第五話
寺崎屋から、音松から目を離すな。
そう桐野の命を受け、早速都筑と高橋は寺崎屋へ向かう。 すぐ後には、親分と留吉がお染の手掛かりを探しに行くと言い、番屋を出て行った。残ったのは四人、 桐野と志狼、それに朱王と海華だ。
「志狼さん、いつ村に行ったの?」
海華は何食わぬ顔をして首や胸元の汗を拭っている志狼へ率直に疑問をぶつけた。
「今日だ。朝早くに街を出た」
すぐに返った答えに、海華は勿論朱王までもが思わず息を飲んでしまう。お染の故郷は、江戸からかなり距離のある場所だった。 仮に、日の昇る前に江戸を出たとしても、帰る頃には夕方か下手をすれば夜になってしまう。その距離を、志狼はたった半日で往復してきたのだ。
「あんた、一体何者なのよ?」
ポツリと呟いた途端、横に並ぶ兄に肩先を小突かれる。横を振り向けば睨むような視線が刺さった。あまり詮索するな、と言いたいのだろう。海華も、ちゃんとした答えが返るなど毛頭思っていない。また『関係ない』と突き放されるのがオチだ。しかし、海華へ目線を落としつつ、小さくため息をついた志狼の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「旦那様、その……話してもよろしいでしょうか?」
志狼にじっと見詰められ、桐野は僅かに片方の眉を上げる。その口元には薄い笑みが見て取れた。
「儂は構わぬ。お前が話したいのなら、話せばいい」
はい、と頷いた志狼は、兄妹に向かって静かに振り向く。その薄い唇が静かに動き出した。
「俺は忍だ。……元、と言った方がいいだろうな」
「し、忍って、忍者の事? あんた忍者だったの」
くるくる瞳を動かし、海華目の前の男を見詰めている。が、朱王は大して驚いている風ではない。あいつは自分達と似ている、堅気の人間とは異なる物を背負っていると最初に言ったのは朱王なのだから。
「親父は伊賀の下忍、お袋は甲賀葛ノ葉衆、頭領の一人娘。ここまで言えば、なぜ俺が江 戸なんざにいるかわかるだろう?」
「宿敵同士が一緒になったか。半端者ってことだろうな」
些か冷たいと思われるだろう一言をこぼした朱王は顔をしかめ、腕組みをする。 伊賀にしても甲賀にしても、志狼は敵方の血を引く忌み子。そして両親は裏切り者、双方の恥、生かしてはおけない存在だろう。
「親父もお袋もガキの頃に死んだ。訳あって、旦那様の元でお世話になっている」
そう言った志狼をじっと見詰め、朱王と海華はお互いの顔を見合わせる。やはり、自分達と同じような境遇だったのだ。志狼は再び桐野の方へ顔を向けた。
「旦那様、海華に音松の顔を確かめさせたいのですが……。火付けの現場から逃げた輩を見たのは、俺とこいつしかいません。何かしら手掛かりが掴めるかと」
志狼の提案に、海華はそれがいいわ、と手を打ち、反対に朱王は苦々しく顔をしかめる。桐野はチラチラと朱王の様子を伺いながら、口を開いた。
「朱王と海華殿が承知するなら構わんが……」
「あたしは大丈夫です。お役に立てるかわかりませんけど……。兄様は?」
ひょいと兄を見上げれば、今だに渋い表情はかわらぬまま。朱王の心中を察したのか、志狼は彼に向かいきっぱりと言い切る。
「危険な目には遭わせない。約束する」
「……それなら、行ってもいい。海華、気を付けて行け。志狼さんに迷惑をかけるなよ」
わかった! と元気良く答え、海華は先に外へ出ていた志狼の後を追い掛けようとした。しかし、急に足を止めて何かを伺うように朱王の顔をじっと見詰める。
「兄様、あたし達の事も話していいわよね?」
「相手の過去を聞き出して、こっちが黙っている訳にはいかないだろう?」
そう朱王が静かに微笑むと、海華はニッと白い歯を見せ、いってきます! と駆け出して行く。朱王と桐野は共に表へ出て、駆け去る二人を見送った。
「志狼は頼りになる男だ。海華殿の事は心配しなくてもいい」
どこか柔らかい声色の桐野。朱王は、はい。と頷く。 そんな朱王の横顔を眺め、桐野は小さく破顔した。
「志狼自ら身の上話しをするなど、初めてだ」
似た者同士だからか? 桐野の言葉に、朱王は困ったような笑みを見せるしか出来なかった。
「自分の事は話したくせに、あたし達の事はなんにも聞かないのね?」
寺崎屋が正面に見渡せる場所、茶店の影に隠れた海華がポツリと呟く。隣に立つ志狼は無言のままだ。
「それとも、人の過去なんて関係無い?」
「詮索する気は無い。……どうせ訳有りなんだろう?」
焦れたように尋ねた海華に、志狼はぶっきらぼうに返した が、今まで寺崎屋へ向けられていた視線が すっと海華へ移される。
「ま、俺だけ話すのも癪だからな。物のついでに聞いてやらぁ」
仕方ないから聞いてやる、そんな物言いをする彼に海華は思わず小さく吹き出した。
「随分偉そうねぇ。まあ、いいわ。この間会った時、親はどっちも死んだって言ったわよね? その死んだ父親は、上条 弦志朗。母親は吉原の遊女だったの」
実にあっさりと口にした海華。だが、志狼は彼女の言葉に一瞬動きを止める。
「ちょっと待て、上条 弦志朗って、前の北町奉行の? まさか……」
彼の表情がみるみる固いものに変わり、瞳は驚きで一杯に見開かれた。志狼がここまで感情を現にするのを見たのは始めてだ。 なんだか得をしたような気持になって海華はニヤリと片方の頬を上げる。
「そうよ。今の北町奉行、上条 修一郎様は、 腹違いの兄上様。母親が生きてるうちは遊廓で暮らしてたけど、母親が病気で死んでね。父上様が、あたしと兄様引き取ってくれたの」
「なら、どうして人形廻しなんかになったんだ? 仮にも武家の人間だろう」
武家の人間、そう言われても海華にはピンと来なかった。彼女が義母からさんざん聞かされたのは、お前は遊女の子だ、下賤の娘だと言う事だけだったからだ。
「父上が生きてるうちは、そうだったわよ。兄様もあたしも武家の人だったわ。でもね、父上が死んだ途端に妾の子供に早変わり。毎日毎日、継母から殴る蹴るよ。……だから家を飛び出した」
真っ直ぐに寺崎屋の表口に目を向けながら、 淡々と語り続ける海華。忌まわしい自分の過去を、どうして他人事のように話せるのか海華自身にもわからない。ただ横にいる男が何不自由無く育ち、幸せな人生を送ってきたののなら、絶対に話してなどいないだろう。
「兄様と上方に行って、そこで十年暮らしたわ。兄様が人形師で独立してから、江戸に戻ってきたの」
「……旦那様は、お前達の経緯をご存知なのか?」
「知ってるわ。桐野様と兄様は昔同じ剣術道場に通ってたし。修一郎様がもう話してるから。
あ、でも都築様たちは勿論知らないから、黙っててね」
「わかってる。それから、俺の事は……」
「他言無用よ。わかってる。あ……? ねぇ、あの人」
不意に話しを中断した海華が、寺崎屋に向かって指をさす。 店を出る客らしき男女を店先で見送る黒い前掛けをした小男。ややふっくらとした頬は、福助人形のようだった。
「あれが番頭の音松だ。――見覚えはあるか?」
薄暗い建物の陰から目を凝らし、海華は音松を見詰める。しかし、悔しそうに顔を歪めると、そのまま首を傾げてしまった。
「顔まではわからないわ。いきなりぶつかってきたし、暗かったから……。体つきは似てると思うけど……」
「俺も顔までは見ちゃいねぇんだ。火を消すので精一杯だった」
志狼も鋭い目付きで遠くの音松を睨み付ける。
「……少しだけ、カマかけてみない?」
腕組みをしながら呟く海華に、志狼は駄目だと首を振る。
「危ない目には遭わせないと、旦那様とお前の兄さんに約束した」
「危ない目って……まさか、白昼堂々店先で首絞められるとでも思ってる訳?」
「バカ、相手は火付けの下手人かもしれねぇ奴だぞ? カマかけるだけなら俺一人で行く。お前ぇはここにいろ。いいな?」
言うが早いか、海華の反論も聞かず、志狼は道へと歩き出す。
「なによ! 一人でいい所取っちゃって!」
膨れっ面の海華は、それでも志狼の姿を目で追った。 暖簾を潜り、店内へ戻ろうとする音松を、小走りで駆け寄った志狼が呼び止める。客だと思ったのか、音松は腰を低くし愛想良く 志狼と何かを話していた。何を話しているのか海華には聞こえないが、音松の表情からして他愛ない内容なのだろう。だが次の瞬間、音松の表情が一気に凍り付いたのだ。
「どうやら当たりみたいねぇ」
そう海華が一人ごつ。 正直なのか、はたまた小心者なのかわからないが音松は明らかに狼狽えた様子だ。ペコペコと志狼へ頭を下げ、そそくさと暖簾を潜って店へと消えてしまった。音松がいなくなったのを確認した志狼は踵を返し、海華の方を見た。そして『あいつが下手人だ』とでも言うように、大きく首を縦に振ったのだ。
「奴は近いうちに動くな。多分、今日明日だろう」
寺崎屋からの帰り道、志狼が確信めいたように呟いた。海華も、きっとそうだと思っている。
火付けを目撃したかもしれない人間が店まで来たのだ、あの様子では気が気ではないだろう。
「でも、どこに逃げるっていうの? いつまでも江戸中逃げ隠れ出来ないし、余所へ行くにも手形がいるわ。音松一人ならまだしも、お染さんまで一緒じゃね……」
関所破りができる程度胸のある男ではないだろう。足抜け紛いの女郎を連れてなら、尚更だ。
「あの男、見張ってなくて大丈夫かしら?」
「都筑様たちがいる。俺たちが下手な事をすれ迷惑が掛かるだろうが」
ああ、確かにね、と海華は頷いた。ふと天を見上げると、既に日は傾き、群青に染まった空に僅かな橙色が混じっている。顔を空へと向けたまま、ピタリと海華の足が止まった。
「おい、――おいっ! なんでぇ、どうしたんだ?」
隣に並び歩いていた志狼が、怪訝そうな顔を向ける。海華は慌てて彼の方へと顔を戻した。
「あ、ごめんなさい。夕飯どうしようかなって 考えてた」
「ああ、夕飯か……。俺も考えないとな」
精悍な顔には合わない所帯染みた台詞が飛び出す。呆気に取られて目を瞬かせる海華、しかし、志狼が桐野家の家事一切をこなしている事を思い出した。
「お互い、台所預かってると大変よねぇ」
困ったような笑いを見せる海華に、志狼の表情も僅かに緩んでいた。一度番屋に戻った二人。
そこにはもう桐野と朱王の姿は無い。志狼とは番屋で別れ、海華は長屋へと向かった。ただいま!と叫びながら部屋の戸口を開けるが、兄の姿は無い。
「どこに行ったのかしら?」
不思議に思いながらも、海華は夕飯の支度に取り掛かる。朱王が帰ったのは、ちょうど飯が炊けた頃、外はすっかり暗くなっていた。酒屋に行っていたのか、手には酒壺をぶら下げている。
「お帰りなさい。遅かったわね」
「ああ、刀の出来具合を見てきた。ついでと言っちゃなんだが、あの死骸の出所がわかったぞ」
「死骸? ――あのお染さんの身代わりね。どこの誰だったの?」
味噌汁を掻き回していたお玉を持ったまま、海華は兄へとにじり寄る。湯飲み茶碗を掴み出し、ドカリと畳へ胡座をかきながら朱王は早速酒をつぎにかかった。
「ねぇ、誰だったのよ?」
待ちきれないように兄の隣へ座り、早く話せと袖を引っ張って催促する。酒を一口含んだ朱王は、一度唇を舌で湿らせ彼女を見た。
「そう慌てるな、あれは投げ込み寺に捨てられてた遊女だ。それとなく住職に聞いてみたんだが、確かに女郎屋が火事になる三日前、寺に荒菰だけが捨ててあったと。中の死骸はあの番頭が持って行ったんだろう」
「それじゃ、死骸を何処かに隠しておいて、お染さんの着物やら持ち物持たせて焼いたのね? やっぱり、腰から下だけ焼け残ってるなんておかしいと思ったのよね」
外から死骸を燃える店へと投げ込んだ。
「逃げ遅れて死んだなら、頭が外を向いてなきゃおかしいからな」
あの粗末な店に、命懸けで飛び込んで持ち出す物があったとは思えない。人相がわからぬよう、頭から投げ込んだのだろう。海華はパタパタと土間へ降り、釜の蓋を開ける。もうもうと立ち上る湯気と共に、飯の炊けた匂いが部屋に充満した。
「今の話し、桐野様にはしたの?」
「勿論。都筑様たちは、今夜から徹夜で寺崎屋を見張るらしい」
「お二人共大変よね。あたしと志狼さんでカマかけたから、近いうちに動くわよ、きっと」
カマをかけた、その言葉に茶碗を持つ手がピタッと止まる。
「……お前ら、一体何をしてきたんだ?」
「危ない事はしてないわよ。事を進みやすくしたの。まあ、あの番頭と話したのは志狼さんだけだけどね」
カチャカチャと茶碗の鳴る音と、包丁がまな板を叩く音が交じる。朱王はまだ疑いの眼差しで 妹の後ろ姿を見ていた。
「本当に危ない事はしてないな?」
「本当よ。なんなら、今から行って聞いてくればいいわ。……多分、あたしと同じ事してるわよ」
「同じ事? まさかあいつが飯炊きを?」
プッと朱王は小さく噴き出した。やはり志狼が炊事をしている姿は考えられないようだ。
「だから、見に行ってくれば?ついでに料理の仕方でも教わってくればいいのよ」
ケラケラと笑いながら、海華は欠けた丼へ芋の煮付けを盛り、いまだ笑いが止まらない様子の朱王へと差し出した。




