第一話
「兄様見てー! すごい綺麗よ!」
人波を掻き分け、海華が桜へと走る。人にぶつかられるわ足を踏まれるわ、散々な目に逢った朱王はいささかうんざりした顔で妹の後を追った。今、飛鳥山は桜の盛り、満開の花を愛でようと江戸っ子達がわんさか押し寄せていた。
暖かな春風が吹き抜けるたび、木々は枝を揺らせて薄い花弁を青い空へと舞い上げ、それは優しい雨のように道を行く人々に降り懸かった。
「あまり走ると危ないぞ」
髪に花弁を纏わり付かせた朱王が、夢中で花 眺める海華の頭を小突く。
「ちゃんと気を付けてるわよ。兄様も、人ばっかり見てないで、ちゃんと桜見たらどう?」
花吹雪を浴びながら、黒い瞳を輝かすさまは、まるで幼い子供のようだ。朱王とて、人込みばかりに目をやっている訳では無い。はしゃぐ妹から視線を上にずらすと、重なり合って咲き誇る桜が視界一杯に広がった。命の限りに咲き乱れ、すぐに散りゆくこの花を、ゆっくり見遣るのはいつ以来だろうか。
見とれるように立ち尽くす朱王の横では、海華が口に飛び込んだ花弁を慌てて指で摘んでいた。
「おや、貴方達もお花見ですか?」
突然、二人の背中に声が掛けられる。振り向くと、こちらも体中に花を纏った香桜屋の主、伽南が穏やかな笑顔を見せていた。
「先生! お久しぶりです!」
彼の顔を確かめたと同時、満面の笑みで海華が答えた。朱王も破顔し、頭を下げる。
「先生もお花見ですか?」
朱王の問いに、伽南は緩く首を振って手にしていた包みを指す。
「残念ながら仕事の途中でして。それよりも、こんな人が多い時に朱王が出歩くなんて珍しいですねぇ。海華に引きずり出されましたか?」
はい、おっしゃる通りです」
苦笑いを見せる兄を睨み付けながら、海華は頬を膨らませた。
「引きずり出したなんて! 兄様約束したんですからね!」
「俺は夜に来ようと言ったんだぞ」
「夜桜はまた今度! 昼間の方が綺麗に見えるわよ」
他愛ない言い争いを微笑ましく聞いていた伽南は、何かを思い出したようにポン、と手を打った。
「そうだ、せっかくですから人の少ない穴場を教えましょうか」
「穴場、ですか?」
彼の台詞に朱王は小首を傾げて見せる。
「ええ、この先を抜けて少し行くと、板塀で囲まれた大きなお屋敷があります。その桜も、ここと負けず劣らず見事ですよ」
「本当ですか!? 兄様、行きましょ!」
急かすようにぐいぐいと袖を引かれ、朱王がよろめいた。
「わかった! 行くから! それでは先生、失礼致します」
「先生ありがとうございました!」
海華はペコリと頭を下げると、その屋敷を目指し一目散に走り出す。危ないから走るなッ! と叫びながら、海華を走って追い掛けて行く朱王を見て、伽南は笑いを噛み殺せないまま、二人の背中を見送っていた。
伽南の教えてくれた桜の穴場、目的の屋敷はすにに見付かった。黒い板塀が張り巡らされた大きな瓦屋根と、僅かに煤けた白壁の屋敷。周りは田畑が広がっており、二人の他に人はいない。
「先生が言ってた桜って、あれじゃない?」
海華は、塀の遥か上を指差した。六尺(百八十センチ)以上はある塀を軽く追い越し、白い花をみっしりと綿毛のように咲かせた桜が、重たそうに枝を揺らせている。二人は塀に近寄り、 真下からそれを眺めた。
「これは、凄いな」
圧倒的な桜の迫力に、思わず朱王が感嘆の呟 を漏らす。柔らかな日差しを浴び、光を反射した花弁は、それ自体がボンヤリ輝いているようだ。飛鳥山の桜並木も見事だが、こちらはたった一本でも充分見応えがあり、二人の目を釘づけにする。海華に至っては、もはや声も出せず見惚れる有様だった。
「あの、どちら様でしょうか?」
夢中で桜に魅入る二人に、戸惑いがちな声が掛けられた。はっとして視線を下へ戻すと、少し離れた場所に三十代位の女がポツリと立ち、いささか不審そうな眼差しでこちらを眺めている。
「うちに何か、ご用でしょうか?」
「ああ、いや……失礼致しました。桜が余りにも 見事なもので、つい――」
二人はおたおたと頭を下げる。すると、女の桜色をした唇が綻んだ。
「そうでしたの。驚かせて申し訳ございません。あの、よろしければ中でゆっくりご覧下さい」
「そんなご迷惑は……」
「迷惑だなんて。ここを訪ねて下さる方は殆どおりませんの。私も退屈していたところで……。よろしければお話し相手になって頂けませんか?」
ふくよかな頬に笑窪を作り、女が言った。風に散った花びらが、同じ薄桃色の着物を纏った女に舞い掛かる。
「ねぇ兄様、お言葉に甘えましょうよ」
兄を見上げた海華が、ちょこんと小首を傾げた。
せっかくの申し出だ、無下に断るのも悪いだろう。
「では……お邪魔させて頂きます」
また二人揃って頭を下げると、女は満面の笑みを浮かべ、二人を屋敷へと招き入れた。
その屋敷は、外から見たよりも何倍も広い物だった。
門を入ってすぐの前庭だけでも朱王達の住む中西長屋が二つほどスッポリ入ってしまう広さがあり、屋敷の半分を占めるであろう庭には、鶏が放し飼いにされている。母屋の他に離れが二棟、蔵が三つもある。 自分達の部屋より大きくて立派な物置を見て、 海華はポカリと口を開けたままだった。
二人は桜が全面に見える広間へと案内され、茶と菓子でもてなされた。屋敷の主は先ほど声を掛けてきた女、お六だ。ここは彼女の実家で、この辺り一帯の地主の家柄である。二十歳の時に婿をとったそうだが、早くに病死し、子供もいないと言う。
両親も旅立ってからは年老いた使用人夫婦と三人だけで、この広大な屋敷に住んでいるのだそうだ。
「あの桜は、家が建つ前からここにありました。花の色も、だいぶ白くなりましたわ」
肩に乗った花びらを摘み、お六は微笑んだ。
「古木の手入れは難しいでしょう? こんな綺麗に咲かせられるなんて、特別な事でも?」
「枝の手入れと、……一年に一度肥料を与えるだけなんです。質の良い物でないと、花がくすんだり花芽が少なくなりますから」
なるほど、と朱王は頷く。海華はと言うと、早速庭に出て隆々たる幹を撫で、落ちた花弁を拾い集めて遊んでいた。
「可愛らしい妹さんですねぇ。歳は離れているんですか?」
桜と戯れる海華を、目を細めて眺めながら、お六が尋ねた。
「五つ離れています。アレでも二十歳はとうに過ぎているんですが」
「あら、そうなんですか?」
驚いたように口元へ手を当てるお六。朱王にとっては何時もの事だった。童顔のせいか、海華はたいてい十五、六程に見られる。一番堪えたのは、一緒に街を歩いている時、仲の良い親子だと言われた時だ。
確かにあの時は徹夜で仕事を終えた後だったが、自分はそんなに老けて見えるのかと落ち込み、海華はそんな餓鬼に見えるのかと憤慨していた。
「あいつは外見もそうですが、やる事も子供じみていますから。ああ、アレには内緒でお願いします」
そう微笑みながら茶を一口含んだ時、ギャーッ! と言うけたたましい鳥の叫ぶ鳴き声が耳をつんざく。
「ヒャアアアっ!?」
それと同時に間の抜けた海華の悲鳴が同時に上がり、何事かと庭に目をやれば、体中の羽を一杯に膨らませて飛び掛かる威嚇状態の大きな牡の鶏に海華が追い掛け回されていた。
「何をやっているんだアイツは! ちょっと失礼!」
呆れ果てながらも、慌てて助けに走る朱王。鋭い爪を振りかざし蹴りを繰り出す鶏と大騒ぎで格闘する二人を見て、お六は目尻に涙を浮かべながらコロコロと笑い声を上げていた。




