第十一話
体中が暖かい。柔らかな物で包み込まれる感覚に、海華はゆっくりと瞼を開いた。途端に眼前に広がる真っ白な光の世界。瞬きを繰り返し、明るさに目が慣れると古い板張り天井が視界に入った。あの世とは、こんなにも明るく静かなものなのか。 揺蕩う意識の中で海華は思った。辺りを見渡そうとゆっくり身を起こす。途端、体中が軋み、鈍痛に襲われて強く歯を食いしばった。
「死んだ後も、こんなに痛いのね」
そう一人ごち、自分に目を向けると布団が掛けられ、新しい浴衣が着せられている。更に傷には手当が施され、血や泥は奇麗に取り去られていた。
不思議そうに首を傾げていると、近くでパタパタと足音がし、襖が静かに開けられる。
「海華!」
「にぃ、さま?」
朱王は部屋に入るなり、海華を強く抱きしめる。
「海華、よかった。やっと気が付いたんだな?」
「痛っ! 兄様離して、痛いってば!」
顔を歪めた海華は、きつい抱擁から逃れようともがく。我に返った朱王は慌てて彼女を開放した。
「あ……すまん、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。それよりも、ここはどこなの?」
腕を摩りながら不安げに海華が尋ねた。そんな妹をもう一度優しく抱き寄せ、朱王が口を開く。
「小石川だ。お前、酷い傷で。本当に心配したんだぞ」
くたりと朱王の肩に頭をもたれ掛けて、海華は軽く目を閉じる
「お里は?どうなったの?」
「お縄になった。お稲さんは可哀相だが、もう全部終わったんだ」
その台詞に、海華は閉じていた目を静かに開く。 その時、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「失礼しますよ。おや、海華! 気が付きましたか」
反射的に顔を上げると、そこにいたのは伽南と修一 郎、そして一人の侍の姿だった。
「先生! 修一郎様!」
おお! と叫んで修一郎が駆け寄ってきた。
「気が付いたか! 酷い目に遭ったな海華。二日も眠り続けてたのだぞ?」
「眠り薬を飲まされたようですね、時間が経っていたので吐かせられませんでしたが。傷の方も、骨は折れていません。痛みも直にとれますよ」
穏やかな笑みを浮かべて伽南が言った。その間も、海華の視線はチラチラと侍に向けられている。
朱王はそれに気付いていた。
「海華、こちらの方は北町奉行、与力組頭の桐野 数馬様だ。今回の件でお世話になった」
「そうでしたか、桐野様、修一郎様も。ご迷惑をお掛けしました」
朱王から身を離し、頭を下げようとした海華だが、途端に痛みが体を貫き、顔をしかめたままその場に固まってしまった。
「そのままでよいのだ海華殿。お奉行、いや、修一郎と朱王は旧知の間柄。儂は自分の仕事をしたまでだからな」
桐野がカラカラと笑う。つられて小さく微笑む海華。しかし、その表情はすぐに曇った。
「あの、修一郎様。お里はこの後どうなりますでしょう?」
「うむ、妹殺しの上に拐かし、火付けとなれば死罪は免れんだろう」
腕を組み、難しい顔で修一郎が答えた。
「海華殿が気にやむ事は無い。後は奉行所に任せればよいのだ。――しかし、朱王が女を殴り飛ばすとは思わなかった。いや、驚いたぞ」
「兄様、お里を殴ったの?」
呆気に取られたように海華が聞く。
「アレは人間の女じゃないからな。唯の獣だ」
サラリと言って退ける朱王。桐野はニヤリと歯を見せると、何故か修一郎に目配せし、一緒に部屋を出た。伽南も海華の包帯をいくつか取り替え、痛み止めの薬を置いて帰っていく。
「ねぇ兄様。その包帯どうしたの?」
今更ながら、海華は王の額に巻かれた包帯を指差す。 よく見ると、髪も五寸程短くなっているのだ。
「これか? あの廃寺で、柱の破片が当たったんだ」
「髪は?」
「火で焦げた。そのままじゃ見苦しいから、切ったんだ」
短くなった髪を弄びながら朱王が言う。海華の目からボロリと涙が零れ、頬を伝った。
「ごめんなさい。あたしがお稲さんについて行ったのが悪かったの。顔に傷付けちゃって、ごめんなさい――」
しゃくり上げる海華を宥めるように抱き締め、朱王は小刻みに震える背中をゆっくり撫で擦る。
「なに、痕は残らないと先生も仰っていた。万が一残っても、男の顔だ。どうって事無いさ。お前に傷が残らなくて、安心した。……本当に、無事でよかった……」
最後は朱王の声も涙に霞む。暫くの間、部屋からは二人の鳴咽だけが聞こえていた。
「それにしても、お主と朱王はよく似ているな」
小石川療養所の中庭で、桐野が唐突に言った。涙に咽ぶ朱王と海華を、少し二人だけにしてやろうと桐野が気を利かせたのだ。
「なに、似ている? 見た目がか?」
キョトンとした様子で答えた修一郎に、桐野は思わず大きく吹き出す。
「まさか。見た目を言えば月と鼈、歌舞伎役者に鬼瓦ほどうわ。似ておるのは雰囲気だ。それ 、刀捌きに物言い。若い頃のお主と瓜二つだった」
そう静かに言いながら、彼は修一郎の側をゆっくりと通り過ぎる。
「なあ、修一郎よ。あの兄妹、お主の遠縁ではなかろう? 多分……もっと親しい間柄ではないのか?」
彼の言葉を耳にした途端、修一郎の心臓がバクリと大きな音を鳴らす。自分を真っすぐに捉える桐野の視線。様々な台詞が修一郎の頭の中を駆け巡った。立ち尽くす修一郎を見詰めていた桐野が、再びフッと吹き出す。
「嘘が付けぬ男よ。話したくないならそれでよい。唯、聞いてみただけだ」
「――いや、お主にだけは聞いて貰いたい。ただし……」
「他言は無用。安心せい。その位わきまえている」
その言葉に、固く握り締められていた修一郎の手から力が抜けた。額に浮かんだ汗を拭った後、唇が動き出した。
「お主の言う通りだ。あの兄妹は遠縁などではない。俺の……俺の腹違いの兄妹だ」
桐野眉がピクリと動いた。その目の前で、気持ちを落ち着かせるためか、修一郎が大きく息をつく。
「父が吉原遊女に産ませた子だ。その遊女が病で死に、父が二人を引き取った。俺が十八の時だ」
「だから遠縁の者と偽って道場に。だが、朱王が道場に来なくなったのはなぜだ? お主は里に帰ったと言っていたな?」
「そうだ。父が亡くなった後、母は狂ってしまった。二人を屋敷から出さず、食事も満足に与えない。酷い……折檻もしていた」
修一郎の声が尻窄みに小さくなっていく。
「お主、我が母が何者かに殺害されたのは知ってているだろう? ――やったのは、俺だ」
ゴオッ、と音を立て、風が舞い上がる。
「忘れもしない、新月の夜だった。母が夜中、突然発狂して二人を父の刀で追い回したのだ。朱王は、庭で背中を斬りつけられた。側には海華が……、だから俺は……」
再び握り締めた拳がブルブルと震える。桐野は唯、無言のままで修一郎の独白に聴き入っていた。
「母が死に、朱王の傷が癒えた頃に、二人は屋敷を飛び出した。俺の前に現れたのは、それから十年以上後だ」
蒼白の顔からは汗が滴り、唇がわななく。
「のう、修一郎」
今まで無言だった桐野が、やっと口を開く。
「いきさつはよくわかった。だが、お主が母上を殺したなど、信じぬぞ」
「しかし、それが真実だ」
ゆらりと顔を上げ、修一郎は呻く。
「いいや。確か、母上は胸を一突きにされて死んだはずだ。お前は、実の母を真正面から刺し貫けるほど非情な男ではない。こう言いたくはないが、やったのはあの二人のどちらかであろう? ――今更犯人探しをしても仕方が無いがな」
桐野の台詞に修一郎は無言のまま、唇を噛み締めて己の爪先へ視線を落としてしまう。
「下手人は逃げた、という事になっている。ああなったのも、俺が悪い。母の気持ちもわからず、朱王も海華も守れなかった」
そう掠れた声で言って、修一郎はガクリと地面に膝を着く。
「たかだか二十歳の若造に、何が出来るというのだ? お主のせいではなかろう」
修一郎の腕を取り、そのまま引き立たせた桐野は遠い目で空を見上げる。
「母上を殺した下手人は、今だ不明。それでいいではないか。お主らが不幸になる真実など、明らかになる必要は無い」
確かに。この事が明るみに出れば、朱王も海華も親殺しでお縄、修一郎とて無傷ではいられない。
「一つだけ、聞いてもよいか?」
空に目をやったまま、桐野が問う。
「なんだ?」
「事件を隠したのは家の為か、あの二人のためか?」
真正面から投げ掛けられる問いに、修一郎が汗を拭う。
「それは、お家の事も頭にはあった。それよりも、朱王と海華を死なせたくはなかったのだ。 ――軽蔑するか?」
「いや、お家のためだと即答したなら。……殴り飛ばしてやろうと思っていた」
顔を戻し、桐野はニッ、と八重歯を覗かせる。修一郎は思わず目頭を押さえ、『そうか』と掠れた声で呟いていた。




