第八話
朱王が佐久間屋の裏玄関で再会を果たした侍、彼の名は桐野 数馬という。北町奉行所与力組頭を務める彼は、修一郎の親友でもあり、かつて朱王は彼と同じ剣術道場で共に汗を流した間柄だ。訳があり、彼に一言の挨拶もできずに江戸を離れた朱王。江戸に戻ってからも彼の元へ顔を出す事はなかった、いや、出せなかったという方が正しいかもしれない。
修一郎は北町奉行と言う重役についた。異母弟である自分の存在は彼にとって不都合以外の何物でもない。なぜ江戸を離れたのか、もとは武家の人間が、なぜに人形師何かをしているのか。あれやこれやと面白おかしく詮索してくる人間も世の中にはいる。決して自慢できるものではない自分の生い立ち、上条家にとって自分や海華の存在は闇に葬り去ってしまいたい、そう思われても仕方のない物である。
修一郎の足枷だけにはなりたくない、迷惑をかけたくない、その一心で朱王は今まで剣術道場の仲間にも、上条家に世話になっていた時に知り合った者らにも一切接触、連絡はしなかった。勿論、人形師・朱王の名前が広く世に知られる頃には修一郎の元にそれとなく探りを入れてくる者もいたようだが、彼は一貫して『別人だ』と言ってくれた。
このまま海華と二人静に暮らしたい、そんな朱王の思いを、彼はきちんとわかってくれていたのだ。
「一度お奉行に……修一郎にお前はどうしているのか尋ねた事がある。『元気だ』と答えたきり、どうも話し難そうだったから、その後は聞かなかったのだが……。ところで、お前今日は佐久間屋に何か用事があったのか?」
腕組みしながら問うてくる桐野に、朱王はここを訪れた理由を思い出す。そしてこれまでに佐久間屋のお里、お稲との間にあったあれこれや、雑木林で対峙した浪人の事など全て話し終わった後、件の簪を桐野に差し出した。
「そうか、これが裏道に。もしこの簪がお稲のものだとしたら、お稲もお前の妹も、その浪人崩れとやらに拐かされた可能性も否定できぬな」
「はい。それに、今回の件にはお里も関わっているかと。留吉さんからお里もいなくなったと聞きました」
「そうだ。もしかしたら、その浪人や破落戸と共にいるやもしれぬな。朱王よ、儂は一度奉行所へ戻る。修一郎にもこの旨は伝えるが、良いな?」
桐野の言葉に、朱王は黙って首を縦に振る。もう行所が出張っているのだ、内緒にしていたところで最後は修一郎の耳に入ってしまうだろう。
「お前は一度長屋に戻れ。何かがあれば使いを出す」
「承知いたしました。 ――― 桐野様お手数をお掛けしてしまって……」
「なに、気に致すな。お前に妹がいるとは初耳だったが、必ず無事に帰ってくる。いや、無事で取り戻す。だから心配するな」
そう一言言いの腰、桐野は裏口の向こうへ消えていく。その姿が見えなくなるまで頭を下げた朱王は、手元に残った海華の下駄を手にしたままその場を後にした……。
不安な気持ちを抱えたまま、中西長屋に戻った朱王。自室に戸口を引いた刹那、土間に小さな白い塊が一つ落ちていることに気が付きその場に立ち止まる。部屋を出る時、こんな物が落ちていた記憶はない。
一体何だろう、そう思いながら塊を拾い上げると、それはくしゃくしゃに丸められた紙、中に石を包んだ紙だった。
恐る恐る包みを開く。そこには乱雑な文字で海華を預かった、生かして返したければ二百両持って町外れの廃寺までくるように、と書かれている。やはり海華は浚われたのだ。胸に抱いていた不安が確認に変わり、投げ文を持つ朱王の手が小刻みに震える。二百両などすぐに用意できる……いや、いくら朱王でも用意できる金額ではない。しかし海華の命には代えらえなかった。
朱王は文を力一杯握り締め、再び部屋から飛び出していく。向かう場所はただ一か所、もう迷っている暇はない。肺が悲鳴を上げるまで息を切らして走り、倒れる寸前で辿り着いた北町奉行所、しかし正面切って入れるはずもなく、正門に立つ門番に文を託し、佐久間屋の件について話がある、桐野様に繋いで欲しいと息も絶え絶えに頼み込む。汗まみれで必死に頭を下げる朱王を怪訝な面持ちで見遣っていた門番だが、朱王の様子にただ事ではないと思ったのだろう、素直に文を受け取り奉行所内へ向かって行った。
残った門番に見張られるで待っていると、思ったより早く桐野は奥から出てきてくれ、『入れ』と一言、朱王はすんなりと奉行所内へ迎え入れられた。
『お奉行がお前を呼んでいる』
そう言って朱王を奉行所の奥へ招いた桐野。奉行所の奥に位置する一室で、彼は待ち構えていた。
「朱王ッ! 朱王、海華が浚われたと、お前、本当なのか!? この文はどこの誰が……」
朱王が室内へ入ったと同時、顔面を蒼白にさせた修一郎が駆け寄ってくる。普段滅多に見ることがない彼の狼狽した様子に、今更ながら朱王は事の重大さを思い知った。
「申し訳、ございません……。私が付いていながら、こんな……」
弱々しい声で頭を下げる朱王の前に立ちはだかる修一郎の顔は蒼白から一気に紅潮し、握り締めた拳に筋が浮かぶ。そんな彼の腕を強く掴んだのは、朱王より先に部屋に入っていた桐野だった。
「少し落ち着け。何も朱王に非がある訳でないだろうに」
「う、む……。そうだ、確かにそうだ。すまぬ朱王。まぁ、そこに座れ」
桐野の言葉を素直に受け止め、若干バツが悪そうな面持ちをした修一郎は自分の前に桐野と朱王を座らせ、自らも上座へ腰を下ろす。
「そこに書いてある通り、海華は中原の廃寺にいるのだな?」
忙しなく視線を朱王と桐野に移し、脇息に肘を置き早口で問うた。
「そなたの妹だけではない、佐久間屋の娘も共に捕らわれているやもしれぬ。ところで、そなたの妹は海華と申すのか」
「うむ、そうだ」
「年は? いくつになる」
「年? 年、か。まてよ、俺と朱王が十違いだ、俺が三十八、朱王が二十八、そうすると海華は……」
はて、と考え込むように眉根を寄せ、右手の指を折って年を数える修一郎へ、朱王は軽く身を乗り出す。
「私と海華は五つ違いです、ですから二十三になるかと」
「おお、そうか。海華ももうそんな年になったか。桐野、このまま嫁にも出せずに死なせるなど海華が可哀想だ、頼む、何とか命だけは助けてやってくれ」
手を合わせんばかりの勢いで自分に向かう修一郎に、桐野は力強い眼差しを投げて『わかっている』と大きく一度頷いた。
「朱王にも言っているが、必ず無事で取り返す。その前に一つ聞きたい事があるのだ。朱王よ、お前、もう剣は捨てたのか?」
唐突な桐野の質問に、朱王はぐっと唇を噛み締め己の膝先に視線を落とす。この場の空気が一瞬静止した。
「刀は、今も手元にございます。しかし、私はもはや武家の人間ではございません。一介の町人です。表立って刀を振るう事など許されはずないかと」
「そうか、お前ほどの腕前の持ち主が、実に惜しい。しかし朱王、今は武家だ町人だと言っている場合ではない」
「ですが桐野様……」
戸惑いがちに答える朱王は助けを求めるような眼差しで修一郎を見る。しかしそ眼差しの意味に気が付いた桐野は、朱王に向かいニヤと意味ありげな笑みを見せた。
「朱王、お前は『修一郎の遠縁』にあたる人間だ。帯刀していても何ら不思議ではない。仮に怪しまれたとしても、そこは儂が上手く言い包めてやる。今は、お前の力を借りたいのだ」
『海華を助けるため』そんな台詞が朱王の胸に木霊する。このまま彼女の救出を奉行所に一任してよいのか、万が一彼女の命が奪われた時、後悔しないだろうか……。桐野の言葉通り、今は町人だの武士だのと言っている場合ではない、兄が妹を助けなくて誰が助けてくれるのだ。
室内に広がる静寂の中で、朱王は膝の上に置いていた手を強く握り締める。そして、ゆっくりと彼が臥せていた顔を上げた時、その瞳には強い決意の色が浮かんでいた。




