第四話
鈍く軋む戸口の向こうには、大柄な体躯を小さく縮こませるよう立つ修一郎の姿があった。小刀を握る手を慌てて背後に隠し彼を招き入れる朱王の後ろでは、泣き腫らし赤く充血した眼を真ん丸に見開く海華が驚愕の表情で修一郎を見詰めている。
「夜分にすまぬ。先刻番屋に着いたのだが、どうやら擦れ違いだったようだ。お前達は既に帰った後だった。海華はどうだ、落ち着いたか?」
「はい、お陰様で。まだ動揺はしておりますが話はできる状態です」
深く頭を下げる朱王が発した台詞に『そうか』と小さく頷いた修一郎の視線が、奥にいる海華へ向けられる。どうして修一郎がここにいるのか、それは奉行所で書類と格闘している最中に白狐が出たと報告を受けたからである。
襲われた女は『海華』という珍しい名前の傀儡廻しだった、と聞いた瞬間、修一郎は報告に来た侍の胸倉を捕まえて、すぐに番屋へ案内しろと怒鳴りつけたのだ。大きな体を屈めるようにして土間へ入ってきた修一郎の力強い、しかし温かさを含んだ視線を受けた刹那、海華は額を畳へ擦り付けた。
「海華、顔を上げろ。酷い目に遭ったな、大丈夫か?」
「はい、私はこの通り大丈夫です。修一郎様にはご迷惑をお掛けしてしまって……」
「何が迷惑か、心配はしたが迷惑など掛けられていない。とにかく無事でよかった。お前を襲った不届者は、必ずお縄にする。だから安心致せ」
部屋へ上がり目の前にドカリと胡坐をかいた修一郎の大きな手に優しく肩を叩かれて、泣きに泣いて枯れかけていただろう涙が海華の頬をつたう。泣きたいのを必死で堪える彼女は、修一郎を見上げながら微かに唇を震わせた。
「修一郎、さま、私……私、あの男に殺されるかもしれません、あの男、私の顔を忘れない……忘れないって、言いました。きっと、きっと探し出されて、私、殺される……っ!」
純粋な恐怖に震える声色で絞り出すよう海華は告げる、男二人の顔色がみるみるうちに変わっていった。殺されるとは尋常ではない、一体何があったのか。指の関節が白くなるほどに手を握り締めて震えだす海華を前に修一郎はあからさまに狼狽し、彼の横に腰を下ろした朱王は、何の躊躇いもなく海華の手をギュッと握った。
「大丈夫だ、心配するな。お前を殺させるなんて、そんな事は絶対にさせない。修一郎様を信じろ。俺もついてる。だから何も心配いらないんだ」
『大丈夫だ』『心配ない』そう必死で繰り返す朱王の横で修一郎は堅く唇を噛み締め己の膝先に視線を落とす。最初はしゃくり上げていた海華だったが、やがて落ち着きを取り戻し、何とか話を再開できるまでになった。それを合図とするかのように、修一郎はその場から立ち上がり朱王へ外へ出るよう目で促す。彼の視線が語る意味が分かったのだろう、朱王も一度無言で頷き、海華へここで待つよう言い置いて外へと出ていく修一郎の後を追った。
黒羽織をたなびかせ歩く修一郎は真っ直ぐに長屋の奥にある井戸へ向かう。水場のせいか、はたまた日当たりの悪いせいか地面は常に湿り気を帯び、下駄の歯後が黒く泥濘む地面にクッキリとした跡を残した。
「―― 申し訳ございません、私が使いなんかを頼んだのがいけなかったのです。修一郎様にはとんだご迷惑を……。これで海華にまで死なれていたら、私はどうお詫びしてよいのか……」
立ち止まった早々謝罪の言葉を口にして折れんばかりに深く深く頭を下げる朱王に、修一郎はひどく慌てた様子で首を左右に振りしだく。
「何を申すか、朱王よ、さっき海華にも申しただろう。俺は迷惑などとは思っておらぬ。たった一人の妹が危険に曝されたのだ、駆け付けるのが当然……」
そこまで口にし、ハッとした表情を見せる修一郎はバツが悪そうに俯いてしまう。それは朱王も同じだ。『たった一人の妹』その短い言葉が三人の関係を現している。修一郎と朱王、そして海華は実の兄妹である。
と言っても、血は半分だけしか繋がっていない。朱王と海華は先の北町奉行である修一郎の亡き父が、吉原太夫に産ませた子供だ。遊郭に軟禁状態で暮らしていた兄妹の存在を知っていた者はごくわずか、母親が病で死に、遊郭にとって厄介者となった二人を父親が引き取ったのだ。その後、訳あって上条家から離れ上方での生活を送っていた朱王達だが、数年前い朱王が人形師として江戸に戻って以来、交流はあるが、もちろん周囲には三人が兄妹だと隠したままである。
「すまん、つい声が大きくなり過ぎた」
周囲に聞こえてはいないかを気にするように左右の部屋をキョロキョロ見渡す修一郎だが、幸いなことにどの部屋も明りは消えたまま、皆、眠りの世界に旅立っているのだろう。
「誰かに聞かれてはいないな?」
「大丈夫です。ここの人たちは夜が早いですから。修一郎様のお心遣いには、本当に……なんとお礼を申し上げてよいのか」
修一郎に向かい小さく会釈する朱王の黒髪を、いつの間にか天空に顔を出した満月の光が輝きで満たす。美しい、素直にそう思いながら、修一郎は厚い唇を薄く笑いの形に変えた。
「兄が弟妹を案ずるのは当たり前だ。それより朱王、話の本題に入るが……」
ひどく言い難いそうに言葉を濁しながら、修一郎は視線を朱王から外す。
「お前、その……まだ、刀は、持っているか?」
「刀、でございますか?」
修一郎が言う「あれ」の意味を瞬時に理解した朱王は顔色一つ変えずに答える。『そうだ』と一言返事をして修一郎は厳しい面持、そして真剣な眼差しを朱王へと向けた。
「俺がこう言うのは本当に恥ずべきことだ、だが、人斬りをいまだお縄にできないの我らの力が及ばぬゆえ、だから海華を危険な目に遭わせてしまった。しかも人斬りは顔を見ただろう海華の命を狙っている。本来ならば、俺が海華の傍について守ってやらねばならぬ、しかし……」
それはできない、修一郎の立場上、つきっきりで海華を守る事はできない。同心や岡っ引きに海華を護衛させる事も考えた、しかし彼らにとって海華はただの町人、もっと言えば取るに足らない大道芸人、時間や人手を割いて守るべき対象ではない。
「すまん、朱王……」
「いいえ修一郎様。修一郎様のせいではございません。私は……」
「お前、できるならばもう、刀は手にしたくないと思うているのだろう?」
心の中まで見透かそうとするような修一郎の眼差しに、朱王は無言のままに首を縦に振る。
「私は、もう侍ではございません。それに、自分は武家の出でもないと思っております。私は人形師、人形造りを生業とする者、それ以外、能のない男でございます。それに、今の私では刀を振るえど丸腰の時と何ら変わりが……」
「なに、謙遜いたすな。お前の腕前は俺がよく知っている。お前になら海華を安心して間かえることが出来る、だからこうして頼んでいるのだ。朱王頼む、今一度お前の信念を曲げてはくれぬか?それもこっれも、全て海華のためなのだ」
頭を下げんばかりの勢いで一気に話す修一郎に若干圧倒されながら、朱王は堅く唇を結ぶ。否定も肯定もしない彼に、修一郎は更に話を進めた。
「朱王、お前も知っている通り、人斬りは、下手人はかなりの手練れだ。いくらお前といえども丸腰で敵う相手ではない。まぁ、今すぐここで答えを出せとは言わん。ゆっくり考えている時間も与えてやれんが……すまん、一度考えてみてくれ」
「承知、いたしました」
暗く沈んだ声色で小さく返事をする朱王の肩をポンと叩き、『頼んだぞ』そう一言言い置いて修一郎はその場を後にする。次第に遠ざかってゆく足音、井戸端に一人残された朱王は、じっと己につま先に視線を落としたままその場に立ち尽くす。どのくらいそうしていただろうか、頬を撫でる冷たい夜風の感触にハッと我に返った朱王は、海華が待つ自室へと急ぐ。『ただいま』その一言とともに戸口を開けた朱王の前には、壁に凭れてウトウトと舟を漕ぐ海華の姿があった。
「おい、そんなところで寝るな。風邪をひくぞ」
「ん……ごめんなさい」
朱王の呼びかけにパチリと目を開いた海華は小さな欠伸を一つ放ち壁から背中を離す。
「修一郎様、お帰りになったの?」
「あぁ、今さっきな。すぐに布団を敷いてやるから、今夜はもう寝ろ」
そう言うが早いか室内へ上がった朱王は海華の前を通り過ぎ、部屋の奥に置かれた枕屏風の向こうから一組の布団を持ち出す。慣れた動作で布団を敷いていく彼を目で追いながら、海華はふと何かを思い出したかのように人形が入っている木箱を手を伸ばして引き寄せた。
「そうだ、忘れてたわ。兄様はい、頼まれてた物よ」
木箱の中に手を突っ込んだ海華は小さな風呂敷包みを引っ張り出してそれをほどきにかかる。中には色鮮やかな萌黄色の反物で造られた小さな着物と帯があった。
「汚れていなくて良かったわ。これで人形を納められるわね」
「あぁ。明日朝一番で問屋に持っていけるよ。ありがとうな」
着物と帯を受け取った朱王は、自分に向けられる静かな微笑みにほんのわずか、苦しげに顔を歪めて息を止める。これを頼んだばかりに、彼女は命に危険に曝されたのだ。
「兄様? 兄様どうしたの?」
「あ……いや、なんでもない。あのな海華、もうその着物は捨てろ。そこに血がついてる」
一瞬戸惑いの表情を浮かべた朱王だったが、すぐに気を取り直して海華の胸元、そして裾辺りを指さす。彼の指先につられるように自身の胸元、そして裾に目をやった海華、彼女がお気に入りの蝶の模様が染め抜かれた紅い着物には、どす黒い地のシミが転々と散っていた。
「あら、嫌だ。これ気に入ってたのに……洗っただけじゃ駄目かしら?」
「いいから捨てちまえ。着物なら、新しいのを買ってやる。お前の好きな色柄の物を選ぶがいいさ」
その言葉を聞いた途端、今まで眠そうだった海華の瞳に小さな星が散った。
「本当? 本当に新調していいの? わぁ、着物の新調なんて何年ぶりかしら」
表情にはいまだ疲れが見えるものの、子供のようにはしゃぎだす彼女に思わず朱王も苦笑いだ。
「そうキャァキャァ騒ぐなよ、好きな物買ってやるから、だから今夜は早く寝ろ。明日に響くぞ」
「はぁい。兄様は? まだ寝ないの?」
「俺か? 俺は……あと少し仕事をしてから寝るよ」
「そう、あまり無理しないでね。じゃぁ、おやすみなさい」
残りと微笑み、朱王に背を向けて汚れた着物から寝巻に着替えて布団に潜り込んだ海華から安らかな、規則正しい寝息が聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。彼女が眠りに落ちたのを確認して、作業机の前から腰を上げた朱王は、枕屏風の横に置いた長持ちの蓋をそっと開く。そこから取り出したのは、鈍い光沢を放つ絹の布で包まれた細長い物、あちこち解れや汚れが目立つ見るからに古びたその包みをそっと開くと、黒漆の鞘を持つ太刀と脇差がその姿を現す。
柔らかに光を反射する太刀と脇差、それは朱王が二度と手にしたくはない物だった。
「まさか……また、これを使うことになるとはな」
ポツリと独りごち、掠れた溜息を一つこぼした後、朱王はそれらを丁寧に包み直し長持ちへと戻す。戸惑いと焦燥、そして胸につかえるような重苦しい空気に包まれて、朱王の夜は深々と更けていった。