第一話
満天の星空の下、秋の虫が騒ぎ出す頃となった。賑やかながら、どこか寂しさを感じさせる音が世界を満たす。兄妹の住むボロ長屋、中西長屋では、壁や戸口などあちこちにできた隙間から秋の主役たち、涼やかな音の主達が次々と入り込んでくるのだ。今も、作業机に向かって仕事に励む朱王の目の前で、一匹の鈴虫が羽を震わせている。
規則正しく動く手と、彫刻刀。それに合わせて机に散らばる木屑にも臆すること無く、リンリンと涼やかな響きを生み出す小さな虫。チラと目を動かせば、正面に向けられた感情の無い小さな目と視線がかち合う。羽と触角以外全く動かない焦げ茶色の虫と、朱王は暫く睨み合った。
「兄様! また火事よ!」
可憐な音色を掻き消して、突如、戸口を跳ね飛ばしながら海華が部屋に飛び込んで来た。空気を震わす叫びと、戸口の叩き開けられる振動に、さすがの虫も机から跳ね上がり姿を消してしまう。乱暴に下駄を脱ぎ捨てる妹に、朱王は眉を潜めながら振り向いた。
「なんだ騒々しい。『ただいま』ぐらい言ったらどうだ?」
「ああ、ただいま!そんな事より、また火事よ、兄様、半鐘の音聞こえなかった?」
黒目がちの瞳をくるくる回しながら、海華は朱王を見下ろした。
「さぁ、気付かなかったな。どの辺りだ?」
「また吉原よ。門の外。これで三件目よ?」
嫌よねぇ。 そう呟いた海華は、よいしょっと木箱を背中から下ろす。 海華の言う通り、吉原界隈ではこの十日の間立て続けに火事が起きていた。幸い大事にはならなかったものの、先の火事では空き家が一軒全焼しているのだ。いずれも火の気の無い場所から出火したため、 奉行所や火盗では火付けとして調べを行っているのだと聞いた。
「吉原の辺りは前にも大火があったからな……。燃え広がれば目も当てられないぞ」
髪を掻き上げる朱王は、そう言ったまますぐに机へと向き直ってしまう。海華は再び土間に降り立ち、水瓶から水を一すくい、喉を鳴らして飲み干した。
「大火になるのは確かに困るけど、色街近くをお役人にウロつかれちゃ、あたしも困るのよね。客が寄り付かないったらありゃしないわ」
商売上がったりよ、などとぶつくさ文句を口にして、水瓶の蓋を音を立てて閉めた海華は苦虫を噛み潰した面持ちで室内へと上がる。自らの仕事を邪魔する火付け。 何の因果か、二人はこの忌まわしい事件が自分たちと深い関わりを持つことになろうとは、今の二人には知るよしもない姿を消した鈴虫、どこからか羽を擦る音だけが静かに聞こえていた。
さて翌日、海華は珍しく仕事を休んだ。この日の朝、突然朱王が刀を研ぎに出すと言い出したからだ。
暫く使っておらず、手入れも殆どしていないためか、刃に曇りが出たと言う。それを聞いた海華、ついでとばかりに組紐の先 端に付いた槍先も一緒に出す事にしたのだ。いざという時、ナマクラで使い物にならないとなっては命に関わる。昼はどこかで食べて帰るか、との兄の言葉に、海華は踊るような足取りで出掛けて行った。
刀と槍先を刀鍛冶へと預け、飯も終わった二人は街中をぶらつきながら家路に向かう。ちょうど火事騒ぎの続く吉原付近を通り過ぎた頃だった。
「朱王! それに海華殿ではないか!」
道の向こうから声を掛けられ、顔を上げた二人の視界に一人の侍の姿が飛び込んできた。
「これは、桐野様」
それは、一人の若い男を連れた桐野だった。 休暇中なのか、いつもの羽織袴姿ではなく、朱王と同じ柄なしの着流しを身に付けている。やや後ろに控えて立つ若い男も同じ格好だ。 髷を結わず、軽い癖がついた長めの髪を無造作に後ろで束ねている。桐野によく似た浅黒い細面の顔に表情は見られず、ややつり上がり気味で奥二重の両目は兄妹を交互に写し出していた。
「お出掛けですか?」
にっこりと微笑みながら海華が聞くと、桐野は彼女と同じ表情で小さく頷く。
「ああ、盆が近いからな。墓参りの帰りだ。そうだ、紹介せねばなるまい。儂の所で働いておる、志狼だ」
「はじめまして……」
ポツリと呟き、男は頭を下げる。二人も揃って一礼した。 背丈は朱王より頭一つ分低い、しかし海華から見れば充分に大きく感じる。
「志狼、以前に話した人形師の朱王と、妹の海華だ」
「朱王と申します。桐野様にはいつもお世話になっております」
「はじめまして、海華と申します」
ニコニコと物怖じしない笑顔を向ける海華。客商売が長いためか、以前のように人見知りもしなくなった。 男はチラリと海華を見るなり、あ、と口を僅かに開く。
「色街の近くの、御神籤売り……?」
「あら、ご存知でした?」
うふふ、と袖口を口に当て、照れ臭そうに海華が破顔した。
「いつもあの辺りに立ってますから、一度寄ってみて下さい。あたしの御神籤、よく当たるって評判なんですよ」
そう言いつつ再びペコリと頭を下げた妹の背中を、朱王が軽く小突く。
「色街と言えば、昨夜も火付けがあったな。海華殿、下手人と鉢合わせ、という事もあり得る、十分に気を付けるのだぞ?」
海華の顔を見下ろし、桐野が忠告してくる。 また拐われるな、と言いたいのだろうか。
「大丈夫です。これでも前より用心しているんですよ? ねぇ、兄様?」
「用心……な、どうせ夜鷹集めて世間話に花咲かせてるんだろ? それなら、拐うに拐えないな」
フン、と鼻で笑う朱王。そんな彼に、また盗み見してたのねっ!? と海華は柳眉をつり上げて兄へ詰め寄った。ワァワァと騒ぐ二人を、志狼は珍しい物でも見るような目付きで眺めている。
「まぁ、今のところ死人は出ていないだけ幸いだ。海華殿、不振な輩を見たら知らせてくれ。
それではな……」
笑いを必死で堪えながら桐野は去って行く。 二人の横を通りすぎた時、一瞬だが志狼の視線が朱王とかち合った。
「……何だか掴み所の無い男だな……」
去り行く後ろ姿を見遣りながら、朱王は腕を組む。 海華は小さく首を傾げた。
「そうかしら?確かに口数少ないし、無愛想だけど悪い人には見えなかったわよ?」
「桐野様が側に置く人間だからな、悪い奴では無いんだろうが……。どうも堅気の奴とは違う匂いがするんだ」
どちらかと言えば、自分達寄りかもしれない、 そう朱王は感じていた。何かしら重く、暗いモノを背負っているような感覚。すれ違い様かち合った瞳が、そう告げているようだった。
「なによそれ? 兄様考え過ぎなのよ」
帰りましょ、と海華に袖を引かれ、朱王はやっと遠ざかる後ろ姿から目を離したのだった。
吉原で最後の火付けがあってから七日が過ぎた。 今のところ新たな事件は無いが、相変わらず下手人は捕らえられないまま、色街の付近では今も役人が見廻りに歩いている。滅法稼ぎが減った海華は、一応夜の仕事には行くものの、立っているだけ無駄、と言う訳でいつもより早々と家路に着いている。
「さぁて、もう帰るか……」
大きな伸びを一つ、海華は片付けを始める。 客が来ない上、町回りがウロついてどうにも落ち着かないのだ。
「ああ……、ついでに寄って行こうかなぁ」
片付けの最中、海華はある場所の存在をふと思い出した。 ここからさほど遠くない女郎屋。吉原の御門の外だ。 女郎の格も下がり、ボロ長屋といった雰囲気だが、そこの女将と妙に気が合い、前は仕事帰りによく寄っていた。 ある事があって暫くご無沙汰していたのだ。少し位ならいいだろう。 暫し思案した海華が出した結論だ。 木箱を背負い、女郎屋に向かうべく人気の疎らな小道を海華は走って行った。
僅かな異変に気が付いたのは、ある小路を曲がろうとした時だった。 周りに人影は無い。だが、道の向こうから人の言い争う声が飛び、 焦げ臭い匂いが鼻を掠める。何だ? と首を傾げた、その時、バタバタバタッ! と激しい足音と共に何かが思い切り海華へとぶつかった。
「キャ……アッ!」
身構える暇も無く、よろめいた体は側の土塀にぶつかった。相手は髷を結っている所からして男だろう事はわかる。 男は派手に地面へ転がり、ワタワタと起き上がると慌てふためきながら逃げて行った。
「なん、なんなのよ馬鹿野郎っ!」
詫びぐらい言え! と逃げ去る後ろ姿に罵声を浴びせ、海華は体を起こすと、小路を曲がる。瞬間、視界に飛び込んできたのは真っ赤に燃える炎だった。打ち捨てられた長屋。 その横から火柱が上がっている。側に、細身の人影があった。 これまた打ち捨てられていただろう、筵を激しく振るい、燃える炎を必死で消そうとしているのだ。
「大……変っっ!」
先ほどの怒りもどこへやら、真っ青になった海華は一目散に炎へと駆け寄った。 紅蓮の焔に人影が照らされる。浮かび上がる横顔を見た彼女は、思わず大声を放っていた。
「アンタ……桐野様の所の!」
「お前、あの人形廻し!?」
振り向いた者の顔、それは桐野と一緒にいた男、志狼だった。突然現れた海華に驚いたのか、切れ長の瞳が大きく見開かれ、筵を振るう手も止まってしまう。
「そこで何やってんだっ!?」
突如、背後から罵声が飛び、人の駆けてくる足音が近付く。 火付けだっ! と叫ばれ、二人は我に返った。 志狼は筵を放り投げ、いきなり海華の腕を強く引く。
「逃げるぞ!」
「ちょっと待って! ……いい所があるわ!」
引かれた腕を振りほどき、海華は先頭を駆けて闇へ消える。 その後を追い掛けて志狼も闇へと溶けていく。小道を抜けてさらに細い道を走り、海華は一軒の建物の軒先に揺れる暖簾を乱暴に跳ね上げる。
「お重さんっっ! 助けて!」
切羽詰まった叫びと共に海華が飛び込んだのは、彼女が目的としていた女郎屋だった。勘定場に座り、煙管をふかしていた白髪の老女、お重や女郎達の目が一斉に二人へと向けられる。
「海華ちゃんかい? どうしたね?」
「追われてるの、お願い匿って!」
バタバタと転がり込んだ海華と知らない男に一瞬戸惑いながらも、お重と呼ばれた女は二人を奥の部屋へと隠してくれた。ゼェゼェと息をつき、壁に凭れる海華、反対に志狼は呼吸一つ乱していない。 灯りも無い暗い部屋では、お互いの表情はよくわからなかった。
「えぇっとさ……、志狼さんだっけ? なんであんな所にいたのよ?」
「お前には関係無い。」
沈黙も次第に気まずくなって、海華はカラカラの喉から絞り出した声を絞り出すが、返った返事は素っ気ないものだった。それが海華の癇に障ったようで、柳眉が僅かに寄せられる。
「関係ない? 大有りよ。あたしも火付けの下手人みたいに思われたんだからさ。……まさか、 アンタが火、付けたんじゃ……。」
「ふざけんな! 俺が着いた時には、もう燃えていた! 下手人も見たんだ!」
ダン! と畳を打ち付ける響き。 海華の声も思わず大きくなった。
「静かにしてよ! 見つかったらどうするの!」
最もな指摘にグッと志狼の声が詰まる。 やがて一人の女郎が、もう大丈夫だと呼びに来てくれるまで、無言の時間が二人の間に流れた。
「助かったわ、ありがとうね、お重さん」
再び店先へと出た海華は、ぺたりとお重の横に座り込み、小さく頭を下げた。
「なぁに、いいのサ。……あれ、ちょいとアンタ、どこ行く気だい?」
おもむろにお重の鋭い声が飛ぶ。 その先には、土間に立つ志狼の後ろ姿があった。
「追っ手はいねぇんだろ? 帰らせてもらう」
「海華ちゃんはどうするんだね?」
「知った事か。ガキじゃねぇんだ、勝手に帰れ」
そう吐き捨てると志狼は海華の方も見ずにさっさと出て行ってしまう。 あーあ、フラれちゃったね、と、側で眺めていた女郎がケラケラ笑った。
「随分冷たい男じゃないか?……もしかして、追っ掛けて来たの兄さんじゃああるまいね?」
お重が苦笑いしながら煙管をくわえる。
「違うわよ!大体、あの人とはただの顔見知りだし」
「そうかい? あれはいつ頃だったかね? 兄さんが怒鳴り込んで来たのは」
「ウチの妹に何させてるんだー! ってさ、おっかなかったよねぇ」
笑いを交えるお重と女郎の話しに海華は思わず赤面した。 どこで知ったのかはわからないが、海華が女郎屋に出入りしていると聞いた朱王が押し掛けて来た事があったのだ。 それから、海華はここに来られなくなった、という訳である。
「ちょっと、コレ、アンタのかい? 部屋に落ちてたよ」
奥から、一人の女郎が何かを手に戻ってきた。海華の鼻先にぶら下げられたのは、色がくすみ、あちこち擦り切れた守り袋だ。
「あたしのじゃないわ。あいつが落としたのかしら? 見せてみるわね」
そう告げた海華は、その守り袋を袂へと突っ込み、少額の礼金をお重に渡して足早に長屋へと戻って行った。




