第十二話
海華が小石川に運ばれてから数日後、体の痛みがだいぶ和らいだのを見計らって、彼女は長屋に戻れる事となった。長屋の戻ってからも朱王は仕事の合間を見計らい家事などをこなしてくれたので、海華は炊事以外は特にする事が無く、些か退屈な日々を過ごすことになる。
今日も完成した人形を納めに出掛けた朱王は、その足で錦屋へ向かう。あの夜、朱王がお里に投げ付けた二百両もの大金は、朱王が錦屋主人に頭を下げて頼み込み、用意して貰った物だった。 瓦版で海華が無事だと知っていた女将は、朱王から改めて海華の容態を聞くと『よかった』と何度も口にし、涙を流して喜んでくれたのだ。
朱王は他にも伽南の所などへ礼に廻り、長屋へ戻ったのは暗くなってから。遠くからは花火の打ち上がる響きが聞こえる。長屋の入口に着いた朱王は、長屋の奥、井戸端に佇む人影を認めてその場に足を止めた。彼の気配を感じたのか、影は素早くこちらを振り向く。
「修一郎様!」
「おお朱王!こんな遅くにすまぬな」
こちらに歩み寄る修一郎が照れるように笑う。そんな彼に微笑みを返しながら、朱王は軽く頭を下げた。
「いいえ。わざわざお越し頂いて、今日は何か?」
「お前に話しがあるのだ。出来れば、海華がいない所で」
「承知致しました。少しお待ち下さい」
海華に聞かれたくない話とはいったいなんだろう、そう思いながらも朱王は修一郎をその場に残し、部屋の戸口を開ける。部屋の奥で人形の手入れをしていた海華は、朱王の姿を見るなり人形をその場に置き、跳ねるように腰を上げた。
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
「ただいま。海華、すまないが、急用ができたんだ。だから今日は湯屋に一緒には行けない。お前、遅くならないうちに行って来たらどうだ?」
朱王の言葉にパチパチと瞬きをした海華だったが、『わかったわ』と返すとぐに支度を始め、湯道具を小脇に抱えて外へと出る。 そんな彼女は部屋のすぐ前に立った修一郎の姿を見ると、パッと顔を輝かせた。
「修一郎様!」
「海華! 身体の具合はどうだ、痛みは取れたか?」
「はい、お蔭様で。兄様ったら、修一郎様がお見えになっているなら、そう言ってくれたらいいのに」
小さく頬を膨らませ、もう一度室内に戻ろうとした海華を修一郎は慌てて引き留める。茶の支度をするという彼女に、自分の構わなくてもいい、あまり暗くならないうちに湯屋へ行って汗を流せと言い包め……いや、勧めて、彼は何とか海華を送り出す事に成功する。一礼し、僅かに足を引きずりながら海華が歩き出す。修一郎は海華の姿が見えなくなったのを確認し、部屋へと入った。
そこで修一郎は全てを告白する。桐野と話した 事の全てを。
「そうですか。話されたのですね」
話しを聞き終えた朱王は、静か頷いた。二人の前には酒が注がれた茶碗が二つ、どちらも殆ど減ってはいない。
「すまなかった。お前に無断で話してしまって」
頭を下げる修一郎に朱王は小さく頭を振る。短くなった髪がサラサラと揺れた。
「桐野様なら大丈夫でしょう。口の軽いお方ではありませんから」
「母を刺した、相手の名前は言ってはおらぬ」
恐れ入ります。と、呟き、朱王が頭を下げた。そんな彼の前で、修一郎は黙って満たされた酒を見詰めている。
「なぁ朱王。お前、俺を怨んではおらぬ か?」
修一郎の問いに、朱王は不思議そうな面持ちで小首を傾げた。
「なぜ、でしょうか? どうしてそのような……」
「俺が、母上をどうにかできていたら、お前も海華も、もっと違う生き方ができたかもしれん」
言葉を選ぶように途切れ途切れに修一郎が言う。遠くの方から微かに響く打ち上げ花火の重い音が二人の鼓膜を震わせた。
「私も海華も、修一郎様を怨む気は毛頭ございません。一番辛い時、手を差し延べて下さったのは修一郎様です」
朱王がきっぱりと言い切った。彼の言葉に、修一郎は弾かれるように顔を上げる。
「修一郎様が居て下さったから、私達はあの家で生きられたのです。今回も、助けて下さった。感謝こそすれ、怨むなど」
口元に小さな笑みを浮かべて朱王が酒を手にした。 恐る恐る、修一郎も茶碗を取る。
「心底怨んでいるのなら、ここで酒など酌み交そうと思いません」
口元を綻ばせ、朱王は酒を含む。修一郎も、泣き笑いの表情を浮かべると、なみなみ満たされた『からいもの』を腹の中へと一気に流して込んだ。
海華は暫く帰らないだろう。 少しの間、兄弟の語らい。 酒壷が空になるのに、そう時間は掛からないはずだ。
この夏最後の花火が、夜空を彩っていった。
終




