第二話
紅葉山で死体が出た昨日の騒ぎは、瓦版や人の口を通してあっと言う間に江戸中へ広がった。思い掛けず騒動に巻き込まれた兄妹も、一日過ぎれば元の生活に引き戻される。
この日、街へ出かけた朱王は人がごった返す道から脇にそれ、神社裏にひっそりと並ぶ小さな長屋前で足を止める。一番奥の部屋、その壁には、『かんざし 錺り物、幸吉』と粗末な板看板が掲げられていた。
「邪魔するよ。幸さんいるかい?」
中に向かって声を掛ける。すぐに『奥だよ』と、くぐもった声が返り、日用品で雑然とした室内に朱王が足を踏み入れた。薄暗い部屋中で一カ所蝋燭が明々と灯る場所に目が行った。そこには一人の男が背中を丸めて座り込んでいる。朱王はそのまま室内を縦断して、男の隣に腰を下ろした。
「なんだ、朱王さんか。納期まではまだ日にちがあるはずだぜ?」
かんかんかん、と金属を打つ高い音が止まり、長めの髪を無造作に束ねた男が顔を向けた。
「いや、催促に来た訳じゃ無いんだ。ちょっと聞きたい事があってな」
そう言いながらも、朱王の目は作業台の上へ行く。
「それ、頼んでいた飾りだろう?」
「ああ、ちょうどいいや。こんな感じでいいか、確かめてくれよ」
男の指が台に置かれた物をつまみ上げ、朱王に差し出した。爪楊枝よりも小さい飾り簪。、細かい部品を組み合わせて藤の花が形作られ蝋燭の光を受けてきらきらと輝く。その繊細さと美しさに思わず感嘆のため息が漏れた。
「上出来だよ。やっぱり細かい飾り物は、幸さんに限るな」
「そう言われると俄然、やる気が出るぜ」
嬉しそうに頭をかきながら男が笑った。目の前にいる人の良さそうなこの男は、錺り職人の幸吉だ。朱王は、人形に使う飾り物を全て幸吉に依頼する。歳は朱王より若いが、腕は良く、どんな難しい依頼も快く引き受けてくれるのだ。何人もの職人を渡り歩いた結果、幸吉に辿り着いたのである。朱王の性格上、小物と言えども手抜きはしたく無いのだ。
幸吉は簪を受け取り、台に戻すと朱王の方に体を向けた。
「朱王さんには、いつもいい仕事廻して貰って感謝してるよ。ところで聞きたい事ってなんだい?」
「そうだ。幸さんあんた銀杏と鳥、確か雁の飾りが付いた簪を作らなかったか? この飾りを頼みに来た時だから、ひと月前だと思うんだが」
銀杏、と呟いて首を捻った彼は、おもむろに作業台の横から帳面を手に取った。それには錺物を依頼された時期や頼んだ人物、どんな物を頼まれたかが絵入りで記されている。
「几帳面だな」
細かな文字がびっしり書き込まれている帳面を横から覗き見して、朱王が呟く。へへっ、と照れ臭そうに笑った幸吉の指が、ある場所で止まった。
「なぁに、朱王さんと違って馬鹿だからな。忘れないようにつけてんのさ。――ああ、あったぞ」
煤に汚れた指がある一カ所を指す。 そこには、簪の形状や依頼者の名が印されていた。
「銀杏に雁、確かに作ったな。長品の旦那に二つ頼まれてたぜ」
「長品の旦那?」
「日本橋の近くで料理屋やってんだ。きっと女房にやったんだろう」
けちな旦那にしちゃあ奮発したな。そう言って、帳面を閉じる幸吉に朱王は解せない様子で顎に手をやる。
「二つ共、女房にか?」
「まさか。大方、これだろうぜ」
唇を吊り上げ、幸吉は小指を上に突き出す。その仕種に朱王も唇を歪めた。
「あぁ、確かにな。仕事中に悪かった、また来るよ」
「あと二、三日だ。いい物作るから、楽しみにしててくれよ」
そう言い残し、作業を再開させる幸吉。朱王の足は、自然と忠五郎親分の番屋へ向かっていく。
「御免下さい」
番屋の障子扉をするすると開いた朱王が会釈すると、中に居た親分に留吉そして茶を啜る二人の侍…都筑…と高橋が一斉にこちらを振り向いた。
「朱王さんじゃぁねぇか、どうした?」
親分が奥から顔を出す。
「昨日の件でお話が」
朱王が口を開いた途端、大柄の侍、都築がグッとこちらに身を乗り出した。
「昨日の件と言うと、まさか紅葉山の件か?」
「へぇ、その通りで。あの骸、朱王さんと海華ちゃんが最初に見つけました」
横から親分のしわがれ声がする。右側にいた 侍、高橋が、はっ、としたような顔を見せた。
「なに、あの骸は朱王殿が。それは災難だったな」
『同情』を顔で表す高橋に、朱王も苦笑いで返す。その時、留吉が奥から出してきた座布団を勧めてくれた。
「まあ、かけてくれ朱王さん。じっくり話し聞くからよ」
忠五郎に言われるがままに座布団へ座ると、留吉が茶を運んできた。それに一度口を付け、朱王が例の簪の事、幸吉の所で聞いた全てを語り始めた。
「なるほど、あの簪は長品の主が」
話しが終わった後、都築は腕組みしながら唸った。
「作った本人も認めております。それに、細工の細かい値の張る品ですので、他に同じ物は無いだろうと」
「一度探りを入れてみゃしょうか。とにかく、 骸の身元もわからねぇとなると、こっちもお手上げでさ」
煙管を取り出しながら親分が言った。同調するように高橋も頷く。 朱王は軽く都築に目をやった。
「簪の他に持ち物はあったのでしょうか?」
「空の巾着袋と足袋、紅が一つだけだ。顔は、 知っての通り骨だけだからなぁ。容姿もわからぬ」
困り果てたように深いため息をついた都築だが、隣の高橋に目配せすると、揃って腰を上げた。
「良い事を聞かせて貰った。朱王殿。早速長品の主を調べるとしよう」
留吉が見送り、二人は番屋を出て行った。煙管から紫煙を昇らせ、親分が頭を垂れる。
「さっさと骸をどうにかしてもらわねぇとなぁ。気持ち悪くて仕方ねぇ。そう言やぁ、海華ちゃんはあれからどうしたい? 大丈夫か?」
「一日唸っておりましたが、もうすっかり。今も仕事に出ております」
「そうかい、そりゃあ良かった」
美味そうに煙草を吸いながら、親分は笑う。また、何かあったら報せます。そう言い残し、朱王も帰路に着いた。
西の空が橙色に染まる頃、長屋では女達が夕餉の用意に追われていた。あちこちから昇る煮炊きの煙りと漂う飯の匂いに包まれる海華も例外ではなく、忙しそうに動き回って夕餉の支度をしている。
「なぁ、海華。お前はどう思う?」
人形の頭を彫りながら、朱王が訪ねる。しかし、そこに海華はいない。炭火の熱、沸き上がる黒煙と格闘しながら、表で魚を焼いている最中なのだ。仕事が忙しくない時は、朱王も家事を手伝う。しかし、炊事だけは海華に任せていた。元来手先は器用な朱王だが、なぜか炊事は恐ろしいほど下手である。いや、家事自体が苦手なのだ。飯を炊かせれば水加減のせいか芯が残るかベチャベチャになり、魚を焼かせればものの見事に消し炭にする。おかずの煮炊きなどやらせた日には、もう世にも恐ろしい『物体』の出来上がり。それを重々知っている海華は滅多な事がない限り、朱王に包丁は一切持たせないようにしている。
「海華ー!!」
頭を手に持ったまま、朱王は外に向かい大声で呼ぶ。
「なによっ!?」
煙りを纏わり付かせた海華が、眉をつり上げ怒鳴りながらヒョイと顔を覗かせた。
「だからどう思う? 本妻と妾に同じ簪を贈るってのをさ」
彼の些か妙な質問に『そうねぇ』と、小さく呟いて、海華は破れ団扇を頬に当て考え始めた。
「あたしが奥さんの立場なら、冗談じゃないって思うけど、妾だったら……」
彼女は一度言葉を切り、団扇を両手で弄んだ。
「難しいわね。でも、奥さんと同じ扱いをされてると思えば、嬉しいって感じるかしら? まぁ、男のやる事だし、違う形の簪を頼むのが面倒で……」
「海華ちゃん! 魚っ! 焦げてるよっ!」
突如、隣に住む女房の叫び声が長屋中に響き渡る。声にならない悲鳴を上げ、海華は外へ飛び出した。 悪い事をしたかもしえない、と若干気まずい表情を浮かべる朱王の耳に、『忙しい時に話しかけないでッッ!』と悲鳴じみた叫びが飛び込む。 結局、その夜は海華の文句を聞きながら、半分黒焦げの魚を食べる羽目になった朱王だった。




