第一話
狭い部屋にドン、と置かれた丸火鉢、中では真っ赤に炭が燃え、上に乗せられた鉄瓶からは勢い良く湯気が立ち昇っていた。
その傍らで朱王は机に向かい、仕事に没頭している。 海華は数刻前、寒い寒いと縮こまりながら街へと出掛けていった。激動の秋が過ぎ、気が付くと、江戸は朝晩めっきり冷え込む季節に変わっていた。
「朱王さん! 海華ちゃんいるかい!?」
突如、甲高い女の声と、ドンドンと戸口を叩くけたたましい響きが朱王の耳に飛び込んでくる。
「はい、おりますよ。どうぞ」
その声を聞いて相手が誰だかすぐわかったのだろう、朱王は人形から顔を上げ、いささか面倒臭そうに答える。海華と同じく、寒い寒いと口にして入って来たのは、中西長屋の大家の女房である、お石だった。
「冷えるねぇ。海華ちゃんは? 仕事かい?」
火鉢に手をかざし、お石は隠れる場所など無い、狭い部屋を見渡して唇を尖らせた。
「今日こそは直接本人に問いただそうと思ったんだけどねぇ、朱王さん、あんた、ちゃんと話してくれてんのかい?」
舐めるような目つきで朱王を見るお石。ええ、まぁ。と、茶を濁し、反対に朱王が目線を反らす。火鉢の淵を指でなぞりながら、お石は盛大なため息をついた。
「海華ちゃんも、会いもしないうちから断ること無いのにねぇ。あの精次さんはいい人なのにさぁ、勿体ないよ」
「本人が嫌だと言っていますから、私が無理に進める訳にもいきません」
つらりとした顔で朱王が答える。精次、というのは、お石が海華の見合い相手にと奨めてきた男だ。
このお石、世話好きなのかただのお節介焼きなのか、事あるごとに朱王と海華の見合い話しを持って来る。今年に入ってもう八回目だ。都合がいい事に、海華が仕事に出ている間に来るので、彼女の耳に入る前に、朱王が全て揉み消していた。今回も見合い話しがある事すら、海華は知らない。
「嫌だと言ったってねぇ、あの子もアンタもいい歳なんだからさぁ。このままじゃあ、立派な男やもめと姥桜の出来上がりだよ?」
不満たらたらにお石が愚痴る。
「嫁をもらった所で、食べさせていけるほど稼ぎはありませんよ」
苦笑を漏らし、再び作業に戻る朱王。そうかい? いささか不服そうに言って、お石が立ち上がる。
「とにかく、海華ちゃんに伝えておくれよ? あんないい話し、そう無いからってさぁ」
そう言うだけ言って、お石はさっさと出て行ってしまった。戸口が閉まる音を確かめ、不機嫌な表情を現わ に朱王がポツリと零す。
『その日暮らしの小間物屋へ、嫁になんか行かせられるか』と。
「お仙が結婚する事になったんだ」
熱い茶を前に、惣太郎が嬉しさを隠しきれない様子で言った。ここは薬種問屋『香桜屋』の主人であり若隠居中である伽南の庵だ。用事を済ませたついでに、ふらりと立ち寄った朱王は、思い掛けなく、ここで再び惣太郎と再会したのだ。
彼は今、伽南の実家である薬種問屋で働いている。 陰間時代は長く伸ばしていた髪も、すっきりと月代が剃られていた。かじかんだ指を火鉢に翳していた朱王の顔にも笑みが浮かぶ。
「そうか、それは良かったなぁ。相手はどんな男なんだ?」
「同じ店の番頭だ。お互いに相思相愛の仲だったらしい。店の旦那が取り持ってくれて、とんとん拍子に話しが進んだよ」
「三太さんは私も顔なじみですが、働き者で優しい人ですよ。良い方と所帯を持てましたね」
伽南も、自分の事のように嬉しそうだ。
それでな、朱王さん。と、急に改まった態度で惣太郎が切り出す。
「お仙の嫁入り道具に、朱王さんの人形を持たせてやりたいんだ。あいつには、今まで兄貴らしい事は出来なかったから、せめていい物を揃えたいんだ。どうだろう、引き受けてもらえるかい?」
「勿論だ。精一杯、いい人形を造らせてもらうよ」
今度は朱王が満面の笑みを浮かべる番だった。このような依頼程ほど、造り手にとって嬉しいものはない。
「いや、有り難い!それで、前金は幾らくらい都合すればいい?」
「気にするな。俺と海華から、祝いの気持ちだよ。金は要らない」
その言葉に惣太郎が戸惑いの表情を見せた。
それもそのはず、朱王の人形は一度世に出れば、軽く十両、二十両、それ以上で取引される物もある。
だから余計に、金を払わずに頼むのは抵抗があるのだ。惣太郎の様子を見た伽南が、横からそっと助け舟を出した。
「朱王の気持ちですから、素直に受け取ってはどうですか?」
「そう……ですか? なら、そうしよう、かな。す まないな、朱王さん」
「いいんだ。めでたい事なんだから。時間がある 時は教えてくれ、打ち合わせがしたい」
「わかった。お仙にも声を掛けるよあいつの気に入った人形を造ってもらいたいからな。――あぁ、そうだ」
何かを思い出したように、惣太郎が声を上げる。
「今思い出した、海華ちゃんの事なんだが、少し前に若いお侍と歩いていたぜ」
「若い、侍?」
朱王の眉が僅かに上がる。そう言えば、と、伽南が後に続いた。
「私も一昨日見ましたよ。最初は何か因縁でも付けられているのかと思いましたが、海華も笑いながら話しをしていたので、そのまま通り過ぎたんです。……同じお侍ですかねぇ?」
小首を傾げる伽南を前に、口を真一文字に結んだまま、朱王がダンッ!と音を立てて立ち上がった。
その勢いに、思わず後退る惣太郎。
「惣太郎、悪いが話しは改めて。先生お邪魔致しました」
言うが早いか、朱王は二人の返事も聞かずに外へ飛び出し、風を切って走り去って行く。人影の消えた障子戸を見つめ、伽南が口を開いた。
「海華には、悪い事をしましたね」
「大事にならなきゃあいいですけど。後で恨まれるかなぁ?」
これから海華に起こるであろう事を想像しなが ら、二人は肩を竦めたのだった。
「へぇ、結婚するの、お仙さん」
くるくると瞳を動かしながら海華が顔を上げた。 手にした土鈴が、カラリと乾いた音を立てる。
冬は日が短いうえに、寒さが体に堪える。長々と外で商売も出来ないので、少ない稼ぎを補うため、海華は土鈴の色付けや草鞋編み等の内職を行っているのだ。
「同じ店の番頭だと。そこそこに大きな店だし、いい所に嫁いだな」
「本当よねぇ。惣太郎さんも一安心じゃない の?」
白い顔料をたっぷりと筆に含ませ、一気に鈴に塗り付けた海華も、己の事のように喜んでいた。
「ところでお前、一昨日と今日若い侍と会っていたと聞いたが?」
朱王が含みを持たせた言い草で聞く。
「うん、会ってたわよ」
返った答えは実にあっさりとしたものだった。
「相手は誰なんだ?」
「同心の高橋様。兄様も知ってるでしょう? いつも都筑様と一緒にいらっしゃる方よ」
同心の高橋、朱王の頭に、吉原の事件で対面した小柄な若侍の顔が浮かんだ。
「よくお芝居を見に来てくれるのよ。この間は、お団子ご馳走になっちゃった」
土鈴に可愛らしい鼠の顔を描きながら、海華は頬を緩ませる。
「あまりちょろちょろ付いて行くなよ。変な噂が立ったら、高橋様に迷惑が掛かるぞ」
僅かに苛立ちを滲ませて朱王が眉根を寄せる。どうもおもしろくない展開になってきた。おもむろに、机に向かって人形を組み立て出した兄の背中を見て海華がコロコロと笑った。
「人形廻しとお侍よ? どんな噂が立つっていう の。――噂と言えば兄様、あたしにお見合い話しがあったんだって?」
途端、朱王の手からコロリと人形の足首が転がり落ちる。『誰から聞いた?』振り返りざま、そう言いたげな兄の表情に、呆れ顔で海華は返した。
「お石さんから聞いたのよ。帰ってきてすぐに声掛けられてさ。もうびっくりしちゃった。兄様断ったんだって?」
「当たり前だ」
つっけんどんな態度で答え、朱王はそのまま机に向かい直してしまう。 海華は、握っていた絵筆を顔料の皿に置いた。
「断ってくれて良かったわ。あの精次とかいう 人、賭場で借金作って首が回らないらしいから」
再び、もの凄い勢いで朱王が振り返った。驚きのあまりか、瞳は一杯に見開かれている。
「そんな話しは聞いて無いぞ!? あんなに良い話しそうそう無いと……」
「お石さんだって、そこまでは知らなかったんじゃないの? それに、仲人さんの言う話しなんて、そんなモンよ。話がうまく纏まれば、それでいいんだから。 向こうにとっていい話しって事でしょう?」
あっけらかんと海華が言い切る。それに対して、怒りを隠しきれない朱王の眉間にますます深いシワが寄り始め、今はいないお石に向けて、ブツブツと文句を呟いている。
そんな兄を前に、笑いを噛み殺しながら海華は再び絵筆を手に取った。




