第十話
夏疾風が茂る青草を薙ぎ倒し、暗雲が夜空を流れる。街中から離れた中原の廃寺。長く延びた叢に隠れ潜む者達の姿があった。
北町奉行所与力組頭、桐野 数馬とその配下の同心。そして武士の身なりをした朱王。身につけている小袖や袴は、同じような体格をしている桐野から借り受けた物だ。
朱王を見た同心達は侍の姿をした髷も結わない男を前に、そしてほとんど現場に出る事がない与力、桐野が、なぜこの場にいるのかと不思議そうな様子だったが、桐野から、北町奉行、上条 修一郎の遠縁の者だと聞かされた後は、あれこれと尋ねる者はいなくなった。もうすぐ亥の刻。朱王の心臓が早鐘を打ち始める。
廃寺の中からは、蝋燭の灯りと思われる微かな光が漏れるだけ、後は本当に人がいるのかと思うほどに静かだ。
「朱王。―― 朱王!」
背後から小さく名前を呼ばれ、肩を叩かれて朱王はハッと我に返る。揺れる青草の間から廃寺を見詰め、太刀の束を握りしめていた朱王、彼の頭の中を占めるのは海華の事ばかりだった。
「後ろには我らが控えておる、だから安心しろ」
力強い、しかし声量を抑えてそう言った桐野に、朱王は振り向き様小さく頷く。寝待月の浮かぶ藍色の夜空には金砂銀砂をばら蒔いたような星屑が瞬いている。静かな夜、しかし朱王の気持ちは千々に乱れていた。きっと海華はあの中にいる、無事で……無事でいるのだろうか? じっとり汗ばむ手で束を握る朱王は、一度唇を舌で湿らせ、静かにその場から立ち上がった。
一歩、また一歩と夜露に湿る青草を踏み締め廃寺へと近付く彼の姿が、漆黒の影と変わる。こちらの動きに気がついたのだろう、崩れかけた寺門からから、四、五人程の人影が音もなく現れた。
「お里ッッ! そこにいるのはわかっている、海華を……妹を返せッッ!」
清んだ空気を激しく震わす大声を張り上げて、朱王はその場に仁王立ちとなる。と、寺門の前に立つ人影の手元がボンヤリと明るくなり、不敵な笑みを見せるお里の細面が夜を背景に浮かび上がった。
「払うもの払って貰えりゃ、すぐに返して上げますよ! さぁ、二百両だ! 早くこっちに放ってもらおうか!」
朱王は、無言で懐から百両の包みを二つ、お里と彼女の右横に佇む浪人崩れ目掛けて放り投げる。ドン! と重い音を立てて地面に落ちた金を、お里は小走りで駆け寄り急いで拾い上げた。
「海華はどこだ?」
「あの中に居るよ。ちょいと歓迎が過ぎたけど ね」
さもおかしそうにケラケラと甲高い笑い声を上げるお里。朱王がギリッと歯を食いしばり、刀に手を掛ける。
「おっと! おかしな真似すんじゃないよ。中にはまだ荒くれがいるんだ。妹生きて取り戻したいんだ ろ?」
そう一言警告を残し、お里は後ろに下がる。代りに前へ出たのは浪人崩れだ。
「お前に怨みは無いが、少しばかり痛い目に遭ってもらおう」
嫌みな笑みを浮かべ、ゾロリと刀を抜いた浪人崩れは、気合い一発、朱王目掛けて真っ直ぐに突っ込んでくる。 無意識に刀を抜いた朱王は、正面から男の刃を受けた。ガンッ!と白刃が噛み合い、暗い叢に火花が散る。
「てやぁぁぁぁっ!」
空気を唸らせ、男の刀が朱王の首を狙った。唸る刃を紙一重でかわし、間合いを縮めるように前へ踏み出す。
「はあぁぁぁっ!」
刀を真っすぐに突き出すと、切っ先は男の右脇腹を切り裂いた。ぐおっ! と唸り声を上げ、男がよろめく。その一瞬をつき、留めを刺すかの如く朱王の刀が男の腹を目掛けて真一文字に襲い掛かる。しかし、間一髪で男が身をよじり、代わりに薙ぎ払われた草が宙に舞い散った。目にも留まらぬ速さで、次々と白刃を繰り出す朱王に押され、男は防戦一方だ。側で見ていたお里は、慌てたように廃寺へ向かって鼓膜を破らんばかりの絶叫を上げた。
「火だ!火をつけて、早く!」
彼女の叫びとほぼ同時に、廃寺の中がパッと光。、入口からは数人の男達が転り出ててくる。次いで、バチバチと物が燃える音煙同時に漂うの臭いに、朱王の背後、青草の海に身を隠していた侍らが一斉にどよめきだす。
「海華――っ!」
朱王が廃寺に走り寄ろうとする。が、前に男が立ち塞がった。
「よそ見をするなーっ!」
「やかましいッッ! そこを退けーっ!」
絶叫が重なった。振り下ろされた男の刀が朱王の左肩を裂き、 焼けるるような痛みに端正な顔が歪む。冥い笑いを張り付けた男だが、急に口からゴボリと血を噴き出した。肩を切られながらも、男の脇を擦り抜けた朱王。 逆手に握られた刃は、男の首を深々と貫通していた。 喉元から血潮滴る刃を覗かせた男。刀を引き抜くと同時に、ごぼこぼと喉を鳴らしながらドッとばかりに地面へ倒れ込む。それを目の当たりにした荒くれ者共は、手に手に刃物や木の棒を持って朱王に襲い掛かり、流れ出る血もそのままに刀を構え直した、その時だった。
「御用だっっ!」
野太い怒号が響き渡り、後ろの叢から桐野と同心達が次々と姿を現し、朱王と破落戸ども目掛けてなだれ込んできた。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う荒くれ者達。その間も、廃寺は紅蓮の炎を噴き上げて燃え続ける。
「朱王!まだ間に合う!早く妹を……海華をッッ!」
刀を振りかざした桐野の声が飛んだ。廃寺の側には狂ったように笑いながら立ち尽くすお里の姿が、燃え盛る炎に照らされ闇に浮き上がる。
「もう遅いさ!あの小娘も、今頃真っ黒焦げだ よ!皆、燃えてしまえっ!」
刀を放り出し、喚くお里を力一杯突き飛ばした朱王は、燃え盛る廃寺の中へと身を躍らせた。身体一つで炎に挑む朱王に、煙と熱が襲い掛かる。油でも撒いたのか、火の勢いは凄まじく、古びた壁や柱を紅蓮の焔が舐めていた。
産毛がチリチリと焼ける感覚に襲われるが、今の朱王はそんな事に構っている暇は無い。足元に散乱するガラクタを跳ね退け、海華を探す。廃屋の一番奥に倒れる海華の姿を認め、朱王は転がるように駆け寄った。
「み、はなっ!」
口を開けば、熱が喉を吹き抜ける。呼べど揺すれど、ピクリとも動かない海華は、鼻や口から血を流し、肌にはどす黒い痣が無数にある。傍らに転がる古びた木の棒、きっとつっかえ棒にでも使っていたのだろう棒には、あちこちにどす黒い血潮がこびりついていた。隣を見れば、膨れ上がったお稲の顔、腐った魚のような目がこちらへ向けられている。死んでいるのは一目瞭然だった。
その時、頭上でメリメリと何が軋む音。反射的に顔を上げると、火に包まれた木材が落下し、朱王の額を直撃した。
「ぐあ……っ!」
骨を砕かんばかりの衝撃と激痛、一瞬意識が明滅し、横たわる海華の体にパタパタと血が滴る。それでも必死に海華を抱き抱えると、朱王は目の前の板壁にぶち当たった。今来た経路は、既に火の海だったからだ。二度、三度と体当たりを繰り返すうち、派手な音を立てて壁が砕け散る。二人は勢い余って外へ飛び出し、地面に倒れ込んだ。
「朱王ーっ!」
地面に倒れ込む朱王の姿を見て、桐野が側に駆け寄り二人を助け起こす。血が流れる彼の顔を見た桐野は微かに眉をしかめた。
「大丈夫か!?」
「私は平気です。それよりも海華が――」
息を切らせた朱王が、腕の中に横たわる海華をきつく抱きしめる。桐野が海華の顔を覗き込んだ。
「息はある。まだ生きておるぞ」
その言葉に、朱王の全身から力が抜けた。桐野の肩を借り、よろよろと立ち上がった朱王。
焼け落ちる廃屋から離れ、その先で見たものは、同心達に押さえ付けられながらも口汚く喚き散らすお里の姿だった。
朱王は、草の上にそっと海華を降ろし、先ほど投げ出した刀を手に取る。怒りを現わにした血まみれの顔は、桐野にはまるで夜叉の様に写った。抜き身を手に、朱王はお里と対人する。髪を乱したお里は、睨み付けるような視線を彼に投げた。
「なんだい、アタシを斬るのかい? いいよ、 斬ってごらんよ! この腰抜けッ!」
無言のままに刀を収める朱王、彼は突然お里の胸 倉を掴み上げると、その横っ面を思いきり殴り飛ばす。 泣き叫びながら地に転がるお里。同心達は呆気にとられたように見守るだけだ。
「そんな簡単に死なせるか。後はお上に任せる さ。苦しみもがいて、くたばるがいい!」
そう憎々しげに吐き捨てると、朱王はこの場を桐野に頼み、海華を抱いて小石川へと走ったのだった。




