第一話
目の前に広がるのは全てを飲み込む漆黒。その闇を引き裂くかのように朱王が走る。腕の中に泣き叫ぶ海華と大刀、脇差しをしっかり抱え、大きく見開いた目は恐怖に血走っていた。痩せ衰えた足裏を石が傷付け、皮が破れて血が滲む、しかし朱王の足は止まらない。痛みなんか感じている余裕など今の彼にはないだろう、その身体を支配するのは死の恐怖、そして大切な者を奪われる恐怖、ただそれだけ。すぐ後ろには一人の女の姿が迫っている、彼女は髪を振り乱し言葉にならない彷徨、奇声を上げて二人を追い掛ける。その手にはギラギラと光を放つ大刀が握られ、鋭い刃が空を切る鋭い音が耳元で響いた、次の瞬間。
「うわぁ――――っっ!」
痩せた身体を貫く衝撃、背後から襲う凄まじい痛みと熱。背中から夥しい量の血を吹き出しながら、朱王は抱いていた海華と共に激しく地面へと叩き付けられた。
「にぃさまぁぁぁ!」
自らも額から流血した海華が、必死に朱王の身体に縋り付く。しかし、ざっくりと背中の肉を裂かれ息も止まるかと思われる激しい痛みに襲われる彼は、返事をする事もままならない。すぐ側には、返り血で顔から胸元を深紅に染めた女が血の滴る刀を握り締めて立ち尽くす。『死ね』と、女はひび割れた唇から憎悪に塗り潰された呟きをこぼした。
「死ね、死ねばよいのだ、下賎の者共……。貴様らのせいで私はっ!」
眦をギリギリ吊り上げ、女の唇が怨みの言葉を次々と吐く。
「はは、うえさまぁ」
朱王の血に濡れ、怯えきった表情の海華が、目に涙を溜めて女を見上げた。
「黙れっっ!もう二度と、母と……母と呼ぶなあぁぁぁっ!」
己が髪を引き毟り、怒りに身体を戦慄かせた女 が、すがる海華を足で蹴り飛ばす。高く、高く掲げられた刃、その狙いは地面で泣き伏す海華だ。今にも意識を飛ばしてしまいそうな朱王の前で、血に濡れた刃が音を立てて振り落とされた……。
「やめろ―――っ!」
耳をつんざく叫びを上げ、朱王がガバリと起き上がる。ゼェゼェ肩で、いや全身で激しい息を吐きながら辺りを見回すと、そこは何の変哲もない屋の自室。月も隠れる真夜中だ。
「兄様!?」
尋常ではない声に、隣で寝ていた海華が目を覚ます。 彼女は急いで布団から出て蝋燭の明かりを燈した。柔らかい光りに浮かび上がった朱王は全身を汗で濡らし、小刻みに震えて顔は蒼白、全速力で走ったのかと思う程に乱れた呼吸。それを見た海華は全てを悟った。
「大丈夫? またあの夢?」
「ああ……。ッッ!」
僅かに顔を歪め、朱王の手が無意識に背中へ伸びる。海華は側にあった手拭いを持ち、水で濡らして戻ってきた。
「痛むんでしょう? 冷やすから、脱いで」
汗に湿った寝間着を上半身だけ脱いだ朱王の背中に廻り、海華が悲痛な表情を浮かべる。雪原のように白く、適度な筋肉がついた背中にべったりと張り付く赤黒い刀傷が彼女の目の前に現れた。半分程は髪に隠れているが、右肩から左の腰まで走るそれは、熱を帯び、それが疼痛を生みだしている。傷の通りに手拭いを当てると、ほぅ、と小さなため息が朱王の口から漏れた。
「どう? 落ち着いた?」
「ああ、気持ちが良い……いつもすまないな」
「いいのよ」
泣きそうな顔で海華が答える。傷の熱が取れたのを見計らい、背中全体の汗を拭い去った。
「また、嫌な時期がきたわね」
「そうだな」
二人の声はどこか暗く沈んでいる。秋も深まり、夜の空気が冷たくなる頃、決まって朱王は悪夢にうなされて跳び起きる日が続くのだ。そんな時は決まって背中に追った傷が熱く疼くため、海華が手当てを行っている。そんな彼女もまた、同じ痛みを感じているのか時に涙ぐう事さえあった。
「後は自分でやるよ」
そう言った朱王に手拭いを渡すと、海華は部屋にある衣装箱を開けた。
「これ、新しい寝間着ね。湿って気持ち悪いでしょ?」
「ありがとう。もういいから、お前は寝てろ」
うん、と返して布団に潜り込み、海華はゴロリと朱王に背を向ける。
「――ねぇ、兄様」
戸口の方を向いたまま、海華が口を開いた。
「なんだ?」
「毎年言ってる事だけど、兄様は何も悪くないのよ? いつまでも夢に出て来るあの人が……」
「海華」
彼女の話しを遮った朱王は無言のままゴシゴシと顔と体を拭き、手拭いを放る。
「みなまで言うな。誰が悪いという訳じゃ無いさ。あの時は、ああするしか無かったんだ」
海華の布団から、ぐすりと鼻をすする音がした。 それからは寝間着を着替える、布が擦れるような音だけが静かに響く。フッ、と朱王によって蝋燭の明かりが吹き消された。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
秋の夜が更けていく。二人の静かな寝息だけが、部屋を支配していった。
あの悪夢から数日後、日も暮れかけた頃に、兄妹は突然修一郎の邸宅に呼び出された。一体何事かと、二人は修一郎の元へ飛んで行った。邸宅に着くと、玄関には修一郎自らが出迎えに立っていた。
「おお、よく来たな。待っていたぞ。いきなり呼び付けてすまなかったな」
「いえ、それよりも、何か急ぎの御用が……?」
いつになく固い表情の朱王に、笑修一郎は笑いながら頭を横に振る。
「いやいや、先ほど野が上等な酒を持って来たのだ。せっかくだからお前達もどうかと思ってな」
大きな体を揺らせて修一郎が笑う。 彼の返事を聞いて、二人はホッとした表情で微笑んだ。
「喜んで、御馳走になります」
朱王がそう返事をして軽く頭を下げると、修一郎は少年のような満面の笑みを浮かべて、早速二人を邸の奥の間へと通される。 そこには一人、庭を眺める桐野の姿があった。
「桐野様、ご無沙汰しておりました」
「これは、朱王。海華殿も。変わりは無いか?」
「はい、お蔭さまで。そのせつは兄様共々お世話になりました」
こちらを向いて穏やかな笑みを見せる細身の侍に、二人は畳に正座し、深く頭を下げる。 二人が揃って頭を上げたと同時に修一郎が部屋へと戻ってきた。
「皆、楽にしろ。今酒の支度を。雪乃! おい雪乃!」
邸宅に太い声が響き渡る。 奥では、なにやらパタパタと人が動き回る気配がした。しかし、すぐに『はい』と涼やかな返事が返り、小柄な女が一人襖を開ける。
「お呼びですか? あら、朱王さん、海華ちゃんも!」
二人の顔を見た途端、女の顔がぱっと華やいだ。
「奥方様。お邪魔しております」
朱王の声も幾分柔らかになる。愛らしい丸顔、すっきりとした目元をしたこの女は、修一郎の妻、雪乃だ。豪快な性格の修一郎に対し、雪乃は控えめで物静か、まだ子供がいないためか、海華を妹か娘のように可愛がってくれる。 朱王、海華も雪乃の優しさに惹かれ、彼女を姉のように慕っていた。
「雪乃、悪いがすぐに酒の支度をしてくれ。それから海華には……」
「お茶とお菓子でございましょう? お酒が呑めない事くらい、承知しております」
口元に手を当て、鈴が転がるような笑い声を出す。
「お手数おかけします」
恥ずかしそうに顔を伏せてしまう海華に、雪乃は微笑みながら軽く首を振った。
「いいのですよ。頂いた物なんですけれど、おいしいお菓子がありますから。桐野様も、どうぞごゆっくりなさって下さいませ」
「はっ、ありがとうございます」
桐野が会釈を返す。酒の支度はすぐに整い、三人は雑談を交えながら心底楽しそうに酒を酌み交わし、あっと言う間に幾つもの徳利を空にしていく。宴もたけなわ、海華は陽気な男達を眺めつつ、満面の笑みで菓子を頬張り茶を啜る。部屋に面した庭では、秋の虫達が賑やかに鳴き競っていた。 その合間、合間に奥から漏れ聞こえる人が急ぎ動く音に、海華は時おり視線を音のする方向、屋敷の奥へと続く襖へ向ける。
「何だ、もう無いのか?」
そう低い声で呟きつつ顔を真っ赤に染めた修一郎が徳利を振った。 朱王と桐野は酒が入る前と何ら変わらぬ様子だが、修一郎だけは茹で上がったような顔をしている。彼は雪乃、雪乃、と大声で妻を呼ぶと、今度は暫く間を置いて雪乃が姿を現した。
「酒を持って来てくれ。何やら奥が騒がしいが、どうしたのだ?」
修一郎の問いかけに彼女はかすかに眉をひそめた。
「あら、お忘れなんですか?」
雪乃がチラリと修一郎を睨む。
「明後日は母上様の命日ではございませんか、その用意をしておりますのよ?」
その瞬間、兄妹の表情が凍り付き、朱王の指先から空の猪口が転がり落ちた。
「そ、うか。いや、すまなかったな。酒はもういい。支度を進めてくれ」
慌てその場を取り繕う修一郎を横目で見ながら、桐野は無表情で猪口を口へ運んだ。
「修一郎様、申し訳ありませんが私共は、これで」
雪乃が下がってすぐ、震える手で猪口を拾い上げて朱王が言った。海華は完全に顔を伏せ、自分の膝を見詰めている。
「悪かった朱王、雪乃には」
オロオロと立ち上がる修一郎を、朱王が制した。
「いえ、奥方様に非はございません」
そう返し、朱王は海華の肩を軽く叩く。朱王に隠れるように立ち上がった海華は顔を伏せたまま修一郎、そして桐野に軽く会釈した。
「修一郎様、どうぞお気になさらずに。長々とお邪魔致しました。桐野様、失礼させて頂きます」
丁寧に礼を述べるも、青い顔をした二人は逃げるように部屋を後にした。 二人が部屋を出た、その途端、修一郎は、うう、と唸って頭を抱え、その場へドカリと胡座をかく。
「奥方殿には話しておらぬのか?」
最後の酒を飲み干した桐野が口を開いた。
「いつかは、と思ってはいたのだが、きっかけが見つからなかった」
「雪乃殿の事だ、二人をどうにかこの家に、と申すだろうな」
「同感だ。だがな、あ奴らは必ず断る。ここにも来なくなるだろう。繋がりが断たれる事が、俺は一番怖いのだ」
苦しげにつぶやく修一郎に、うむ、と桐野が一言答えて頷く。
「隠し通すという手もある。お主らにとっては辛い選択になるが、話せぬ以上はそれしかあるまい」
彼の小手場に小さく修一郎が頷いた。話すべきか、話さぬべきか……。酒精の廻った頭で懊悩する修一郎、虫の声がどこか物悲しく二人の耳に響いていった。
「海華、大丈夫か?」
カラカラといささか寂しげな下駄を鳴らして朱王が問う。うん、と消え入りそうな声で答えて、海華はゆっくり顔を上げた。
「あたしは大丈夫。それより……兄様こそ。酷い顔してたわよ?」
わざとおどけた口調で言いながら、コンッ! と海華の下駄が道端の石ころを蹴飛ばす。
「いきなりだったから、少しばかり驚いただけだよ。雪乃様に気付かれなかったから、まぁよかった」
「あんな事……知られたくないものねぇ」
悲痛そうな息をつき、海華は朱王を見上げる。
「兄様、お副さんの所ででも飲み直してきたら?」
海華なりの気遣いなのだろう、しかし朱王は『いい』と一言短く答える。
「いや、今日は止めておく。もう帰ろうか」
そう言って、くしゃくしゃと己の髪に指を絡ませるように頭を撫でる朱王に向かい、海華は唇をほころばせる。寄り添って歩く二人を照らし出すはずの月は、 既に黒い雲に隠れていた。




