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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第一章 白狐
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第五話

 凄惨な夜が明け、世界が清らかな朝日に染め抜かれると同時に新しい一日が始まる。この日、朝餉も終わり早々に人形問屋へ頼まれていた品物を届けた朱王は代金として受け取った数両余りを手に一度長屋へと戻り、その後海華を連れて街へと繰り出した。昨夜約束した着物を買い求めに出掛けたのだ。


 この柄が素敵、この色も綺麗、そう言いながら店先に並ぶ色とりどりの反物、着物を品定めしていた海華だが、楽しげな表情を見せる一方で周囲の人混みに視線を向け、どこか不安げに、そして警戒するように落ち着かない様子を見せる時もある。明るく、何事もないように振る舞おうとしているのだろうが、やはり昨夜の恐怖や再び命を狙われる不安は拭い去れないのだろう。いや、まだ一昼夜しか経っていないのだから当たり前だ。


 ほんの少しでも他者と肩が触れ合おうものなら表情を強張らせ、息を詰めて朱王の手を力一杯握る海華、彼女を安心させるように声を掛け、片時も傍を離れない朱王も、いつ人混みに紛れて昨夜の人斬りが現れやしないかと落ち着かない状態だ。


「そうビクつくな、大丈夫だ」


「うん……。そうなんだけど、何だか気になっちゃって。兄様、今日はもう帰りましょう」


 苦笑いで朱王を見上げ、胸に抱いた風呂敷包みを強く抱き締める海華。彼女の持つ風呂敷の中身は、古着屋で買った普段着が一枚包まれている。


「そんな物でいいのか? せっかくだから、もっと良い物を新調すればいいだろうに。贅沢したってバチは当たらないぞ」


「これでいいのよ。新品なんて汚すのが勿体無くて着られやしないんだから」


 ニコニコ笑う海華に同じ笑みで応え、朱王は彼女と共に昼を済ませて長屋へ向かう。傾きかけた長屋門を潜った途端、自分達の部屋の前に人だかりが出来ているのを目にした二人は思わず顔を見合せその場に立ち尽くしてしまった。よくよく見れば、この長屋に住まう人々や大家夫婦までもが集まった人の群れの中にいる。わいわいがやがや口喧しく騒ぎ立てる人々、その中心にいたのは……。


「あら!? 修一郎様じゃない?」


 すっとんきょうな声を張り上げる海華に、集まっていた人々、そして彼らに囲まれる頭一つぶん背高の人物が、ほぼ同時にこちらを振り向く。


「おおっ! 朱王、海華!」


「修一郎様! どうなさったのですか?」


「ちょっと退いて! 退いてってば、一体何の騒ぎなのよ!?」


 人の壁を掻き分けて駆け寄る二人の姿を目にした侍……修一郎は、『助かった』と言いたげにホッとした表情を見せる。そんな彼と朱王、海華を交互に見遣っていた大家は眉間に深い皺を刻ませた。


「やっと帰ぇって来たかい。いやね、さっきからこのお侍様が、この部屋の前を行ったり来たりしておられたんでね」


「二人は留守ですよ、なんぞご用ですか? って聞いても、何だか曖昧な返事しか返されなくってねぇ。おかしいなぁ、変だなぁって思ってさぁ」


 斜向かいに住まう大工の女房が解 れ髪の張り付いたこめかみを掻きながら口を動かす。


「海華ちゃんの事もあったろう? もしかしたら、このお侍が白狐なんじゃぁないかって……」


「だから! 俺はそのような者ではないと、何度も申しておるではないか! この顔のどこが人斬りに……」


「でも、顔で人殺しをするわけじゃございませんでしょう? 」


 つぶらな目を瞬かせて修一郎を見詰め三軒隣の娘が発した一言に修一郎は耳まで赤くして黙り込んでしまう。どうやら、彼は海華の命を狙いに来た辻斬りだと思われているようだ。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! この方は、そんな物騒な人じゃありませんってば!」


「じゃぁ誰だってのさ?」


「私たちが以前からお世話になっているお武家様です。修一郎様、失礼をお許しください。どうぞ中へ……」


 このままでは埒があかない、そう判断したのだろう朱王は修一郎を強引に部屋の中へと押し遣り、大家らの対応は海華に任せてピシャリと部屋の戸を閉じてしまう。戸の向こうでは何やかんやと煩く聞きたがる住人らを前に、海華が必死に説明を繰り返している声がほとんど筒抜けで聞こえてきた。


「全く、お前たちの帰りを少し待っていただけなのに、いつの間にやら大騒ぎだ」


 いまだ顔を赤くした修一郎は部屋の中にドッカと胡坐をかくと海華の影が映り込む戸口を眼光鋭く睨み付ける。


「申し訳ございません、皆さん決して悪気があるわけではないのです。昨夜の件がありますもので、海華を心配して……」


「うむ……。まぁわからないでもない。それに、海華を案じてくれるのはありがたいことだ」


 慣れぬ手つきで茶の支度を始める朱王は、またもや小さく苦笑いし修一郎に軽く頭を下げる。彼の言う通りなのは修一郎もわかっているようで、もうそれ以上長屋の住人らの文句が彼の口から出ることはない。すると、『ご心配かけてすみません!』と甲高く裏返った叫びと共に勢いよく戸口が開き、頬を紅色に染めた海華が部屋へ飛び込んできた。


「あぁ、もうびっくりしちゃった! 修一郎様、本当に申し訳ありません。あんな失礼な言い方……さぞご立腹……」


「いやいや、もうよい。もうよいのだ海華。あの者らも悪気があっての事ではないと、今しがた朱王と話していたところよ。それよりお前、早くここに座れ」


 彼女を手招き、コホンと一つ咳払いをした修一郎の後ろでは、危なっかしい手つきで朱王が湯呑三つに茶を注ごうとしている。火傷でもされては大変だとでも思ったのだろう、海華は厳めしい顔つきの修一郎に小さく会釈してその場から腰を上げる。


「申し訳ありません、ちょっと……。兄様、あたしがやるからいいわ」


「そうか、なら頼むぞ」


 熱い急須を彼女に託し、再びこちらへ向かう朱王に、修一郎は一度唇を噛むように口を一文字に結び、居住まいを正す。


「どうだ、その……お前たち、少しは落ち着いたか?」


「はい、お陰様で、何とか」


「私もです。まだ、少し怖いんですけれど」


 湯気の立つ湯呑を一つ、修一郎の前に出した海華は照れ臭そうに軽く笑って肩をそびやかす。その様を見ていた修一郎は、湯呑を手にして『うむ』と小さな返事をこぼした。


「それは仕方があるまい。死ぬような目に遭ったのだからな。今日は……朱王に、話があってまいったのだ」


 彼の口から出た一言に、部屋の空気がピンと張り詰める。瞬時にぶつかる男二人の視線。外に出よう、そう言った修一郎をその場に引き留め、朱王は一人立ち上がると 部屋の隅に置いていた長持ちへ歩み寄る。彼が長持ちの中から例の包みを取り出したのを目の当たりにした海華の顔が、みるみるうちに蒼ざめた。


「兄、様……? ちょっと兄様!? 何をする……」


「いいからお前は黙っていろ。修一郎様、昨夜のお話、受けさせて頂きます」


 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐ射るような眼差しを送ってくる朱王に、悲しいのか、はたまた苦しいのかわからぬ複雑な表情をつくった修一郎は、無言のまま頷く。


「そうか、受けてくれるか。お前には無理を言ってすまないと思っている。しかし事が事だ。堪忍してくれ。今日は、ぞれだけ聞きたくてまいったのだ」


『邪魔したな』そう一言残し、もう一度茶に口を付けて、修一郎はおもむろに立ち上がる。何か言いたげに唇を戦慄かせこそ意を浮かす海華を咄嗟にその場へ押し留めて、朱王は修一郎を見送るためともに表へと出た。


「海華の前で、よかったのか?」


 長屋門の手前まで来た時、振り返りざま修一郎が尋ねる。小さく頷き部屋の方を振り返った朱王は、どこか儚げな笑みを見せて足を止めた。


「いずれ、話さなければならぬ事です。隠し通せはしないでしょう」


「そう、だな。海華の事だ。下手に隠し立てすれば、また一騒ぎするやもしれぬ。朱王、もしも何かあれば、すぐ俺に言え、よいな?」


「承知致しました。修一郎様、お手数をお掛け致します」


 深々と一礼する朱王、その肩をポンと一度軽く叩き、修一郎は大きな体躯で長屋門をくぐる。朱王の後ろでは、奇妙なお侍が帰るのを見届けているかのように、大家の女房達が井戸端からこちらを眺めていた。重苦しい空気を纏いつつ部屋に戻る朱王が色褪せた戸口を開いた途端、矢のように鋭い海華の視線が突き刺さり、思わず土間で足を止める。


「―― 今の話、どういう事なの?」


 押し殺した低い声色を出す海華は上がり框に正座した状態で真正面から朱王を睨み据える。こちらに向けられる鋭い視線、それを生み出す黒曜石の瞳は微かに潤み、怒りを通り越して深い哀しみを湛えているよう朱王には見えた。


「答えてよ。どうしてまた、アレが出てくるの? 修一郎様に何を言われたの? ねぇ、あたしには離せない事なの!?」


「誰も話さないなんて言っていない。そう急かすなよ」


 次第に悲痛さを増していく海華の声。表に聞こえるほどの大声を出されてはまずい、そう瞬時に思ったのか、朱王は彼女の脇を通り抜け室内に上り込み、彼の定位置となっている作業机の前へ胡坐をかいた。


「お前を襲った輩はかなりの手練れだ。しかも、もう何人もを殺めている。こちらが丸腰では歯が立たん。だから……」


「もう一度刀を持てって、修一郎様から言われたのね?」


「お前を守るためだ。わかってくれ」


 苦虫を噛み潰した面持ちで呟く朱王は、項垂れた様子で深く腕組みをする。そんな彼を前にして、海華は弾かれるように立ち上がると、いつも仕事で背負っている木箱、人形の入っている木箱に飛びつき乱暴にその蓋を叩き開けた。そして、一心不乱にその中を引っ掻き回すと、何を鷲掴みにして素早く踵を返した。


「兄様が刀を持つなら、あたしだって……!」


 頬を上気させ、両眼をぎらつかせて朱王と対峙する海華。彼女の手からぶら下がる、目にも鮮やかな深紅の組み紐を見た刹那、朱王は驚きと困惑に大きく目を見開き、一瞬言葉を失っていた。

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