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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三章 鬼神小町
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第七話

「あいつ、何をやっているんだ……」


 綺麗に拭き浄められた畳に胡座をかき、戸口へ目をやる朱王の口から小さな呟きがこぼれる。塵を捨てる、そう言って海華が部屋を出ていってから、もうかなりの時が過ぎた。しかし、待てど暮らせど彼女は帰ってこない。大きな物音や叫び声は、今のところ聞こえない。どこぞで道草でも喰っているのだろうか、それにしては遅すぎる気もする。


 二十歳を過ぎた女に心配し過ぎか、とは思ったものの状況が状況だ、一度見に行ってみよう。そう思い立ち腰を上げたと同時、戸口に細身の人影が映り、ガタピシ鈍い音を立てて戸が開いた。


「おい、どこで油を売って……」


「お邪魔しますよ、朱王さんちょっといいかい?」


 てっきり海華だ、そう思って戸口の方を振り向いた朱王、しかし土間に立っていたのは海華ではなく大屋の女房、お石だった。


「あ、あぁ、お石さん。すみません、何か……?」


「これね、裏に置いてあったんだけど、朱王さんちのじゃないかね?」


 骨ばった彼女の手にあったのは、先ほど海華が持って出て行った屑入れだ。


「はい、これはうちのです。裏とは……塵捨て場ですか?」


 お石から屑入れを受け取り、下駄を突っ掛けて土間へ降りた朱王にお石はシワの寄った目元をピクつかせて、戸口の外を指差す。


「そうだよ、塵捨て場に置いてあった。さっきそこを通った時に、海華ちゃんと若い女の人が話してる声が聞こえたんだよねぇ。確か……『お稲さん』って海華ちゃんが呼んでたよ」


「お稲……? それ、で! 海華はその後……もう塵捨て場にはいないんですか!?」


「あたしが見た時には、もう誰もいなかったよ」


 お石がそう言った刹那、朱王は彼女をその場に残したまま部屋から飛び出す。こけつまろびつ長屋の裏、塵捨て場へ走ってみたが、お石が言った通りそこには海華の姿はおろか人っ子一人いなかった。


「あいつ……どこに行ったんだ!?」


 ほんの少しの苛立ちを言葉の端に乗せ、乱暴に髪を掻き回す朱王。そんな彼の後を追ってきたお石は怪訝な顔つきで朱王の後ろ姿を見つつ、胸の前で腕を組む。


「どうしたのさ朱王さん? 海華ちゃん、どっかに行っちまったのかい? 誰か見ていないかねぇ……」


 朱王の様子がいつもと違うと気が付いたのだろう、お石はキョロキョロ周囲を見渡して人の姿を探す。その時、パタパタと地面を走る軽い足音が長屋門付近から聞こえ、『朱王さぁぁん!』と子供のキンキン声が周囲に響いた。


「あれま、芳坊よしぼうどうしたね?」


 建物の陰から顔だけを突出し、お石は『芳坊よしぼう』と呼んだ子供……この長屋に住まう大工の子供を手招きした。


「あ、お石のおばちゃん! 朱王さん知らない?」


「朱王さんならここにいるよ。そんなに慌ててどうしたんだい?」


 小さな体全体を使って大きく息をつく芳坊よしぼうと呼ばれた子供は、頬を紅くして目を煌めかせ手に持っているモノを朱王の目の前に突き出して見せる。


「これ、朱王さんに渡してくれって頼まれた。海華ねぇちゃんのだって」


 はぁはぁ息を切らす彼が持っていたモノ、それは海華が履いていた下駄の片割れだった。


「これは、海華の……! おい芳坊、誰だ? お前にコレを渡したのは誰なんだ!?」


 使い古した海華の下駄、それを握り締めた朱王は芳坊に掴み掛らんばかりの勢いで問い質す。鬼気迫る表情の朱王に、きっと女児ならば泣いてしまっていただろう。しかし、この芳坊はなかなか肝の座った子供とみえて、大きな瞳をクルクルさせつつ長屋門の咆哮を指差した。


「そこの道にいたお侍さん。ボロボロの着物来た人がね、コレを朱王さんの所に持って行ってくれって。お駄賃に飴玉くれたんだ。そこの角から出てきたんだよ」


 ボロボロの着物を着たお侍、それを聞いた朱王は、先日雑木林で対峙した浪人崩れの顔を思い浮かべる。彼はお石と芳坊をその場に残したままその場から駆け出し、芳坊が言っていたすぐそばの角を曲がり裏道へと飛び込んだ。普段、このあたりの住人が近道として利用するだけの小道、すれ違うのもやっとの細い道は、乾いた土に夥しい足跡が刻まれ、下駄や草履で踏み荒らされた跡が生々しく残っている。

 ここで数人が争ったのは間違いないだろう。胸の内で跳ね上がる心臓、噴き出す脂汗が額に滲む。


 落ち着け、そう自分自身に言い聞かせる朱王。と、彼の目は地面の端に何かが転がっているのを捉える。細く差し込む日の光を反射するそれは、繊細な細工が施された銀の簪だった。藤の花でも模しているのだろうか、細かな部品が繋ぎ合わされた簪、きっと高価な物だろうそれには飾りの先端に僅かだが赤黒い何かがくっついている。震える指先でそれを拭い、指先を鼻へ近付けた朱王の眉間に深い皺が刻まれた。


 少量でもはっきり感じる鉄の臭い、鼻をつく生臭さを纏うそれは明らかに血だ。しかし、この簪は海華の持ち物ではない。髪を結わない彼女は簪など使わないのだ。このあたりの住人がこんな高価たかそうな物を持っている可能性は低い。海華が塵捨ごみすて場で話をしていた人物、それは、お稲だ。

 土埃にまみれた簪を握り締めたまま、朱王は踵を返してその場から走り出す。


 息を切らし、周囲の目も気にする事無く人通りの多い道を走りに走り、ぶつかりそうになる人をすんでの所でかわし、押し退けて……。朱王はお稲の元……佐久間屋へ向かう。やっとの事で辿り着いた佐久間屋は、黒羽織の侍や岡っ引きらが母屋を出入りし、何やら物々しい雰囲気に包まれていた。


「あれぇ、朱王さんじゃねえか」


 母屋に通じる裏口の前で荒い息を整えている朱王の背中から、幾分間延びした声がする。滴る汗もそのままに、後ろを振り返った朱王の前には小太りの若い男が一人、黄色の格子模様が入った着物の裾を端折はしょった姿で立っていた。


「あなた……留吉、さん」


「あぁ、そうですそうです。こないだは辻斬りの件で世話になりやした。ところで、どうしたんです? こんな所で息なんざ切らして?」


 不思議そうな眼差しでこちらを見上げてくる小男、留吉は柳町番屋の下っ引きだ。以前、海華が辻斬りに襲われた一件で知り合った。その留吉が、どうしてここにいるのか、苦しい息の下で問い掛けた朱王に、留吉は困ったような笑みを向けて親指で佐久間屋の母屋を指す。


「ここのお嬢がいなくなっちまったんっでさ。『米屋小町』ってぇ有名の器量良しなんですがねぇ、今朝方、姉の方がフラっといなくなって、今度ぁ妹の方も帰ってこねぇらしいんで」


「姉妹が、帰ってこない?」


 微かに声を震わせる朱王に、留吉は首を縦に振る。


「そうなんですよ。まぁ、姉貴の方は色々よくねぇ噂があって、フラリといなくなる事も多かったってぇんで、ここの旦那もそこまで気にしちゃぁいねぇようなんですが、妹の方はね、何にも言わねぇで帰ってこねぇ、なんて事ぁ一度もなかったと。それに妹の方は、もう時期お城に上がる大事な身ってんで、そっちの方が心配らしいやね、親分や町方連中も駆り出された、って訳でさぁ」


 『弱っちゃいますよ』そう一人ごちて頭の後ろを掻く留吉を前に、朱王は色を失った唇を噛み締める。彼が、留吉にお稲のものだろう簪を差し出そうとした、その時だった。


「留吉! おい留吉、何をやっておるか」


「あ、桐野様! 申し訳ございやせん!」


 丸くなっていた背中が、棒を一本突き立てられたようにピンと伸びる。朱王が背にしている佐久間屋の裏木戸、そこへ視線を向けながら、留吉は表情を引き締める。肉付きの良い丸顔、彼の厚い唇が発した『桐野』という名前に、朱王は肩を小さく跳ねさせた。


「油を売っておる暇はないぞ。……そこにいるのは誰だ?」


 背後から迫る足音、その場に凍り付いたように固まった朱王の横から、留吉はひょいと顔を覗かせ引き攣った笑みを見せた。


「へぇ、人形師の朱王さんです」


「朱王……? もしや、中西長屋にいる、あの朱王か?」


 驚きを押し殺した低い声が、すぐ背後より響く。ぎくしゃくした動きでゆっくりと背後を振り返った朱王と、声の持ち主の視線が宙でかち合った。


「お前……やはり、間違いない、お前は……」


「桐野、さま……」


 一瞬、その場の時が静止する。朱王の目の前に立っていたのは、一人の侍。継裃つぎかみしも姿から、同心でない事は明らかである。細身の体躯に日に焼けた精悍な顔つき、若いのか、それとも四十は超えているのかわからぬ容貌の侍は朱王の顔を穴が開くほど凝視しながら、薄い唇を軽く戦慄かせる。見詰め合う二人を妙に思ったのか、留吉は交互に彼らの顔を見遣って不思議そうに小首を傾げた。


「桐野様、朱王さんをご存じで?」


「う、む……。知らぬ顔ではない。それより留吉、向こうに忠五郎が待っておる。早く行かねばまたドヤされるぞ」


「ひぇ、そりゃマズイ! それじゃ朱王さん、あっしゃぁこれで!」


 亀の如くに首を縮めて、留吉は逃げるように母屋へと走る。彼が裏口を抜け、姿が完全に見えなくなるのを確認して、桐野と呼ばれた侍は大きく大きく息を吐いた。


「ご無沙汰、しておりました……」


 そう先に口を開き、朱王は深々とこうべを垂れる。視界に広がる地面、侍の爪先が、すぐ目の前でピタリと止まった。


「いつ、江戸へ?」


「十年以上前に。あれだけお世話になっておきながら、ご挨拶にも伺わず……」


「そんな事はよい。お前にも、顔が出せぬだけの理由わけがあったのだろう。朱王、顔を上げろ」


 凛とした、しかしその中に優しさを含んだ声色に、朱王は引き寄せられるように頭を上げる。再び視線が交わった瞬間、侍はフッと表情を和らげた。


「よく、戻ってきたな。また会えて本当に良かった」


 心の内に染み入るような彼の台詞に、朱王は泣き笑いの表情でもう一度深く頭を下げた。しかし、彼にはここで時を消費する事は許されなかったのだ……。 

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