第六話
「お前ッッ! 何をやっているんだ!」
海華の手から下がる血潮と同じ色をした組み紐、それを目の当たりにした刹那、朱王は我を忘れたように激昂した。もとより整った顔付、美男子と称される朱王の顔が夜叉般若の如くに歪む。しかし、海華はそんな彼に臆することはなかった。
「何をしてるかって!? 兄様と同じよ! 兄様が刀を持つなら、あたしだって!」
「バカな事……! お前、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
怒りを露わにする朱王と、興奮に頬を染める海華の視線が宙でぶつかり合い、見えない火花を散らす。まさに一触即発の状況、その空気を変えたのは海華の口からこぼれた一言だった。
「兄様にばっかり、つらい思いはさせたくないもの……」
悲痛に歪む顔、力を失った手から畳へと落ちた組み紐の先端には、磨き上げられた氷を切り出したかと思われる清い輝きを放つ金属の塊、ちょうど槍の先端を切り取った形の白銀が結び付けられていた。
「……俺の事は、いいんだ。そんな事を気にするな。俺はな海華、お前にはもう人を殺めたり、傷付ける真似は、絶対にしてほしくないんだ」
「そんなの一緒よ。あたしだって同じ事思ってる。兄様に人殺しなんかさせたくないわよ。あたしを守るために、刀なんか持ってほしくないわ」
今にも泣き出しそうに揺れる声。心底困った、そんな様子で深い溜息をついた朱王は、凭れていた壁から背中を離して海華を手招く。軽く上下する手に誘われるようフラフラ彼に歩み寄る彼女の足元では、無機質な凶器が冷たい光を放った。
「兄様……」
「いいから、ここに座れ。海華よく聞け、俺は修一郎様と約束したんだ、必ずお前を守るってな。お前には真っ当な道を歩いてもらいたい。だから……」
「兄様を犠牲にして、真っ当な道なんて歩けないわ。あたし達、ずっと一緒だったじゃない。ここで、一緒に寝起きして、ご飯食べて、仕事して……だから、これからも一緒よ」
泣き笑いの表情を浮かべて朱王の前へ崩れるように座り込む海華。そんな彼女の手を、朱王はゆっくり握り締めた。
「ここは上方じゃないんだ、修一郎様のお立場もある。何かあっても逃げられないんだぞ。ヘマをすれば、あっという間に打ち首だ」
「いいの、それでもいいのよ。兄様と一緒なら、打ち首でもいいの生きるも死ぬも一緒よ。抜け駆けなんて、許さないんだから」
わざとふざけた口調で言いながら、海華は朱王の胸に勢いよく飛び込み両腕を背中に回してきつく抱き付く。そう、江戸へ来てから、そしてその前からも二人は一緒だった。二人揃って泥水を啜る思いをしながら、今まで生き延びてきたのだ。
「そうだな、いつもお前と一緒だったものな。これからも、ずっと一緒だ」
きつく抱きしめ返してくれる朱王の言葉に、海華はきつく目を閉じガクガク頷く。小さな啜り泣きがこぼれる部屋の中で、表から差し込んだ白い光が畳にくねる組み紐を眩しいばかりに照らし出していた……。
事態が急展開したのは、修一郎が朱王の部屋を訪れてから数日後の事だった。『下手人らしき男が見付かった』と、海華が運ばれた自身番屋、柳町番屋の忠五郎親分が朱王と海華を呼びつけたのだ。取る物も取り敢えず大急ぎで番屋へ走った二人に、室内で煙管をふかしていた忠五郎は『まだ下手人だとは決まっていねぇんだが』と前置きしたうえで、その男の人となりを話し始める
北町奉行所、そして忠五郎らが目を付けた男は、本所に住まう旗本の次男坊、羽田 十太という男だった。旗本と言えど石高はさほどではない、修一郎に比べれば足元にも及ばないだろう家柄の次男坊は、とうに元服していながら勉学にも剣術にもまともに取り組まず、謂わば石潰しの昼行燈を地で行ったような生活を送っているようだ。
もとより机に向かうのを好まず、かといって剣術は『実際に人も斬れぬのに、真面目に稽古をして何の得があるのか』と嘯いて、ここ半年は全く道場にも姿を現していないという。そんな箸にも棒にもつかぬ男に、どうして疑いの目が向けられたのか……。それはここ数ヶ月、羽田家の周辺で犬や猫の惨殺死体が相次いで発見されていたからだ。
どれもこれも首を一刀両断の元に跳ね飛ばされ、ある猫は腹を掻き切られて臓物を道へとぶちまけられ、ある犬は生首をまるで置物のように生垣に置かれていた。子供の悪戯とは到底思えぬその惨い有様に、周辺の住人は夜歩きを控えていたそうだ。
「今、留吉たちが奴の家周辺で張り込んでんだがよ、当の本人は毎日毎日街中をブラついているみてぇなんだ。留から言わせるとな、誰かを探しているようだと」
「きっと、あたしを探しているのよ」
忠五郎の煙管から揺らめく紫煙をボンヤリと見詰めていた海華が、一度小さく身震いする。彼女の隣に座する朱王も、きっと同じことを考えていたのだろう、眉間に深い皺を刻ませつつ忠五郎が煙草盆に煙管を打ち付ける様を眺めていた。
「まぁ、俺もそう睨んでる。そこでだ、お前ぇたち……いや、海華ちゃんだったか。海華ちゃんに少し頼みてぇ事があるんだ」
「海華に頼みとは、一体何でしょうか?」
忠五郎の言葉にいち早く反応したのは、海華ではなく朱王だった。無意識にだろうこちらに身を乗り出す二人を交互に見遣り、忠五郎は胡坐をかいていた足を組み直す。
「奴が本当に白狐か、確かめてもらいてぇんだ。こんな事、女に頼むのは気が引けるんだが……白狐の声を聴いているのは海華ちゃんしかいねぇからよ」
「確かめる、って……海華にそいつと話せとおっしゃるのですか!?」
思わず朱王は声を荒らげる。その羽田とかいう男が本当に辻斬りの白狐か確かめる、それはすなわち嫌でも羽田の近くまで行かなければならないということだ。声を聴けとなれば、ほんの少しでも会話をしなければならない。もし、奴が海華を探しているのならば、そのまま斬り捨てられてもおかしくはないのだ。
「親分、いくらなんでもそんな危険な事を海華に……。他に手立てはないのですか?なんなら、私が……」
「止めてよ兄様! あの、親分さん。まさかあたし一人だけで行けって言うんじゃ……どこかで見ていてくれますよね?」
やはり不安が先に立つのだろう、上目使いで恐る恐る尋ねる海華に、忠五郎は大きく首を縦に振って答えた。
「勿論でぇ。守りはしっかりつけてやる。もし海華ちゃんが何かあったら、いつでも飛び出していけるようにする。頼む海華ちゃん。あの野郎が下手人だって証拠が欲しいんだ。でなけりゃこっちも手が出せねぇんだよ」
どこかすがるような目で海華を見る忠五郎。そんな彼をじっと見詰めた海華は、やがて固く唇を結んだまま、コクリと小さく頷いた。
「海華……」
「兄様、あたしやるわ。あたししかできない事なら、やらなくちゃ。親分さん、やってみます」
「そうかい! やってくれるか! いや、ありがてぇ!」
意を決したように口にした海華を前に、忠五郎の日に焼けた顔がパッと輝く。
「すまねぇな海華ちゃん、何しろ狐の声を知っているなぁ海華ちゃんだけなんだ。朱王さん、必ず海華ちゃんは無傷で返ぇす。男の約束だ」
そうキッパリ言い切った忠五郎に、朱王は渋々ながらも頷いて見せる。しかし、次の瞬間、彼は忠五郎を真っ直ぐ見詰めて膝の上に置いた手をきつく握った。
「わかり、ました。ですが親分、一つだけお願いしたい事があります」
「頼み? なんでぇ、言ってくれ」
「はい、私も親分たちに同行させて頂きたいのです。こんなじゃじゃ馬でも、たった一人の妹だ。こんな時ばかりは傍にいてやりたい……。だからお願いです、同行させてください」
真剣な眼差しでそう言い切り、畳に手をつく朱王を、海華は驚きの眼差しで見遣り、忠五郎は暫しの間考えるように無言となり、顎の下を指先で摩る。やがて彼は『わかった』と一言答え、その場から腰を上げた。