表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第一章 白狐
3/205

第三話

「おい、ねぇさん、どうだい少しは落ち着いたかい?」


 しわがれた男の声が真横から聞こえる。それと同時に目の前に突き出された真っ白い湯気を立てる湯呑、それを素直に受け取って、海華は隣に立つ男に向かい小さく会釈した。


 狐面の男が人一人を斬り殺した阿鼻叫喚の現場、そこから一番近い自身番に彼女は連れてこられていた。すんでのところで刀の錆と化そうとした彼女を危機一髪助けてくれたのは、夜廻り途中の同心だった。この世のものとは思えぬほど残虐な殺められ方をした骸の横で放心状態の彼女を抱え上げ、ここまで連れてきてくれた年若い同心の姿は、今はもうない。この番屋の岡っ引き、年の頃四十後半か五十路にはなっているのだろうか、海華の目からして初老の、やや細身の男は同心から忠五郎と呼ばれていた。


 彼は茫然自失の海華を番屋に招き入れ、気付けの冷水をくれたばかりか、下っ引きであろう留吉という名の小太りな男に朱王を呼んでくるよう命じてくれたのだ。三畳間ほどしかない畳敷きの部屋で胡坐をかき、自身の湯呑に茶を満たした忠五郎は手元にあった煙草盆からいぶし銀の煙管を取り、吸い口をくわて旨そうに煙草をふかし始める。苦い臭いの立ち込める狭い室内、上がり框に腰掛け、彼の淹れてくれた濃いめの茶を啜る海華は、横になろうものならすぐにでも眠りの世界に旅立てるほどに披露困憊していた。


 彼女の前で凶刃に倒れた男の身元は持ち物からすぐに判明したらしい。戸板に乗せられ蓆を掛けられた男の骸は海華とともにこの自身番へと運ばれた。骸がここの付いてそう間もなく、女房と思われる年増女が真っ青な顔で番屋へ飛び込み、肉の塊となった男の骸を一目見るなり鼓膜が破れそうな絶叫を張り上げ、卒倒したのだ。


 その女も住家である長屋へとすぐさま運ばれ、独り取り残された海華を待っていたのは彼女を運んできた同心や忠五郎らによる執拗なまでの取り調べだった。下手人はどんな風体の男だったのか、顔はどうだ、身体つきはどうだ、何か目立つ傷や黒子ほくろはなかったか等々、次から次へと質問攻めにされた彼女は、もう口を利くのも辛い状態である。


 目の前で人が一人斬り殺されたのだ、下手人の顔形や特徴まで細かく覚えていられる筈がない。はっきり覚えているのは、『男が白い狐の面を付けていた』それだけだ。


 ひとしきりの質問、いや尋問が終わった後、同心らは番屋を後にした。そして海華は『家族を呼んでやる』と一言言われこの場に引き留められたのだ。熱い茶を啜りつつ思うのは兄である朱王の事である。


 きっと今頃、なかなか戻らぬ彼女を心配しているに違いない、いや、もしかすると、いつまでフラフラしているのかと怒っているかもしれない。ここに来た朱王は海華の顔を見て、開口一番なんと言うだろう。

心細さとこれから先の不安に押し潰されんばかりなのか、海華の顔が今にも泣き出しそうに歪む。早く兄の顔が見たい、されど叱られるのも怖い。不安と恐怖の中で張り裂けそうになる心、湯呑を傍らに置いた海華は気持ちを落ち着けるように両手で胸元をギュッと握り閉める。彼女の口から細く長い溜息が一つ漏れた、その時だった。 


「海華ッッ! おい……海華、ッッ!」


 目の前の扉がぶち壊れんばかりに左へと吹き飛び、ダンッッ! と激しい響きが狭い番屋内に木霊す。四角く切り取られた夜の闇、そこに立ち尽くしていたのは、長髪を乱し身体全体を使って激しい呼吸を繰り返す朱王だった。


「にぃ、さま……!?」


「海華……! お前、無事だったのか!?」


 纏う着流しの裾も乱れ、張り裂けんばかりに目を見開いた朱王は、驚愕と唖然を入り混ぜた面持ちの海華へ飛びつくように駆け寄りその両肩に手の平を置き、自身の方へ彼女の身体を引き寄せる。ひどく狼狽した様子の朱王に何も言えないまま、海華は彼の二の腕辺りをギュッと掴んだ。そんな二人の様子を目の当たりにした忠五郎は、目を丸くしたままくわえていた煙管を唇から外す。


「えぇ、っと……にぃさん、アンタがこのねぇさんの?」


「はい、海華の兄で、朱王と申します。妹がお世話になりました」


 ぜぇはぁ息を切らしながらも忠五郎に向かい深々と頭を下げる朱王、彼の両手は微かに震えている。


「いや、とにかく無事でよかった。あの人斬りに遭って命が助かるなんざ奇跡みてぇなもんだぜ?しかし怪我一つねぇときた。おねぇさんは運がいいやね。―― と、それよりにぃさん。いや、朱王さんとだったな、ウチの若けぇモンを知らねぇかい? あんたんとこに使いにやった福助人形が草臥れたような男なんだが……」


 煙管を煙草盆に置いた忠五郎がそう言い掛けた時、朱王の背後、開け放たれたままの戸口から小太りの男がよたつきながら姿を現す。『福助人形を草臥れさせた』そんな忠五郎の例えがピッタリなその男は、火が出んばかりに紅潮した顔からダラダラ汗を滴らせ、覚束ない足取りで番屋の中へと入ってきた。


「おや……親分、たでぇま戻りやした、いや……この兄さん、訳を話した途端に吹っ飛んでいっちまって……」


「なにが吹っ飛んで、だ。留、おめぇの足が遅すぎンだよ。ッと……朱王さんだな。今夜はもう帰っていいぜ。ねぇさんも、家帰ってゆっくり休みな。それと、人斬りの事でなにか思い出したんら、すぐに俺に報せてく。頼んだぜ」


「承知いたしました。では、私達はこれで失礼致します。海華、行くぞ」


 小太りの男をケッ、と鼻で笑った忠五郎は、すぐに朱王と海華へ視線を戻し、そう告げる。『お世話になりました』そう揃って頭を下げ、二人はそそくさと番屋の外へ出た。朱王の右手には、先ほどまで海華が背負っていた木箱が持たれている。


 頭上に広がるのは星屑をも塗り潰す漆の闇、すべてを飲み込んでしまいそうに昏く深く広い夜空の下、寄り添うように歩く二人は終始無言のまま、静まり返った夜道に響くカラコロと乾いた下駄の音だけが鼓膜を揺らす。息が詰まるような沈黙に包まれて長屋についた二人、やっと辿り着いた自室に入り、戸口を閉めつっかえ棒を掛けた朱王は、ふぅ、と掠れた溜息を吐きつつ、意気消沈した様子で上がり框に座り込む海華を見下ろした。


「こんな時間まで一体何をしていたんだ? 早く帰って来いと、言っただろう?」


 頭上から響く静かな声色に怒りは一片も含まれてはいない。恐る恐る顔を上げた海華が目の当たりにした朱王、彼の表情からは怒りは感じられない。先ほど番屋で見せた狼狽ぶりはどこへ行ったのか、怖いくらいに彼は無表情だった。声からも、表情からも一切の感情が読み取れない。それが、より一層海華を不安の淵に突き落とした。


 真綿で絞められたような心境、これが今の海華にピッタリだろう。グスリと小さく鼻を啜った海華は目の奥から生まれる熱の雫を抑え込むように目元を擦る。これなら頭ごなしに怒鳴られ罵倒された方がマシだろう。框に上がり膝を抱え、声を震わせ海華は今まで自分がどこで何をしていたのかをポツリポツリと話し始めた。顔を伏せたまま蚊の鳴くような声で経緯を語る海華の隣にいつの間にか腰を掛けていた朱王は、全ての話を聞き終わった後、ただ無言のまま静かに頷き彼女の頭をやんわり撫でた。


「そうか……悪かった、俺が余計な用事を頼んだばっかりに……。お前にこんな恐ろしい思いさせちまったんだな。すまん。本当に悪かった」

 

  柔らかな髪の毛を掻き混ぜるように頭を撫で、肩に手を回す朱王。彼から伝わる温もりと掛けられる言葉に、海華は固く唇をかみしめた。その瞬間、清水の如く湧き上がる熱い涙は次々こぼれてなめらかな頬を濡らしていく。


 声を殺し、肩を震わせ涙をこぼす彼女の背中をゆっくり撫でていた朱王、次の瞬間、彼の顔が弾かれんばかりの勢いで戸口へと向けられる。海華に向けられていた静かな微笑みは一転、獲物を狙う肉食獣の厳しい眼差しへと変わった。


「そこにいるのは、誰だ?」


 たっぷりと威嚇を含ませた低い声色が飛ぶ。反射的にしがみ付いてきた海華をより強く抱き寄せて、朱王は厳しい目付きでギリギリ戸口を睨む。その視線の先は戸の上部へと向けられていた。ちょうど障子張りとなっている箇所に音もなく大柄な人影が映り込んでいるのだ。『誰だ』そう強い口調で問うも人影は答えず微かに揺れるのみ。痺れを切らしたのだろう朱王は、やおら海華の隣から腰を上げて室内に上がり、壁際に置かれた自身の作業机の上から一本の切り込み小刀を手に取る。右手で強くそれを握り締めたまま、朱王は再び土間へと降りた。


「そこにいるのは誰だ? こんな時分に何の用だ?」


 そう問い掛けながら小刀を構え、朱王は左手でつっかえ棒を外した。彼が戸口へ手を伸ばしたと同時、締め切られたとの向こう側から『俺だ』と聊か遠慮がちな返答が返る。その声を聞いた刹那、朱王は大きく目を見開いて力一杯戸を開け放っていた。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ