第四話
「俺は、あいつらの何を見てきたのだろうな……」
星が瞬く夜空に修一郎の呟きが消えていく。並び歩いていた桐野がチラリと修一郎に目をやった。
「二人が江戸に戻ってから、陰ながらに見守っていたつもりだった。実際には何も見えていなかった」
俺は馬鹿だ、そう呻いて己が爪先を見るように頭を垂れる修一郎に、帰った答えはなんとも残酷なものだった。
「そうだ。お主は馬鹿だ」
ぴしゃりととんだ桐野の手厳しい台詞に、修一郎はますます肩を落として大きな大きな溜息を吐き出す。
「いくら肉親だ兄妹だと言っても、所詮は己と別の人間だ。心の奥底まで全ては理解できまい。そんな事もわからぬお主は、馬鹿だ」
その言葉を受けた修一郎が弾かれたように顔を上げる。そして、ふっ、と表情を崩した。
「お主の言う通りだな。良かれと思って隠し通していたものの、全てが空回りだ」
「『鬼修』も、あの二人事となると形無しだな?」
腕組みをした桐野がニヤニヤと笑う。照れ臭そうに鼻の頭をかいた修一郎は、まあ な、と小さな返事をした。
「お主には兄妹共々世話になるな」
「なに、お主と儂の仲だ。細かい事な気にするな。それよりも、その泣きに泣いた顔で奥方の所へ帰る気か?」
「いや、心配されると困るわ。おぉ……いい物があるぞ」
バチリと自分の頬を叩き、修一郎が遠くを指差す。暗闇にポツリと灯る屋台の赤提灯が二人を誘うかのように秋風に揺れていた。
「今夜は奢るぞ」
「うむ、ではありがたく」
お互いの顔を見合わせて笑みを零すと、二人は提灯に向かい歩き出した。
修一郎と桐野が去った後の長屋には、放心状態で座り込む朱王と、同じく兄に寄り掛かったままの海華だけが残された。
「いろんな事が一気にわかったわね」
乾ききった唇を舐め、海華が呟いた。
「ああ、でもまだ、お前に話していない事があるんだ」
のそりと身を起こし、朱王は海華の前で座りなおす。
「なに? もう何を聞いても驚かないから」
海華は涙で乾いた頬を僅かに緩める。静かに朱王が頷いた。
「そうか、なら話す。俺達を産んだ女の事だ」
朱王の口から出た言葉を聞いた、海華の睫毛が震える。
「俺も、顔はよく覚えていない。遊郭を出るまでに数回しか会わせて貰えなかったんだ。名前は、お葉。八ツ葉と名乗っていた。遊女だったのはお前も知っているだろう? 父上様は、客として来て、やつ……いや、母さんを見初めた」
「一応、見初めたのね」
両親の馴れ初めを初めて聞いた海華が、フフッ、と小さな笑いを漏らす。
「父上様は毎日、母さんに会いに来ていたらしい。母さんも、父上様以外の客は無理を言って断っていたと。そうしているうちに、俺達ができた。母さんが死んでから、俺は陰間茶屋に売られる事になったんだ」
朱王が目を伏せ、反対に海華は目を見開く。そんな事、彼女は全く知らなかったのだ。
「お前は女だから、成長すればそのまま遊女になる。俺は売る以外に使い道はない。それを聞いた父上様は、大金をはたいて俺達を吉原から連れ出したんだ。お静様に怨まれるのも全部わかったうえで。正直、嬉しかったし感謝もした。 二人揃って色街から出られるなんて、考えもしなかったからな」
産まれた時から紅格子の内側にいた朱王は、色街以外の世界を知らなかった。
「初めてお静様に会った時、嫌な予感がした。 兄上様にはとても言えないが、遊郭の女達と同じ目をしていたんだ」
「同じ目?」
そうだ、と朱王が呻く。
「お前はまだ小さかったから何もわからなかっただろうが、あそこは女の牢獄だ。物のように売られ、買われ、弄ばれて、客が取れなくなれば容赦無く棄てられる。表は華やかだが、裏は地獄。女達の目にあるのは、哀しみと怨み。好いた男とも一緒になれない、絶望だ」
海華は返す言葉も見つからず、ただ朱王をじっと凝視する。
「お静様は何事も無いように俺達の面倒を見てくれた。不思議だったよ。だから、暴力が始まった時は、来るべきものが来た、と思った」
残り僅かな蝋燭が煤を放ち、二人を照らした。
「あたし達の事、憎んでたのね。仕方無いか、お静様も人間、一人の女だもの。でもね、兄様」
くしゃりと泣き笑いを浮かべた海華のめじりから、新たな雫がこぼれて頬をつたう。
「お静様にいくら憎まれていても、本当に短い間だったけど、あたし幸せだったのよ」
寡黙な父。優しい母と二人の兄。刹那だが、幸せに満ち溢れた一つの家族の姿があった。
「そうだな……俺も、同じだよ」
そう言って、朱王は微かに微笑んだ。ジリジリと蝋燭が燃え尽き、辺りが闇に包まれる。
「今日は、良く眠れそう?」
「ああ、きっと……眠れるさ」
二人の会話が静かに響く。外からは虫の音だけが聞こえていた。
風に揺られ、手招きを繰り返す薄。朽ちた墓石が立ち並ぶ荒地、朱王は再び夢の中で立ち尽くしていた。血に染まった帷子を纏ったお静がニヤニヤと笑う。以前と違うのは、海華が骸になっていない事、彼女はお静と無言で向かい合っていた。
「海華を、返して下さい」
吹き荒れる風に朱王の黒髪が巻き上げられた。
「ならぬ。報いを受けるがいい」
歯軋りをしたお静がそう吐き捨て、血の気の無い腕を海華に向けた。咄嗟に引き離そうとしたが、地面に根が生えたように身体が動かない。
「母上様……」
消え入りそうな声が海華から漏れる。お静の手が、彼女の顔の前でピタリと止まった。
「今は、行けません。兄様と、共に生きると決めました」
その刹那、お静の血走った両目が、カッと見開かれ、鋭い眼光が海華に突き刺さる。同時に、伸ばされていた腕が肩辺りから、ゴトリと重い音を立てて地面に落ち、足元から紅蓮の焔が噴き出し、ギャアッ!! と、お静が金切り声を張り上げて叫んで、その炎から逃れようと激しく悶え始めたのだ。
「必ずそちらに参ります。それまでお待ち下さい。いつか……地獄でお会いしましょう」
火に焼かれ、土くれの如く崩れ落ちるお静。それを見届けた海華は、ただ呆然と立つ朱王に向かって振り返る。
「兄様、帰りましょう」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。
急激に浮上する意識、はっと気が付くと、シミだらけの天井が目に入る。そこは、己の長屋。
夕べは知らぬ間に眠ってしまったらしい。むくりと身体を起こした時、カラカラと表戸が静かに開かれた。
「あ、お早う」
眩い逆光を背中に受けて、洗い米の入ったザルを抱えた海華が立っている。
「昨日は、うなされなかったわね」
海華の言葉に、朱王は小さく首を縦に振った。
「そうだな、悪い夢も見納めだ」
掠れた声で返し、さっさと布団を畳む朱王。光の帯が差し込む部屋には、ここ数日感じた事がない清々しい朝の空気が満ちていた。清廉な空気に包まれて二人は、憑き物が落ちたようにすっきりとした表情をしていた。
「なぁ、海華」
思い出したように、朱王が口を開く。
「なあに?」
「朝飯はまだか? 腹が減ったな」
久方ぶりに聞く台詞に、海華の目が輝いた。
「今すぐ作るわ、待ってて……待っててね!」
心底嬉しそうに叫び、海華は竈に駆け寄る。朱王も嬉しそうに、ああ、と返し、彼女の後ろを抜けて外に向かった。
冷たい朝の空気が肺に染み渡る。外に出るのはいつ以来か、朝飯の支度をする女達に挨拶し、晴れた空を見上げる。
澄み切った秋空が、どこまでも続いていた。
終




