第六話
「ほんと、イヤになっちゃうわ」
ブツブツ文句を言いながら塵捨て場で屑入れを引っくり返す海華の頭上をお喋り好きの雀が賑やかに飛び去っていく。先ほどまで外遊びに興じていた子供達も各々の部屋へ戻ったのか、今、外にいるのは海華だけのようだ。
てんやわんやの一日、今度は何をされるのだろう。そんな不安が拭えないままの彼女は深い溜め息をついて、天を仰ぐ。
兄に黙って修一郎に伝えるのはどうか、そんな事も考えた、しかし仕事上で起こったイザコザを実兄とはいえ自分たちとは立場が月と鼈ほどに違う修一郎に話すのは気が引ける。そして、朱王の恥を曝す事にも繋がるかもしれない。
ここは一つ、朱王の言う事を聞いてしばし様子を見てみよう。結局はその答えに落ち着いた海華は、空になった屑入れを抱えて踵を返す。
と、視界の隅に微かに写った鮮やかな萌木色と人の気配に、海華はピタリと動きを止めた。
「誰? 誰かいるの?」
警戒心を露に、眉を寄せつつ声を掛けると、長屋の陰から若い女がソロソロと顔を覗かせる。
「あら、あなたお稲さんじゃない?」
「はい……。驚かせて、ごめんなさい」
今にも消え入りそうな声色で顔を伏せ、海華の前に姿を見せたのは、佐久間屋の娘、お稲だ。お里の妹になる彼女がどうしてここにいるのか、不思議そうな面持ちで目を瞬かせる海華は、抱えていた屑入れをその場に置いて小走りに彼女へ駆け寄った。
「こんなところでどうしたんです? 一人で来たんですか?」
大店の娘が御付きの者もなく、こんなボロ長屋を訪れたのだろうか? そんな疑問を抱えつつ軽く会釈した海華に、お稲は深く頭を垂れてはにかむように微笑む。
「突然すみません、あのぅ……朱王様の奥様でいらっしゃいますか?」
頬を真っ赤に染め上げ、背中を丸めて上目遣いでこちらを見てくる彼女が発した台詞に、海華は思わず苦笑いしながら頭を掻く。殺風景な塵捨て場に現れたお嬢様、まさに掃き溜めに鶴の表現がピッタリな状況の中で、海華の頭が軽く横へ振られた。
「やっぱり勘違いなさってたのね。あたし、奥様じゃないんです。朱王の妹の海華って言います」
海華の口から出た台詞に、お稲は一瞬キョトンとした様子を見せたが、見る見るうちに耳までを赤く染め上げ、両手で顔を覆ってしまう。
「いやだ、私ッたらとんだ勘違いを……申し訳ありません」
「いいんです。間違える人、結構多いんですよ。それより今日はどういったご用件で?」
小さく笑って小首を傾げる海華に、お稲は上気した顔をそろりと上げて軽く唇を噛んだ。
「はい、実は……先日、朱王様にお渡ししたモノを、返して頂きたくて」
「あぁ、もしかしてお手紙の事?」
あえて恋文と言わなかったのは、海華なりの気遣いだ。それが薄々わかっているのだろうお稲は、再び無言のまま頷く。
「そう、お稲さんには本当に悪いんですけれど、あの手紙は、もうないんです。ああいったお手紙は兄様が読んだ後に処分しちゃうので……」
ほんの少し言葉を選びながら海華は答える。本当は、朱王は手紙に目など通していないし、処分……竈で灰にしてしまうのは自分なのだ。
「つまり、もうお手元には無いのですね?」
「えぇ、もう二度と読むことが出来ないようになりました」
いくらなんでも燃やしてしまったとは言えない。こんな返事では、お稲が傷付くのではないか、そう案じた海華だが、そんな思いとは裏腹にお稲は『よかった』と一言、大きな溜め息を吐き出して全身から力を抜いたのだ。
「よかったって?」
思いもよらなかった彼女の反応に、今度は海華がキョトンとした様子で目を瞬かせる番だ。
「はい、実は私……ここではなんですから、場所を変えませんか?」
「あ……そうね。わかりました。少しだけなら」
すぐに帰ると朱王には言った、しかし、お稲とちょっとの間立ち話をするくらいは良いだろう。そう思いつつ、屑入れをその場に置いて、海華はお稲について長屋を後にする。長屋門を出てすぐ、本当に目と鼻の先と言った距離にある裏道に入ったお稲は、先日佐久間屋の裏口で見せたと同じ可愛らしくはにかむような微笑みで海華と向かい合った。
「私、今度お城へ上がる事になりました」
桜色をした唇からこぼれた台詞に、海華は『わぁ』と小さく叫んで口を手で覆う。お城へ上がる、きっと大奥に女中奉公へ行く、という意味だろう。
「本当ですか? おめでとうございます!」
「ありがとうございます。いろいろ準備をしていたんですけれど、朱王様にお渡ししたあの手紙だけが、どうなっているのかが心配で。でも、これで安心して……」
突如、お稲の声が途絶える。ふっくらとした頬、愛らしい顔からあっという間に血の気が引いていき、両の目は張り裂けんばかりに見開かれて、海華の背後を凝視している。急変した彼女の態度にいち早く気が付いた海華は、弾かれるように己の後ろを振り向いた。
いつの間にか、背後には厳つい男二人を両脇に従えた若い女が仁王立ちで立っている。鋭い刃の如き視線が海華、そしてお里を襲った。
「姉、様……!」
「お稲、あんた、こんな所にいたんだね?」
ふくよかなお稲とは正反対、ほっそりとした顔、しなやかな体躯を派手な流水模様の着物で包んだ女は棘々しく低い声を出す。殴られた犬よろしく身を縮め、ブルブル震え出す。尋常ではない彼女の怯えように、海華は無意識に身構えつつ、こちらへ一歩、また一歩と迫ってくる男女を睨み付けた。
「アンタ、朱王先生に恋文出したんだって? アタシの男に手ぇだすなんざ、いい度胸してるじゃないか」
腕組みし、こめかみに青筋を浮かべる女は、お稲の言葉通りならば彼女の姉、お里だろう。彼女はお稲を一瞥した後、目の前にいる海華に視線を移した。
「アンタが朱王先生の妹なんだって」
「そう、だけど?」
濃いめの化粧が施された顔、僅かに吊り上った目で頭の天辺から爪先までをジロジロ見られ、海華はあからさまに不快な表情を見せる。と、お里は両側に立つ破落戸風の男らに代わる代わる耳打ちをすると、濃い紅を塗った唇を気味悪い笑みの形に変えた。
「悪いけど、アンタも一緒に来てもらうよ」
彼女の言葉が終わるか終らないかのうち、男の一人が足音も荒く前へ進み出るなり、海華の肩を砕けんばかりの力で掴む。骨を伝わる激痛に息を詰めながらも、全身の力を使って男の手を振りほどいた海華、彼女の後ろでは、もう一人、熊の如き図体の男がお稲に襲い掛かっている。
「何するの!? 離しなさいよッ! 誰か……! 助けて! 助けて兄様――――!」
大きく分厚い手のひらで首を掴まれ、勢いを付けて地面は叩き付けられる海華の喉から、助けを求める絶叫が放たれる。しかし、彼女の抵抗はすべて無駄に終わった。汚れた下駄を履いた男の足が、海華の腹、ちょうど帯の部分を渾身の力で蹴り上げたのだ。
内臓が潰されるほどの激痛が全身を貫き、一瞬で呼吸が止まる。視界は白く染まり、悲鳴も抵抗もできぬまま海華の意識は深淵へと堕ちていく。土埃にまみれて意識を失う寸前、彼女は遥か彼方でお稲が上げただろう細く甲高い悲鳴を聞いていた。




