第四話
草木も眠る丑三つ時、日本橋にある料理屋、長品の母屋から不規則な高鼾が障子越しに響いてくる。布団から足を片方突き出して眠りこける男の隣には、頭から布団を被った女が、これまたぐうぐうと眠っていた。
ペタッ、ペタッ、ペタッ……。
外に面した廊下から、濡れた足で歩く小さな音が、夜の静寂を破る。月明かりに照らされた障子には、フラフラと揺れながら進む黒い影が映し出されている。その影は男女が眠る部屋の前で止まり、カタカタカタ、と微かに木が軋む立てて障子が開かれた。
「う ――? 誰だい?」
物音 最初にに気付いた男が寝ぼけた声を出す。 途端、部屋中に充満した凄まじい悪臭に体を震わせた。
「――お前さん」
微かな声が鼓膜を揺らす。顔を上げた刹那、男は、うぉーっ! と天地を引き裂くような大絶叫を張り上げて、布団から転がりでた。
「なんだい!? ギャーッ!」
男の悲鳴に跳ね起きた女も、ソレを見た瞬間に悲鳴を上げて布団にペタリと座り込む。どうやら腰を抜かしたようだ。二人が凝視しているモノ、それは、バサバサの髪を振り乱し、どす黒く変色した濃紺の破れ着物を身につけた女だった。首には荒縄が絡み付き、体中から吐き気を催す腐臭が漂う。着物から覗く肌、はだけた肩や引きずる足は土気色で、所々は紫や緑色に変わっていた。
「お前さん」
ヌメヌメ光る黒い唇が言葉を紡ぐ。乱れ髪の間から、血走った目が現れ男を捉えた。
「お、お、お真紀! お真紀ッ!?」
男がガクガク震えながら唇を戦慄かせる。女はニタリと唇を吊り上げた。
「なぜあんな事――。お腹の、子まで――。酷い」
そう呟くと、女はギロリと腰を抜かしているもう一人の女へ視線を移す。
「お滝ぃぃ~。おのれ、よくもォォ……」
馬鹿のように口を開けたままの女に、腐れ果てた両腕を延ばす。畳の上へ、腐臭を放つ粘液がボトボトと滴り落ちた。
「ぎゃああああっ! うわ―――っっ!」
喉を破るかと思う程の絶叫を上げ、女はその場から弾かれるように立ち上がると障子へ向かって突進し、それをを体で押し破ると、素足のまま外へと転がり脱兎の如く逃げて行く。男も、何度も足を取られながら女の後を追った。大声で何事かを喚きながら。 一人部屋に残された女は黒い唇を再び、笑いの形に歪めていた。
真夜中に叩き起こされた長品の使用人達は母屋の惨状を見て息を飲み、そして一様に首を傾げた。廊下には、異臭を放つ足跡が点々と残され、主人の部屋には腐った内臓のようなものが点々と畳にこびり付いている。一体どうしたのかと主人……修吾に問うたのだが、なぜか真っ青な顔で何でもないと繰り返すみ。
女中頭であるお滝の様子も何だか変である。
悪夢でもみたのか、それにしても部屋についた腐臭や汚れは何なのだ?結局結論が出ないまま、長品に夜の帳が再び降りる。生きとし生けるもの全てが深い眠りに落ちるのを待っていたかのように、例の女は今宵も修吾とお滝の元に現れた。
廊下を渡る足音、鼻につく腐臭。ユラリと写った影が障子を開けようと手を延ばす。 しかし、障子にはベタベタと退魔の護符が貼付けられていた。
「お前さん、開けておくれ、ねぇ、開けておくれよ……」
女の指が障子の骨を弱々しく引っ掻く。 カリカリ、カリカリと鳴る音を聞きながら、修吾とお滝は布団を被って震えていた。
「開けておくれ!」
低い怒声が響き、バリッ! バリッ! と障子紙から黒い腕が突き出る。真っ直ぐに伸びた指先からボタボタと垂れる悪臭を放つ汚物は、畳に染みて黒いシミを作り出した。
「すまなかったお真紀ッ! この女が、お滝がやれと――!」
うごめく腕に向かい、修吾が手を合わせて土下座をしながら引っくり返った声で叫んだ。
「何言うんだ! あんたが、あたしと一緒になるからって! だから女将さんが邪魔だと言ったんだろッ!」
男と女の醜い言い争いが続く。ふいに、障子から生えた腕が、すっと消えた。安堵の息をつく二人。
しかし……
「私の子供を、返しておくれ――!」
ぽっかりと開いた穴から、腐り膨れた女の顔が半分覗いた。怨みに燃えながらギラギラ光る瞳、異様に白い歯をガチガチ噛み鳴らす音とともに、二人が座り込む布団のしたからガツガツと突き上げられるような振動が響く。裂けんばかりに開かれた女の口内から、煮凝りの如き真っ黒な血の塊がドロリと零れ落ちた瞬間、二人は白目を剥いて失神した。
次の夜も、その次の日の夜も、丑三つ時に女はやって来た。
修吾とお滝は見る影も無い程にやつれ果てている。元々ふくよかで丸顔だった修吾の頬は、ゲッソリとこけ、不精髭が生えたまま。充血した両目だけが気味悪くギラつき、よだれを垂らしながらブツブツと独り言を呟く。許してくれ、許してくれ、と。お滝も、血の気の引いた青白い顔で、はぁはぁ 荒い息をついていた。頭二人がこのざまだ、長品の使用人らはもう店を開けるどころでは無い。一体毎晩何が起きているのか、と何度も問い質すが頑として二人は口を割らず、夜間部屋の見張りをすると申し出ても首を横に振るだけだ。
そうこうしているうちに、異変は母屋から店にまで広がり、昼間天井裏を激しく走り回る足音が聞えたと思えば、男女のものか区別がつかない引き攣った笑い声が店中に響き渡る、店の裏手にある井戸の水が血のように真っ赤変わる、夕方、襤褸を纏い髪を振り乱した女が母屋の裏口に立っている等々、気味悪い現象が次々に使用人らを襲う。連日の怪異と気味悪い主人の様子に畏れをなした使用人達は、一人、また一人と店を辞めていった。
そして今宵も、吐き気をもよおす臭いと共に、女が部屋の前に立つ。なぜか、あの護符は綺麗に取り去られていた。
ゆっくりと、障子が開けられる。
「お前さん――。来ましたよ」
ニタニタ笑みを浮かべる女、その目が、修吾の手に握られた何かを見つけた。
「うがぁぁぁぁっ!」
人間とは思えない咆哮を上げ、修吾が弾かれたように立ち上がる。激しく戦慄く手中にあるのは、銀に光る出刃包丁だ。 彼は女に向かってその鈍色に光る凶刃をめちゃくちゃに振り回す。
ビュッ、ビュッ、と空気を切り裂き出刃が煌めく。 変色した顔に笑みを貼り付けたまま、風に流される如く女はそれをかわしていた。 修吾が暴れている間、お滝は逃げようと障子に駆け寄る。
「「お前、さん!」」
二つの声が重なった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ!」
ドスッ、と肉にぶつかる鈍い衝撃。仰向けに倒れる体に馬乗りになり、修吾は出刃を突き刺し続ける。
畳に、障子に飛び散る鮮血。痙攣を繰り返し、やがて血まみれで動かなくなった肉体。引き攣った、気の触れた甲高い笑い声を上げながら、何度も何度も何度も執拗に出刃を振り上げる修吾を後ろから見つめていたのは、黒く変色した顔だ。
自分が刺したのはお滝だと修吾が気付いた時、腐臭をまき散らす女の姿は跡形も無く消えていた。




