第六話
寺崎屋から目と鼻の先にある小さな旅籠。草木も眠る丑三つ時、人通りの途絶えたその旅籠の前に二つの影が蠢いた。寒々しい光を放つ下弦の月が二人を照らす。それは旅装束姿の男女だった。
「こんな時間に動くなんて、やっぱり江戸を出る気なのね」
周りを気にしながら行く二人を、旅籠の陰から六つの目が捉えている。朱王に海華、そして志狼だ。 音松を見張っていた高橋は、気付かれぬよう二人の跡を追っている。
音松がこの旅籠に通っているのは、都筑が既に確認していた。 二日、三日置きに通い、お染らしき女を田舎から出てきた妹だと旅籠の主人に告げている。すぐに踏み込み、お染の身柄だけでも押さえればよかったのだが、念のため音松と共に動くのを待っていたのだ。
「あの二人、何どこへ行く気なんだ? 江戸を出るなら反対の道を行くはずだ。それに、今時間じゃ木戸も通れないぞ?」
朱王が首をひねりながら呟く。志狼も解せない様子で、二人の後ろ姿を見送っている。この道の先にある物は何だろう? 海華が思い付くのは一つ。 音松にも、お染にも馴染みのある場所だ。
「お店に向かってるんじゃないの?」
海華は物陰からひょいと顔を覗かせる。長い長い影が夜道に映り込んだ。
「店? 寺崎屋か。今更戻って何になるんだ」
そう吐き捨てながら志狼が海華を横目で見遣る。 彼の言葉に反論はできない、なぜなら一応言ってはみたものの、海華にも確信は無いからだ。
「あたしだってわからないけど……。他に寄りそうな所なんて無いじゃない?」
「このまま後をつけて行くしかないか?」
声を抑えて言った朱王は眉間に皺を寄せながら腕組みをする。彼の言葉を受けて、志狼はチラリと背後に広がる暗闇の深淵へと視線を移した。
「先回りの方がいい。あんた達は二人の後をつけろ」
そして海華に顔を向け、唇を僅かに歪めて見せる。
「お前の勘が当たっていれば、寺崎屋の前で鉢合わせってわけだ」
一言言い放ち、彼はさっさと背後に広がる墨を流したような闇へと消えて行く。朱王と海華は思わず顔を見合わせた。
「先回りと言ってもな、この辺りに店への近道なんてあったか?」
「あたしは知らないわ。取り敢えず、志狼さんの言う通りにしてみましょ。どうせ高橋様も尾行てるんだし」
それよりも兄様、と海華は兄の腰をちょんちょんとつつく。
「刀、無くても大丈夫なの?」
「仕方ないだろ、まだ仕上がってないと言われたんだ。いざという時は海華、頼んだぞ」
こんな時に丸腰とは情けないばかりだ。だが、侍や狼藉者を相手にする訳では無いし、桐野達もいる。
海華は、はいはい、と軽く頷いて袂から組紐を引っ張り出す。鋭く研ぎ澄まされた白銀の槍先は、白い月光に照らされてキラキラと宝玉のように輝いた。
先を行く二つの影の後ろに、新しい影が二つ加わる。猫のように足音を忍ばせ、兄妹は素早い足取りで人目を忍ぶ男女を追い掛けた。その先に、桐野達や志狼の姿があるのを二人は切に願う。連続した火付けに始まったこの事件、思わぬ方向に運命の針が傾く事を兄妹は全く知らずにいた。
「やはり、ここだったか……」
吹き抜ける秋の風に、朱王の呟きが溶ける。音松とお染の跡を追い、兄妹が辿り着いたのは海華の予想通り寺崎屋だった。出て来る時に錠を外しておいたのだろうか、二つの影は店の裏口から中へと消える。先に二人をつけていた高橋が、店の板塀の陰から兄妹を手招いた。桐野や都築、他の同心らも、それぞれ身を隠しているのだろう。
「高橋様、志狼さん来てませんか?」
ひそひそ声で海華が高橋に尋ねる。すると高橋は店の板塀越しにそびえる、大きな松の木を指差した。
「あの上にいるのだ。軽々と登っていってな、俺も驚いた」
示された松に海華の視線が注がれた。月を隠し、天を突くように黒々とそびえ立つ松の大木、板塀を遥かに越えるそれに目を凝らすが、志狼の姿は見えない。枝葉に紛れているのか、影となり木と同化しているのか海華にはわからなかった。さすが忍だ、心中で感心した海華、しかし高橋は志狼の素性を知らない。ただ、桐野の使用人としか知らされていないのだ。朱王にも、志狼の事は誰にも教えないでほしいと海華から伝えてある。
「なぜ、桐野様が使用人などを連れて来たのかはわからないが……それ以上に朱王殿や海華殿が此処にいるのかがわからないな」
いかにも不思議、といった表情をむける高橋に、海華は困ったような笑みを見せる。
「行き掛かり上というか……乗り掛かった舟というか……。色々訳がありまして」
「捕り物のお邪魔は決していたしませんので」
もごもご口籠る海華を見兼ねてか朱王が横から助け船を出してくれる。
「いや、邪魔などでは無い。かえって心強い位だ。それよりも、奴らは中で何をしているのか。全く動きが無いな」
店へ目を遣り、高橋はため息交じりに呟いた。どうやら店から二人が出てきた所を確保するようだ。
今の状況では無理矢理中へ押し入る事は出来ない、音松と一緒の女が、お染だとは確実ではないからである。
兄妹が店に来てからどのくらいの時が過ぎたろう。急に、店の裏手からギャーッ!とけたたましい子供の叫び声が響いた。同時に、松の木の陰や、板塀の裏からドヤドヤ と人影が暗い道へと踊り出る。兄妹と高橋も店正面へと駆け出した。
人影の中には桐野や都筑らの姿もある。 店の中はいよいよ騒がしくなり、女の金切り声と男の怒鳴り合う叫びがあちこちから響いている。
「戸を開けさせろっ!」
桐野の大声が響いた、その時だった。 ガサガサガサッッ! と松の枝葉が大きく揺れ、茶色く枯れた針のような葉が、パラパラと海華に降りかかる。ガバリと顔を宙に向けると、煌々とした月明かりの下、松の大木からフワリと飛んだ細身の黒い人影が見えた。軽々と夜空を舞った影は、板塀を飛び越えてあっという間に視界から消えていく。と、皆が集まる正面の扉、その横の潜り戸が音も無く開いた。
そこから顔を覗かせた者、それは志狼だった。
バタバタと桐野以下、同心達が、そこから店へとなだれ込む。
「旦那様、二人は奥に。母屋に向かいました」
誘導するように先を走る志狼、桐野は高橋に家人を起こすように、また、裏手には来ないよう伝えろと命じて、庭を走る。裏は、若夫婦が居住しているらしかった。
「お染ッッ! 止めろ……! 何をするんだ ――っ!?」
暗闇の広がる奥座敷から、甲高い悲鳴にも似た 男の叫びが上がる。続いて、ギャーッ!! と空気を震わす女の断末魔。障子を思い切り蹴破って皆が座敷に押し入る。生木と紙が激しく折れ、破れた。
十畳程の部屋、転がり込んだ海華達の前には蝋燭の微かな灯りに浮かび上がる凄惨な地獄絵図が広がっ ていた。
一つだけ灯りが灯った蝋燭、踏み込んだ朱王達の目にまず飛び込んできたのは、血塗れの出刃包丁を構え、ボサボサに髪をほつれさせて呆然と佇む一人の女。ポタッ……ポタッと出刃の先端からどす黒い血糊が糸を引き、畳へ血溜まりを作り出している。血溜まりの側には、胸を一突きされて仰向けに倒れた寝間着姿の女がいた。カッと両目を見開き、此方に顔を向ける女は、既にこと切れているようだ。その横に、無様な姿でへたり込む寝間着姿の男、ザックリと頬を切りつけられ、ひいひいと呻きながら、腕には火の付いたように泣き叫ぶ幼子をしっかりと抱き抱えている。
嘘つき、嘘つき……。
出刃を握り締めた女は、血走った目を見開いてブツブツと呟く。女の後ろには、真っ青な顔で唇を戦慄かせる小柄な男、音松の姿があった。
「北町奉行所の者だッッ!」
雷のごとき桐野の怒号が、固まった空気を震わせた。ドッと同心らが弾かれるように飛び込み、音松は殆ど抵抗も無しに取り押さえられる。しかし、女は違った。獣のような咆哮を迸らせ、滅茶苦茶に出刃を振り回し、子供を抱えた男へ掴み掛かる。
「後妻はとらないと言ったのに! 嘘つき! 畜生ッッ! 嘘つき――ッッ!」
ビュンビュンと出刃が空を切り裂く。同心達も容易には近付けず、ただ許してくれと泣き喚きながら畳を這いずる男を庇うしかなかった。
「お染っ! もう止めろ……! お染ッッ!」
後ろ手に捕らえられた音松が殆ど泣き声に近い叫びを上げる。しかしお染は聞く耳をもたず、鬼の形相で出刃を繰り出し、たった一つの蝋燭が弾き飛んだ。ぷっつりと灯りが消え、漆のような闇が周りを支配する。部屋の中は、上へ下への大騒ぎ、ギャーッと男の叫びと、バタバタ慌てふためく足音だけが響き、誰がどこにいるのかすらわからない。
「貴様っ! 暴れるなっ!」
「離せ! 離してくれっ!」
ドン! ドタン! と部屋の隅で取っ組み合う音が響き、男が逃げたっ! と叫び声が上がった。
お染、どこだ――ッッ!?
喉を破るような咆哮。刹那、重い音を立てて、肉の塊が思い切り海華へとぶつかった。
「きゃぁぁっ!」
甲高い悲鳴を響かせて、海華は部屋から表へと弾き飛ばされ、地面に叩き付けられる。土に汚れた顔を上げると、煌々と降り注ぐ月明かりの中、音松がお染の手を引き、転がるように裏手へ逃げ去るのがハッキリ見えた。
「海華――ッッ! どこだ!? どこにいるっ!」
慌てふためく兄の叫び。海華はよろよろと立ち上がった。
「外! 外よ! あの二人逃げたわ!」
「逃げた!? どっちに行った!?」
最初に飛び出してきたのは志狼だった。海華が逃げた方向を指し示すと、志狼は疾風の如くに後を追う。続いて走り出てきた桐野らも、志狼を追って走り去った。
「海華っ! 怪我は無いか!?」
駆け寄ってきた朱王が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫よ、転んだだけだから。それよりも、早くあっちに行きましょう」
「ああ。だが、向こうは蔵ばかりで行き止まりだ。すぐに捕まるよ」
そう言って桐野らが消えた暗闇へ視線を向ける朱王。 ザラリと長髪を秋風が乱し、地面に黒い影が広がる。 その時だった。
「火だッッ! 火が出たぞっ!」
野太い、都筑と思われる絶叫が闇を貫く月明かりの下で響き渡った。




