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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第六章 修羅の追憶
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第三話 

「朱王はいるか? ……入るぞ」


中にいるだろう朱王へ一言声を掛け、修一郎は戸を開いて土間に足を踏み入れる。蝋燭の明かりが一つだけポツンと燈る狭い部屋には、奥の壁に凭れ掛かるように朱王が座っていた。


「朱王、おい朱王!」


 恐る恐ると言ったように部屋へ上がり、何度か呼び掛ければ、朱王はノロノロと顔を上げる。彼の顔を一目見た刹那、修一郎は事の重大さを思い知った。


油っ気を失いバサバサに乱れた黒髪、普段から細面ですっきりしたかんばせは血の気を失いゲッソリと頬がこけ落ち、目にした辺りは暗い陰を作りだしている。肌は死す人のように真っ白で目に光は無く、幽鬼の如く虚ろな眼差しが修一郎を捉えていた。


「修……一郎様? なぜ、ここへ?」


 覇気の無い声が闇に落ちる。


「海華に呼ばれたのだ、お前が、大変だと」


 そう言いながら、ふ、と横を見ると空の酒壷と茶碗が無造作に転がっている。修一郎は朱王の前に座すると彼の肩にそっと手を添えた。


「母が、出て来るのであろう?」


 静かな問いが鼓膜を打った刹那、朱王の痩せた体が戦慄いた。 細かな震えが添えた手から痛い程に伝わってくる。


「眠れないのです……。あの方が、お静様が海華を……海華を貰うと、あいつの首を、ッッ!」


 恐怖に詰まる声を発した朱王は深く頭を抱え込む。それと同時、修一郎の逞しい手が、肩を強く揺さぶった。


「しっかりしろ朱王っ! 母は、もういないのだ。遥か昔に死んだだろう!」


「だから、余計に恐ろしいのです!」


 窶れた顔を振り上げ、朱王が叫ぶ。思わず後ずさる修一郎は言葉を失ったまま朱王を穴が開くほど凝視した。


 「お静様は確かに亡くなりました、だから、いつでも私達の側へ来られるのです! 誰にも気付かれずに、お静様はいつでも……いつでも海華を奪っていける! 私には、それが一番怖いのです!」


 鬼気迫る表情、彼の頬に光るものが伝う。修一郎は力が抜けてしまったようにその場に座り込み、さきほどの朱王同様に頭を抱えて蹲る。兄妹を死後もここまで責めさいなむ母、自身の生みの親を、この時ばかりは心底憎いと思った。


 蝋燭の炎がフラフラ揺れる。微かな風の流れを感じて修一郎が後ろを振り返り戸口に目を向けると、いつの間に来ていたのか、土間には男女の二人連れ、桐野と海華が立っていた。


「奉行所の近くを泣きながら歩いていたのだ。 訳は、道すがら聞いた」


 勝手に畳に上がり込んだ桐野の背後で、土間に立ったままの海華が小さくしゃくり上げた。


「しかし酷い有様だな朱王。 海華殿が心配するのも無理は無い」


 半分呆れたように言った桐野へ、朱王は項垂れたまま何も答えようとしない。意を決したように、修一郎が口を開いた。


「朱王、もう潮時だ。これ以上隠してはおけぬ」


「なぜですか!? あの時約束したではありませんか! 一生話さぬ、あの事は絶対に他言しないと! それなのに、今更全てを話したところで……」


「いい加減にせぬか朱王」


 感情を高ぶらせ、腰を浮かして叫ぶ朱王を制するように冷静そのものの桐野の一言が放たれる。室内は、一瞬のうちに静寂を取り戻した。


「お前がこれ以上隠し立てすれば、その分海華殿が苦しむ事になるのだ。それに、海華殿には知る権利がある。その権利を奪う資格は、いくら実の兄であるお前にも無いのだぞ」


 ピシャリと放たれた桐野の一言を聞いた海華が、その場にワアッと泣き崩れる。それを見た修一郎は土間に降り、泣きじゃくる海華を抱えて室内へあげると畳に座らせた。


「朱王、独りで背負うには重すぎるのだ。お主は、もう堪えきれぬ」


 修一郎のものとは思えない酷く弱々しい声が、朱王の耳を掠めた。今だに涙が止まらない海華は、しゃくり上げながら朱王の側に歩み寄り、彼の隣へ崩れるように座り込む。


「海華殿は薄々感づいておる。ただ、お前からの答えが欲しいだけなのだ。悩み苦しむお前を見る事が、身を引き裂かれるよりも辛いと、そう申していたぞ」


 海華の気持ちを代弁する桐野の声に、二人分の啜り泣きが狭い部屋で重なった。


「お願いだから、教えて兄様。これ以上兄様に怖い思いをさせたくないの……」


 朱王の肩に顔を埋め、海華が呟く。彼女の体温を感じながら、やや乱暴に涙を拭ってひび割れた天井を仰ぎ見た朱王。その唇が静かに真実を語りだした。


「今まで、ずっとお前に嘘をついていた。修一郎様、いや、兄上様にまで嘘の片棒を担がせてしまった」


 壁から背を離し、朱王が正座する。四人が長屋に集まってからどれ位の時が過ぎたのか、じりじりと音を立てて燃える蝋燭が、すっかり短くなっていた。 朧気な明かりに引き寄せられたのだろう、斑目まだらめ模様の蛾が一匹、炎の上を飛び回る。


「俺が見たのは、お静様が刀を振り上げた時、海華が脇差しを抜いたところだ。お前は、そのままお静様にぶつかって……」


 消え入りそうな朱王の声、彼の台詞を聞いた途端、海華は軽い眩暈を覚えて素早い瞬きを繰り返す。彼女の頭にあの日の光景が十年越しに甦っていく。


ずっとずっと意識の奥底に埋もれていた記憶が、陽炎のように揺れつつ彼女の中で形を成していくのだ。


 そう、確かに彼女はお静に蹴り倒された時、咄嗟に近くにあった何かを握り締めた。それを持ったまま、朱王にとどめを刺そうとするお静を止めようと体当たりして……。


 「あれ、脇差しだったのね」


 泣き疲れ、精魂尽き果てたように海華が呟く。ぐったりと朱王に寄り掛かった状態の彼女を前に修一郎と桐野は無言のまま、朱王の話しを聞いていた。


「どうして、自分がやったなんて言ったの?」


「看病を受けている時は正直、俺の命は長くないと思った。どうせ死ぬなら全部背負って逝こうと思ったんだ。それなら、お前も人殺しにならずにすむと思って……」


 室内に満ちる一時の沈黙。


「俺が殺した事にして欲しいと、兄上様にお頼みした。秘密は墓の下まで持って行ってくれ、と。兄上様には、本当に申し訳ない事を」


 朱王の言葉が途切れたと同時、小さな自嘲が、海華の乾いた唇が漏れる。枯れ果てたとばかり思っていた涙が、新たに頬を滑り落ちた。


「兄様、馬鹿よ。人殺しだろうが何だろうが、そんなのどうでもよかったわ。兄様が生きててくれたら、それでよかったのよ」


 宙を飛んでいた蛾が焔に飛び込み、バチバチ乾いた音とを立ててあっという間に燃え尽きる。


「良かれと思って頼みをきいた。あんな約束しなければ良かったのだ。そのせいでお前達は、何年も母上の亡霊に怯えて――」


 体を震わせ、修一郎がガクリと頭を垂れた。涙を振り飛ばし、海華は激しく首を振る。


「兄上様のせいではありません! 私が悪いのです。全て、あの時の事を思い出せなかった、私が悪いんです」


 泣き腫らし、真っ赤な瞳が揺らめく。


「殺めた私が言うのは、おこがましいと思います。でも、私……お静様に、元に戻って欲しかった――。昔の、お優しい母上様に戻って欲しかったのです」


 全員の視線が、泣き腫らした海華の顔に集まった。


「私は……、産みの母の顔を知りません。乳を含ませてくれた人も、知りません。私の知っている母は、お静様だけでした」


 喉から掠れた声を搾り出し、海華が語る。


「お静様は優しいお方でした。遊びの相手をしてくれました、着物も着せてくれました。夜は、添い寝もしてくれました」


幸せだったあの頃を思い出したのだろうか、感極まり、ぐぅ、と声を詰まらせる海華の小さな背中を、朱王がそっと摩った。


「お静様が、大好きでした。本当にお慕いしておりました。殴られて、蹴られて……どうしてそんな事をなさるのか、全然わからなかったけど、父上様が亡くなられて、混乱しているだけだと思いたかった。すぐに、あの優しい母上様に戻られると信じていました!」


 畳に顔を臥せ、海華は声を限りに号泣する。そんな彼女を前にして、朱王も、修一郎も、隠すことなくボロボロと涙を零した。


「素直に殺されていれば、俺も海華も、こんな思いをする事は無かったんだ……」


 悲痛な声色で朱王が呻く。すると、今まで無言を貫いていた桐野が言葉を発した。


「それは違うな。お主らが背負うていた重荷を、修一郎に被せるだけだ」


 そう言って静かに立ち上がり、朱王達に歩み寄った。


「儂は、その場に居た訳では無い。だがな、お主ら三人とお静様は、一時、修羅になっていたのだ」


「修……羅?」


 大きく目を見開く朱王に向かい、桐野は頷く。


「そうだ、修羅だ。よいか、よく聞け。人は誰でも心に鬼がいる。普段は身を潜ませている、鬼だ。愛しい者を守る為には時に修羅にも鬼にもなるのだ。お静様を殺したのは海華殿ではない。修羅が出たのだ、鬼が、お静様を殺めたのだ」


 呆然と桐野を見上げ、その言葉に聞き入っている朱王と海華、修一郎は、ただ涙に咽ぶ。朱王を斬ったお静、お静を刺した海華、二人を助けようと、事実を隠蔽した修一郎。愛する者を想うがあまり、共に堕ちたのは悔恨の蟻地獄。


「十数年は長かったが、これで一歩進めるだろう」


 ニコリと歯を見せ、桐野は朱王の肩を叩く。ありがとうございます、そう繰り返し泣きながら頭を下げる兄妹の姿が、長屋の壁に長い影として映っていた。

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