第七話
火が出た、との尋常ではない叫びに、朱王と海華は脱兎の如く奥へと走る。『御用』と書かれた提灯と、羽織袴の同心達が右往左往していたのは、五つ並んだうちの一番左側にある、小さな蔵だった。辺りには焼けた油の胸が悪くなる匂いが漂い、下方についた木格子付きの小窓窓からは、紅蓮の炎がチロチロ舌を覗かせていた。
「お染さんはどこなの!?」
蔵の前に立ち尽くす志狼に駆け寄る海華が大声で叫ぶ。
「あの中だ。音松がお染を引き込んで火を付けた」
ギリギリ奥歯を噛み締める志狼の眉間には悔しそうに深い皺が刻まれていた。都筑や同心らが必死で蔵の扉に体当たりを繰り返し、ぶち破ろうとしているが厚い扉はびくともしない。 店の使用人が持って来た鍵でも開かないようだ。どうやら中から閂か、つっかい棒が掛けられているらしい。
「ここは何を入れている蔵だ?」
徐々に強くなる焔、それに目を奪われながら朱王が呟く。志狼からの答えは燃料用の油がしまってある、との事だった。
「志狼っ! 志狼はいるか!?」
かけずり廻る同心の間から、眉をつり上げた桐野が飛び出してきた。弾かれたように顔を向ける志狼を前に油汗を滲ませた桐野は、噛み付くような勢いで彼に迫る。
「蔵の後ろにある小窓だ! そこは格子が壊れているらしい。あの二人が生きているのか、それだけでも確かめろ!」
「承知しました!」
返事もそこそこ、志狼は桐野と共に裏へと飛んで行く。蔵の中からは時折何かが爆発する大きな破裂音と、ガラガラと物の崩れ落ちる響きが轟いていた。兄妹も桐野と志狼を追う。ちょうど表扉の裏側、光取り用の小さな窓には桐野の言ったように、格子が二つ、三つ壊れている箇所がある。天井近く、かなり高い所にその窓はあり、焔はまだ達していないようだその代わり、もくもくと大量の黒煙が吹き出ている。
「こんなところ、登れるのか?」
朱王が天に昇る煙を見上げた。土塗りの壁には手足を掛けるような凹凸も突起も無い。周りには登れる木もありはしないし、ぐるりと蔵を取り囲む塀はあるが蔵までは遠すぎるのだ。これではさすがの志狼も、手も足も出ない。ただ足場になる物を必死で探し、焦りの表情を浮かべながら、固く拳を握り締めた。
「そうだ、志狼さん、これ使って!」
海華が咄嗟に叫び、袂から引っ張り出したのは、あの朱の組紐。 こんな物を持っているなど桐野も志狼も知らない。一瞬で朱王の顔色が蒼白に変わる。待て!と止める暇も無く、月光に煌めく槍先が夜空に立ち上る黒煙を貫いた。光の線を描き、真っ直ぐに小窓へと飛んだ槍先は、カキン! と澄んだ音色を響かせ格子へと絡まる。 やった! とばかりに口元を綻ばせた海華は、掴んでいた朱の紐を 呆気に取られながら見詰めている志狼に突き付けた。
「これつたってなら登れるでしょ? なにやってんの! 早くしてっ!」
海華の剣幕に押されたのか、志狼は狼狽えながらも紐を受け取った。そしてそれを伝い、蔵の土壁を這い上がり始めたのだ。桐野も朱王も、今は組紐の事などは頭から消え去っている。ただ、志狼の動きを固唾を飲んで見守っているだけ。ますます勢いを増す煙に咳き込みながらも、志狼は何とか小窓へ到着した。下からは煙に遮られ、様子は伺えない。はるか遠くで半鐘が響く、幸い延焼は免れそうだった。
シュッ、と布の擦れる乾いた音と同時に紐を伝い、志狼の体が煙から飛び出した。煤にまみれた身体が無事に着地する。その場にいた全員が、志狼へと駆け寄った。煙にやられたのか切れ長の瞳は涙で潤み、ゲホゲホと激しく咳き込んでいる。
「大丈夫か、志狼!?」
桐野が傍へしゃがみ込む。はい、と掠れた声で答えた志狼は、煤で汚れた顔を袖口で拭った。
「あの二人は? どうだったの!?」
焦れたように海華が尋ねる。志狼の顔がゆっくりと横へ振られた。
「駄目だ。中は火の海で……」
ぐっ、と息が詰まる。暫しの沈黙が周囲に満ちた。
「志狼、奴等を見たのか?」
全てを察したかのような、落ち着いた声色の桐野。その後ろでは、蔵の中を焼き尽くした焔の蛇が、先程まで志狼がしがみついていた小窓を舐めていた。海華は組紐を外そうと踵を返す。しかし、次に志狼の口から出た言葉を聞いた途端、ピタリと足が止まってしまった。
「人が二人、抱き合ったまま火達磨になって……燃えておりました」
微かな嘆息が朱王の口から漏れる。誰の耳にも届くことの無いそれは、燃え盛る業火と半鐘の音に虚しく消されていった。
寺崎屋の騒ぎから一夜明け、蔵の火災は明け方頃にようやく消し止められた。蔵の中は丸焼け、腹を刺された死体と首に出刃が刺さったままの焼死体がしっかりと抱き合ったままの状態で発見された。どちらも男女の区別も出来ぬほど黒焦げだったという。兄妹は、鎮火後すぐに現場から解放され、クタクタの体を引き摺るように長屋へ戻り、二人とも日が暮れるまで死んだように眠りこけていた。起きた頃には既に外は夕闇が迫っていた。
朱王も海華も何もする気が起きない。飯も食わずに部屋でボンヤリしていた時、桐野の使いだと言って志狼が長屋を訪れた。
「女が隠れていた旅籠から、盗まれた金と音松の書き置きが見つかった」
海華が出した茶を前に、志狼がポツリと呟く。伏せがちの顔、目の下には、うっすらとクマができていた。
「盗まれた金って、確か二百両だったな。書き置きを残したのはどういった了見だ」
作業机に寄り掛かり、朱王は首を傾げる。
「書き置き……というか、中身は遺書だ。金は、女――お染の身請け代として、女郎屋に持っていってくれと。後は、事件のあらましだ」
「遺書ね……。最初から二人で死ぬつもりだったのね」
疲れ果てたようなため息をつき、海華は己の膝先に視線を落とす。あの旅装束は、江戸から逃れる為ではなく、死出の旅の用意だったのだろう。
「寺崎屋の若旦那、お染が女郎屋へ売り飛ばされた後も、金やら文やらを音松に届けさせてた。未練たっぷりだったようだ」
「音松とお染の関係は知らなかったのか?」
朱王の問い掛けに、そうだ、と志狼が返す。思わず海華は絶句していた。音松の気持ちを考えれば、これ程酷い話はない。お染は、昔の恋人が来るのを楽しみに待っていたのか、それとも元旦那からの文を待っていたのだろうか……。
「あんまりだわ。お染さん、若旦那が後妻を迎えたの知らなかったんでしょ? 音松も黙ってたのね、なんでかしら?」
「そりゃな……言えないだろう? お染がどんな気持ちになるか……」
そう呟いた朱王は、机の横から酒壺を引き出す。が、それはほとんど空だった。小さく舌打ちをし、再びそれを押し戻す。その様子を黙って見詰めていた志狼の唇が静かに動いた。
「吉原界隈の火付けも、音松の仕業だ。本当の目的は、お染の女郎屋を焼く事。だが、いきなり全焼させちゃ余りにも怪しいだろ。目眩ましに他にも火を付けたんだと。身代わりの死骸は、朱王さん、あんたの調べた通りだ」
「女連れ出すのを隠すための火付けか……。海華が足の傷の事を知らなければ、上手く事が運んだろうな」
「何だか……悪いことしちゃったみたいね」
海華の口元に寂しそうな笑みが浮かぶ。あのまま放っておけばよかった……。 その心中を見抜いたかのように、志狼は緩く首を振った。
「放っておいた所で、結果は変わらなかったろうぜ」
書き置きには、こうあった。二人で江戸を離れ、何処かでひっそり暮らそうとお染に言った。
だが、お染はもう一度、旦那に会いたいと言い張った、と。
「その時点で、死のうと思っていたんだろうよ。旦那に会わせない限り、お染は江戸を出ない。会わせれば後妻が、子供までいることがバレる。進むも退くも出来まい」
そう呟いて、志狼が冷めかけた茶を一口啜る。朱王と海華、二人の嘆息が薄暗い部屋へと溶けていった。
「一つ、どうしてもわからない事がある」
湯飲みの中を見詰めながら、志狼がこぼした。
「なぜ二百両の大金を、身請け代などと置いて行ったんだ? 女は連れ出した後だ。律儀に金なんざ払う必要はねぇだろうに」
「まぁ……店一件を燃やしたんだ。その弁償ってならわかるがな」
朱王も首を捻った。大体、あんな場末女郎の身請けに二百両は多すぎる。海華は黙って下をむいていたが、やがて静かに唇を開いた。
「多分ね、死んでからもお染さんを足抜けした女郎のままにしたくなかったんだと思うわ。……女郎の染矢じゃなくて、ただのお染に戻してから死にたかったのよ」
海華の言葉に、男二人は黙りこくってしまう。どこかで秋の虫が鳴く澄んだ音色が聞こえてきた。
「それにね、死ぬと決めたなら、二百両なんて必要無いじゃない。三途の川の渡し賃は、六文あれば充分よ」
しゅん、と小さく鼻を啜る海華。何だか死んだ二人が酷く可哀想に思えてきた。ちらりと兄の様子を伺うと、眉間に深い皺が寄っている。
「あの若旦那が、お染と離縁さえしなければな」
えらく沈んだ声色が朱王の口から漏れた。どうやら妹と同じ気持ちになっているらしい。その事なんだがな、と前置いて、志狼が湯飲みを畳へと置いた。
「無理矢理離縁させたのは大女将なんだと。若旦那は未練があったらしいがな。母親には逆らえず、言われるがままに再婚もした。……でも、あの顔じゃもう店には立てんだろう」
「お染に切りつけられた傷か? そんなに深いのか?」
「頬をザックリだからな。傷痕は残るだろう。 あの男が、もう少ししっかりしていたら、こうはならなかったろうぜ」
「手前の女房一人守れなかったんだから、自業自得よ」
忌々しそうに海華が吐き捨てる。後妻はお染に殺された。 若旦那も大女将も、生きている限り刻まれた傷痕を見ては、お染の事を思い出すのだろう。復讐は見事なまでに完遂されたのだ。
「旦那様からの言伝ては、これだけだ。長々と邪魔したな」
そう言って志狼は立ち上がり、土間へと降りた。と、戸口へ掛けられた手がピタリと止まる。
「そうだ、一つ忘れていた。海華、旦那様から伝えてくれと頼まれていた事がある」
「あたしに? なぁに?」
きょとんとした表情の海華。志狼の口元がニヤリと笑みの形に歪んだ。
「『さすがは朱王の妹だ。良い腕をしている』と。何の事かは、わかるだろう?」
それを聞いた途端、海華の顔からみるみる血の気が引いていき、朱王はと言えば頭を抱えて大きな溜息をつく。あの組紐を見られていたのだ。
「あのっ……あの事は……」
「『他言はしない、安心しろ』とも。……全く、あんた達は一体何者なんだか。さっぱりわからん」
「ああ……そのうち話すわ。桐野様によろしく伝えてね」
わかった、そう返し、志狼は帰って行く。安堵の溜め息をつき、海華はその場にへたり込んだ。
「あぁ、心臓が止まるかと思ったわ。都築様達が見てなくて良かった」
「心臓が止まりそうだったのは俺だ。問い詰められたら大事だったぞ」
兄にブツブツと文句を言われ、海華はペロリと舌を出した。取り敢えず、秘密は守られたようだ。
腹が減ったな、何か食いに行くかと呟き、朱王は立ち上がる。 いいわね! と直ぐ様返した海華。帰ってから何も胃袋に納めていないのだ。小銭を懐にねじ込んだ海華が、ガラリと戸口を開く。
頭上に広がるのは、金粉をばら蒔いたような、満天の星空。足元では、秋の虫達が命の限りに羽根を震わせている。秋本番は、まだまだこれからだ。
終




