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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第九章 埋もれた記憶
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第一話

「痛ッ……!」


 夕餉が終わり、洗い物を片付けていた海華が顔をしかめてビクリと肩を震わせる。食事を済ませ、奥で酒を啜っていた朱王が土間に立つ彼女へ視線を投げた。


「どうした?」


「いや、ちょっとね」


 口ごもりながら答え、布切れで手を拭う海華。水で濡れた布には、うっすらと血が滲んでいる。


「また切れたのか?」


「治りかけてたんだけど……」


 布で両手を包んだまま海華が鏡台に向かい、手の取れかかった引き出しから小さな軟膏を取り出した。身を切るように水が冷たくなる季節、炊事洗濯、草鞋わらじ編みといった手を酷使する仕事が多い海華は毎年のように霜焼け、あかぎれを作っていた。 酷い時には指を動かすのも辛いほど酷く腫れ上がるのだ。


 その度に軟膏やら油を塗るのだが、結局水がぬるむまで改善したためしは無い。


「貸せ。塗ってやるから」


 そう言ってその場から腰を上げた朱王が軟膏を受け取る。正面に座った海華が、まだ血の滲む両手を差し出した。


「毎日塗ってるのに、ちっとも良くならないわ」


「表面だけに塗りたくるからだ。こういうのは、擦り込まないと意味が無いよ」


 そう言って、海華の両手にたっぷりと軟膏を乗せ、手の甲全体から指先、手の平へと揉み込むように塗り広げていく。傷口にしみるのか、海華は僅かに眉をよせて口元を歪めた。


「痛むか?」


「少しね」


「もうちょっと我慢しろよ。それよりお前、随分手が乾燥してるな。しっかり薬、付けているのか?」


「う……ん。勿体ないから少しづつ」


 バツが悪そうにチラリと視線を反らし、首を竦めて見せる。今度は朱王の眉がしかめられた。


「何が勿体ないだ。薬ぐらい、いくらでも買ってやる。早く治せよ?」

 

「うん……ありがと」


 照れたように顔を赤くする海華。朱王の手で温められた軟膏が、柔らかく傷に染み渡っていく。


 何時もなら簡単に済ませてしまう手当ても、彼にして貰うと安らぎの時間に変わる。海華はひそかにこの時を楽しみにしていたのだった。


挿絵(By みてみん)



 とっぷりと日が暮れた戌の刻、朱王が伽南の庵から姿を現した。ヒュウ、と音を立て身を切るように冷たい風が髪を乱すと、彼は思わず着物の襟を掻き合わせ、羽織りの中に手首を隠した。


「今夜は一段と冷えるな」


 首を竦めながら帰路へ着くため歩みを進めだす。

庵からの帰り道、その途中で大きな寺の前を通るのだが、そこの中を抜ければ多少の近道になるのだ。

しかし、夜ともなれば明かりが少なく人気も無い寂しい場所だ。


 いくら朱王とて好んで通る所ではない。だが、今頃あかぎれの痛みに堪え、草鞋を編んでいるであろう海華の事を考えると、一刻も早く帰って調合されたばかりの薬を塗ってやりたかった。


「化け物がでる訳でもないか」


 石段の前でしばし躊躇していた朱王だったが、意を決したように石段へと進んで行く。数十段ある石段を昇り切り、朱王は白い息を吐いた。後は、境内を抜けてしまえばいいだけ、ザクザク雪を踏み締めて歩いていると、不意に男のものであろう、複数人が言い争うような声が耳に飛び込んだ。


 酔っ払いが喧嘩でもしているのだろう。そう思い、気にも止めずに立ち去ろうとした、その時だった。


「なにをするんだっ!止めろ……ギャ ―――ッ!」


 尋常ではない叫びに、朱王の顔色が変わった。足は自然に悲鳴が上がった方向へ向いている。よくよく目を凝らせば、暗闇に塗り潰された境内の奥に、行灯が一つだけボンヤリと灯る場所があった。


 柔らかな光に、数人の人影が照らし出される。地面に倒れ伏し、ピクリとも動かない男と懐をまさぐり、傍らに散らばる荷物を漁る三人の影。倒れた男の周りは、雪が真紅に染まっていた。


 異様な光景に、朱王の足がよろめく。ザクリと踏み付けられた雪が鳴った。


「誰だっ!?」


 その物音に気付いた三人が一斉にこちらを振り返り、ぎらつく六つの目が向けられた。呆然とした朱王の瞳に写ったものは、懐を探っていた男の顔の左頬にはべったりと塗られたように、影のようなものが覆っているように見える。


「貴様――、見たな! 」


 怒号と共に男達がこちらに突進してきた。各々の手に握られているのは刀だ。弾かれたように今来た道を朱王は駆け戻る。当たり前だが、今は丸腰、狂ったように刀を振り回す男三人に、素手で立ち向かえる訳は無い。


 息を切らせて石段まで走り、後ろを振り返った瞬間、雪に足を取られて下駄がズルリと滑った。しまった、と思った時にはもう遅い。


「うわ……うわ―――っっ!」


 喉から絶叫をほとばしらせ、朱王の体が雪を巻き上げながら石段を転がり落ちる。大きく見開かれた目で最後に見たのは、星が瞬く夜空だった。









 グラグラと闇が揺れる。熱、痛み、光り……。 様々な感覚が津波のように襲い掛かった。霞が掛かった視界の中、誰かが自分を見下ろしている。


「朱王っ! わかるか朱王っ!?」


 聞き覚えのある野太い声が鼓膜を打つ。幾度か瞬きを繰り返すうち、その声の持ち主が誰なのかわかった。


「修……一郎、さま?」


 渇ききった喉から声を絞り出す。おお! と感嘆の叫びを上げ、視界いっぱいに広がる修一郎の顔が輝いた。同時に自分の周りが急に騒がしくなり、視界へ新たな顔触れが入り込む。激しく引き戸が開けられる音も聞こえてきた。


「気が付いたか朱王!」


「朱王殿っ!」


「朱王さん、大ェ丈夫かっ!?」


 次々と身を案じる呼び掛けが降り懸かる。桐野、高橋、忠五郎が心配そうな眼差しで自分を見詰めているのだ。一体何が起きたのか理解出来ない朱王は、周りを確かめようと頭を僅かに動かした。


 その途端、殴られたような激痛が電流となり全身を貫く。痛みに呻いた朱王を、修一郎が押し止めた。


「動くな。酷い怪我なんだぞ? 一歩間違えれば頭が割れていた」


 ……なぜそんな怪我を?


 痛みと疑問が入り交じる頭の中はすっかり混乱した状態だ。自分の身に何があったのか、そう問い質そうとした刹那、悲鳴じみた女の叫びが朱王の唇を止めた。


「兄様ッ!」


 ドカンと戸口をぶち開け、海華が転がり込んでくる。その後からは、伽南と都築が順に飛び込んできた。泣き腫らし、真っ赤に充血した目をした海華は、泣き笑いの表情で朱王を見る。


「よかった、気が付いたのね?」


「俺は、一体。――ここは、どこだ?」


「家よ? 兄様、お寺の石段から転げ落ちて……。早く手当てしなきゃ、死ぬところだったのよ?」


 ぐすぐすと鼻を啜りながら海華が言った。この後、朱王は修一郎の口から自分に何が起こったのかを詳細に聞かされる事となったのだ。

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