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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第九章 埋もれた記憶
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第二話

 表の異変に気付いたのは、寺の住職だった。夜中に突然響き渡った断末魔の悲鳴と後に続く人が走り去る足音。何事かと思って外に出ると、境内の奥で男が斬り殺されている。


 吃驚仰天びっくりぎょうてん慌ててその場を離れると、またもや悲鳴と共に何かが石段を転がり落ちる激しい者音が耳に飛び込んできた。境内を出た住職が見たものは、石段を駆け降りて行く人影だった。それが消えた後、恐る恐る石段から下を覗くと、周りの雪を血で染めた朱王が死んだように倒れていたのだ。

  

「小石川に運ばれたお前を見た時は、寒気がしたぞ。あの石段から落ちて、よく助かったものだ」


 修一郎がフゥ、と息をついた。今回は伽南も深刻そうな表情を隠さない。


「出血が酷くて一時はどうなる事かと思いましたが。意識が戻ってよかった。もう心配無いでしょう」


「そう、でしたか。ご迷惑をおかけして……」


 痛みに堪えるように眉を潜め、朱王が呟いた。


「なに、お前が悪いのではない。あの物盗りが全て悪いのだ」


 横に控えた都筑が、怒りに声を震わせる。


「あの辺りでは同じような事件が続いていたな? 時に朱王、お主、下手人の顔を見はしなかったか?」


 そう桐野が問い掛ける。 朱王は静かに、唇を開いた。


「何も、覚えていないのです。顔どころか…… 何故あの場所にいたのかも、わからないのです」


 修一郎の目が見開かれ、高橋と都筑が顔を見合わせる。忠五郎は渋い表情を崩さない。申し訳ありません。 小さく呟き睫毛を震わせる朱王に、海華はただ顔を伏せ無言で寄り添うしかなかった。



  





「記憶が消えてしまったのだと思われます」


 伽南が発した言葉に、修一郎以下全員が言葉を失った。朱王は伽南が飲ませた薬により、今は眠っている。各自の職場に戻る男達を、海華が外まで見送っていた。


「記憶が無い、となれば、もう下手人の顔は一生思い出せねぇって事ですか?」


 忠五郎が渋い面持で腕組みをする。


「いえ、何かのはずみで思い出す時もあると聞いてはおります。勿論、忘れたまま、という事も十分考えられますが」


 薬や治療でどうにかなるものではありません。そう付け加え、伽南が目を伏せる。 桐野は、顎を摩りながら困惑顔だ。


「朱王が助かった事は、既に瓦版で広まっておる。もし下手人が顔を見られたと知っていたら、面倒な事になるな」


 その台詞に海華が震え上がった。その下手人が、口封じに朱王を狙う、桐野はそう言いたいのだ。


「まさか家まで襲いに来るとは思わんが……」


「しかしお奉行、奴は既に三人を殺めております。いざとなれば何を仕出かすかわかりませぬ」


 高橋がオロオロ声で言った。もう、海華はどうすればいいのかわからない。兄が死にそうな目にあったうえ、いつとどめを刺しにくるかもわからない情況なのだ。その時、忠五郎が海華の肩を軽く叩いた。


「心配するな海華ちゃん。暫くはここに見張りを付けてやるから。朱王さんも怪我が良くなりゃあ何か思い出すかもしれねぇぜ?」


「そうだ、海華殿。我らも出来る限り力になる。何かあったら何時でも言ってくれ」


 そう言いながら、高橋が白い歯を見せた。

他の者達も力強く頷く。


「ありがとう、ございます……っ!」


 海華の大きい瞳から、ポロリと涙が零れ落ちる。

それは悲しみから来るものではなく、嬉しさ、感謝から出たものだった。




 



 

 朱王が怪我を負ってから一週間がたった。


 この頃にはやっと布団から起き上がれるまでにはなったが、まだまだ傷は塞がらない。海華はほぼ一日中家にいて献身的な看病を行っていた。どうしても出掛けなければならない時は同じ長屋に住む、『おさき』という老婆に時々朱王の様子を見に行ってもらうよう頼んでいた。


 この日も午後から海華は外出していた。朱王の仕事先、人形を依頼されていた家に納期を遅らせてもらうよう、頼みに行ったのだ。海華がいなくなると、部屋の中は一気に静まり返る。


 動き回る事も出来ないため、ただボンヤリと天井を見詰めているか、外から入る女の談笑や子供らがはしゃぎ回る歓声を聞きながら、微睡むくらいしかやる事が無い。


「朱王さん、入るよ」


 しゃがれた声と同時に、ゆっくりと引き戸が開けられた。そこにいたのは、つぎはぎだらけの着物を纏い、黄ばんだ白髪を結わえた老婆おさきだ。すっかり曲がってしまった腰を庇いながら、彼女は畳へと上がる。


「具合はどうだね? 飯は食ったのかい?」


「ああ、さっき海華と一緒に食べた。手間掛けさせて悪いね」


「なぁに、こっちは時間が有り余ってるさ。気にしないでおくれ」


 殆ど歯の無い口を大きく開き、おさきが掠れた笑いを上げる。


「なら、迷惑ついでに少し話し相手をしてくれないか? 暇で仕方ないんだ」


「ああ、いいよ。あたしも退屈してたところさ。どれ、茶でもいれようかねぇ」


 よたよたと立ち上がったおさきは、まるで自分の家にいるかのように茶の支度を始める。湯飲みも急須も、すぐ目の付く所に置いてあったのだ。朱王は静かに身を起こしたまま、おさきの手元を見詰めた。皺とシミだらけの、カサカサに粉を吹いた両手、海華のあかぎれはどうなったのか――?


「朱王さん、下手人とやらの顔はまだ思い出せないかい?」


 ぼんやり物思いに耽っていた朱王はその一言で現実に引き戻される。


「あぁ……まだ、わからないんだ。何とか思い出そうとしているんだが……」


「仕方ないやねぇ。こんな大怪我しちまったんだ。焦る事ないよ、あたしなんか昨日食べたモンも忘れっちまうんだから」


 湯飲みを手渡し、げらげら笑うおさき。 朱王もつられて微笑んだ。


「それよりも、海華ちゃんもよく働くねぇ。 昨日も新しく内職増やすんだって言ってたよ」


「海華が?」


「そうだよ。うんと稼いであんたにいい物食べさせるって。そしたら傷も早く治るってさぁ。手なんか傷だらけになって」


 彼女の台詞を聞き、黙りこくったまま朱王は茶に映る自分の顔を眺める。妹一人に、そこまで苦労を掛けさせている自分を、心底情けないと思ったのだ。


「でもねぇ、あかぎれに兄様が薬塗ってくれるんだって、嬉しそうに言ってさぁ。――あれじゃアンタもあの子、簡単に嫁へなんか出せないねぇ」


 そう言って、おさきが茶を啜る。どうやら以前にあった、お石とのごたごたを知っているような口ぶりだ。うん、と返した朱王は、些か照れ臭さそうに鼻の脇を掻いた。




  



「兄様ただいま!」


 嬉々とした声と共に海華が帰ってきたのは、もうすぐ日が暮れようとする頃だった。


「お帰り。寒かったろう。早く中へ入れ」


 そう言いながら朱王が火鉢に炭を投げ足し火箸で掻き回すと、赤々と火の粉が舞い踊る。


「雪は降らないけど、冷えるわ。そうだ、これ見て!」


 顔を輝かせて海華は手にしていた包みを開く。出てきたのは、艶々と白く輝く卵が五つ。


「どうしたんだ、これ? 買ったのか?」


「違うのよ。納期を遅らせてほしいって大橋さんの所にお願いに行ったの。そうしたら、兄様に食べさせなって、頂いちゃった。人形も後からでいいって。皆、心配してたわよ」


「そうか、有り難い」


 ホッと胸を撫で下ろす朱王。どうやら相手先には理解を得られたようだ。寒さに赤く頬を染めた海華は、休む間もなく夕餉の支度に取り掛かる。腕によりをかけて作った夕餉を二人で食べ終え、片付けも早々に済ませた海華は朱王の身体を拭くために小さな桶に湯を移した。


「おい、そこが終わったら、手を出せ」

 

 背中を拭かれながら朱王が言った。


「薬塗るの?あたしまだやる事があるから……」


「今夜は早く寝ろ。お前、夕べも遅くまで内職してたろう?少しは休め」


 ばれてたか、というような表情を浮かべて海華は新しい寝巻を兄の背中に掛けた。固い石段を転げ落ちるた身体は、黒い内出血が全身に模様を描いている。海華は渋々薬の容器を手に取り、着替え終わった兄へ手渡した。


「ちょっとは良くなったか?」


「今日は一回も切れてないわ。この薬、効くみたい」


 朱王があの日、伽南から貰った薬だ。良くなった、とは言ってもまだまだ傷はパックリと口を開いたまま赤い肉が覗いている。


「お前には、苦労掛けるな」


 薬を塗り込みながらポツリと朱王が零す。一瞬、目を見開いた海華だが、すぐに目尻を下げた。


「いいのよ。苦労だなんて思ってないわ。それに、兄様一人くらいあたしだって養えるわよ」


「大きく出たな。なら、暫く養ってもらうか」


 二人の笑いが部屋に響く。すると、トントンといささか遠慮がちに戸口を叩く音がした。


「はい、どなた?」


 海華が答えると戸口が静かに開き、暗い面持ちの忠五郎が姿を見せる。


「親分!どうしました?」


 朱王が呼び掛けると、おう、と短い返事をした忠五郎は土間に足を踏み入れ上がり口に腰掛けた。


「朱王さん、海華ちゃん、悪りぃんだが見て欲しいモンがあるんだ」


 いつもの威勢のいい声が、今日はやけに暗く沈んでいた。一体何があったのか? 同じ疑問を胸に顔を見合わせる二人に、忠五郎が懐から瓦版を取り出す。それを読んだ瞬間、二人の顔から笑みが消えた。


「何?何よ、これ……」


 満足に口もきけない海華が、瓦版を持つ手を小刻みに震わせ、朱王は忌々しそうに小さく舌打ちをする。それには、寺であった事件の犯人は朱王ではないかと書かれていたのだ。住職に目撃され、慌てて石段を下る途中で足を滑らせた、今まであった同様の事件も朱王が関わっているかもしれない、と。


 唯の噂なんだがなぁ。そう言って忠五郎がため息をつく。海華は瓦版をグシャリと鷲掴み、弾かれたようにその場から立ち上がる。そんな彼女の左手を、瞬時に朱王が掴み取った。


「おい、どこに行く気だ!?」


「版元の所に決まってんじゃない! なんでこんな嘘書いたのか締め上げてやるわっ!」


 こめかみに青筋を浮かべ悪鬼羅刹の表情で海華が喚く。朱王は、怒り狂う妹の手を引っ張り無理矢理座らせた。


「そんな騒ぎを起こしてみろ! 親分達が困るだけだっ!」


 でも、と反論しかけた海華の横から、親分が口を出した。


「海華ちゃんよ、こりゃあ真っ赤な嘘には変わりねぇ。だがな、噂の出所ってぇのは必ずあるはずだ。俺達はそこを探る。この件は俺に任せてくれ」


 いつになく真剣な声色で話す親分の顔をじっと見詰めた海華が、蚊の鳴くような声で、はい。と返した。


「そうか。ああ、もう一つ報せなきゃならねぇ事があるんだ。昨日、また一人殺られた」


 その台詞に朱王が息を飲む。殺されたのは集金を終えて帰る途中の手代だというのだ。しかも、今回は目撃者がいた。襲った相手は三人組みの侍らしい。


「侍……ですか」


 そう言われても、まだ朱王は何も思い出せなかった。 ただ、頭の傷がズキズキと疼く。無意識に包帯へ手をやった朱王を見て、忠五郎は腰を上げた。


「無理させて悪かったな。じゃあ俺は帰るぜ。 この長屋周りは、番屋の者と高橋様達が交代で見張ってるから、安心しなよ」


 ありがとうございます、と兄に変わって礼を述べる海華。その声は弱々しいものだった。


「なに、いいんだ。それから二人共、この辺りの人間はアンタが下手人だなんて思っちゃいねぇぜ?そこの蕎麦屋の女将なんざ、瓦版振り回して怒り狂ってたからな」


 そう言い残し、忠五郎は部屋を出ていった。彼の姿が見えなくなってから、海華はゴシゴシと両目を擦る。その頭を、朱王の大きな手が撫でた。


「兄様、悔しくないの?」


 涙声で海華が問う。


「悔しいさ。だがな、無責任な噂で腹を立てても仕方無いだろう。俺が無実と信じてくれている人もいるんだ。それだけでも有り難いさ。人の噂も七十五日だ。時期に忘れられるよ」


 もう寝よう。朱王がそう言うと、海華は無言で頷き自分の布団を敷きに向かった。

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