らむのを感じていた。
人形の指を彫り込んでいた刃がピタリと止まる。深く食い込みすぎた刃先を引き抜いて、朱王らは長らく伏せていた顔を上げた。
海華が勤めに出て行ってから、どのくらいの時が過ぎただろう。戸口から射し込む橙色の光からして、表はもう夕方となっているはずた。
ぐぅっ、と大きく背伸びをして一息つけば、彼の身体と同じく凝り固まっていた空気が音もなく和らいだ。
茶でも淹れよう、と緩慢に腰を上げたその時、何の前触れもなく戸口が開かれる。ガラリと耳障りな音に襲われて、朱王は思わず肩を竦めて戸口の方を振り向いた。
「桐野、様……」
「あぁ、朱王。急にすまぬ、海華殿はいるか?」
「海華……ですか? まだ戻っておりませんが」
唐突に問われ、思わず眉をひそめて小首を傾げていると、桐野は土間に立ったまま『マズイな』と小さく呟き顎の下を指先で擦り出す。いつもとはどこか違う彼の様子に妙な胸騒ぎを覚えて、朱王はその場から腰を上げ、桐野の前に座った。
「桐野様、海華が何か……」
「うむ、実は先刻、留吉が飛鳥山の方へ向かう海華殿を見た、と言うのだ。見知らぬ女と一緒だったと。あの辺りは神隠しだ拐しだと物騒な事が多いゆえ、どうも気になってな。向うに知り合いや顔見知りの女はいるのか?」
真剣な眼差しで己を見下ろしてくる桐野を前に、朱王の背中を冷たい物が流れる。飛鳥山の方面へ向かった海華、彼女が目指すのはあの屋敷しか考えられない。そして、同行している女は……屋敷の主であるお六だろう。
「あのバカ、っ……!」
どうしてついて行ったんだ、そう胸中で毒づいてみるが、そもそも朱王は『一人では行くな』と言っただけ、『誰かについて行くな』もしくは『誰かと一緒に行くな』とまでは言っていない。自分との約束は一応守っている事になる。
「桐野様、あの辺りには見事な花を咲かせる桜の木があります。一度屋敷の中で花見をさせてもらって、そこの奥様と懇意に……海華はきっと、あの屋敷に」
そこまで一気に話した朱王の頭の中に、闇夜にボンヤリ浮かぶ桜の花と、その根元に口を開ける大穴が浮かび上がる。胸に芽生え始めていた不安の芽が急激に育ち朱王の鼓動は早まり出した。
「桐野様、私はこれから屋敷に向かいます。何だか嫌な予感が……お願いです、どうか一緒に来て頂けませんか?」
蒼ざめた顔を向ける朱王は自身の気持ちを抑えるように己の膝に乗せていた手をきつく握る。焦りを感じさせる彼へ向かい、桐野は『わかった』と言いたげに力強く頷く。さぁ、そこから二人は取る物も取り敢えず飛鳥山へと走る。道を埋め尽くすように散り落ち、泥にまみれた桜の花弁に何度も足を取られそうになりながらも、朱王はその足を止めようとはしない。つい先日は美しいと感嘆の溜息を持って眺めていた桜、しかし今は己の行く手を阻む疎ましき存在としか感じない。
袴の裾が泥で汚れるのも構わず、朱王の前を行く桐野は流れる汗を風に飛ばしながら『屋敷はまだか』と掠れた声で叫ぶ。その角を曲がれば、すぐです。そう答えた朱王の耳に『キャーッッ!』と空気を震わす悲鳴、いや、絶叫が届く。それは、目の前にある土壁の向こうから響いてきたものに間違いはなかった。
海華の声だ、そう口にする間もなく目の前にいた桐野が一層強く地面を蹴り上げ、脱兎の如く正面の門の中へと飛び込んでいく。一足遅く彼の後を追い掛け門の中へ駆け込んだ朱王を、黒く湿った土を晒す例の大穴が出迎える。その中に海華の姿を見て様な気がして、朱王は一瞬足を止め穴の中を覗き込む。
刹那、絶叫に近い声色で海華の名前を呼ぶ桐野の声が庭一面に響き渡り、朱王は転がるようにして声の出所へと走ったのだ。




