第五話
『おとなしく言う事を聞け』最後にそう吐き捨てて、浪人崩れはヤクザ者を伴い姿を消す。
早鐘の如く打ち鳴らされる鼓動を感じつ、雑木林から飛び出した朱王がその足で向かったのは、海華の元だった。
今頃であれば、海華はまだ仕事から戻ってきていない。彼女がいそうな場所、自分が思い付く限りの道や辻を駆けずり回り姿を探したが、海華はどこにもいない。いよいよ不安が心の内を占領していく。焦りを露に流れる汗を手で拭いつつ、朱王は最後に思い当たる場所、日本橋に掛かる小さな橋へと向かった。
小川に毛が生えた程度の小川に掛かる木造の橋、その手前にある辻は沢山の人々で賑わっている。普段から人が集まるなど殆ど無い場所、人の壁の向こうからは朗々と唄う女の声が響いてくる。人垣を掻き分け、集団の中心へ顔を突き出したと同時、人形芝居の真っ最中だった海華は一瞬動きを止めて、驚きの眼差しを朱王へ向けた。
無事でいた、そう思った瞬間に膝から力が抜けていく。その場に崩れ落ちてしまいそうになるのを必死で堪えつつ、もう一度海華の方へ目を向ければ、彼女は何食わぬ顔で芝居を続けている。何があろうが途中で芝居を中断させてはならない、傀儡廻しとしての矜持があるのか彼女は結局、最後まで芝居をやり通した。
高らかに唄う声が止み、人形がその動きを止めたと同時に四方から浴びせられる歓声と拍手、そして小銭が飛び交い木箱に投げ込まれる鋭い金属音……。様々な音が飛び交い、ぶつかる小さな混沌の世界で視線を交わしあう兄妹、やがて客達も粗方解散した頃、海華は人形を手にしたまま朱王へ駆け寄った。
「兄様、どうしたの?」
真っ青な顔をして立ち尽くす朱王に、海華は怪訝な面持ちで声を掛ける。バクバク鳴り響く鼓動をなんとか整え、乾いた唇を一度舐めた朱王は汗で顔にくっつく髪を指先で払い退けた。
「よかった……無事だったか」
呻くように呟き、歪んだ笑みを見せる彼に、いよいよ海華は眉をひそめて首を傾げる。
「無事? それってどういう意味? ねぇ、兄様どうしたのよ?」
目をしばたかせ、こちらを見上げてくる海華に、朱王は周りに聞こえぬよう小声で今しがたあった事を話し出す。と、みるみるうちに海華の顔色は蒼白に変わり、その手が朱王の袖をきつく握る。
「やだ……ねぇ兄様、修一郎様にご相談しましょうよ。そんな破落戸までけしかけてくるなんて、なんだか怖いわ」
「いや……それは駄目だ。修一郎様にご迷惑は掛けられない」
「でも兄様……」
オロオロ声を出して握った袖を軽く振る海華の肩に手をかけ、朱王は頑なに修一郎へ報せる事を拒んだ。自分達のせいで、修一郎に迷惑が掛かるなど我慢ならない。もっと言うならば、彼と自分達の『真の関係』を、周囲に勘繰られては不味いのだ。
「お前はしばらく仕事に出るな。俺も、なるべく部屋にいるようにする。大丈夫だ、大丈夫だから、そんな顔するな」
不安に塗り潰された眼差しを向けてくる彼女に微笑み、朱王はその手を握る。その後、二人は寄り添うように長屋へと戻り、湯屋以外に外へ出ることはなかった。まさか長屋にまで乗り込んでくることはないだろう、そうタカを括っていた部分が朱王にはあったかもしれない。 だが、翌日から二人の身に次々と悲惨な出来事が降りかかってきたのだ。
早朝、何かが戸口にぶつかる激しい物音で目を覚ました二人が表へ出てみると、そこには腹を裂かれ、首を切断された犬の死骸が転がっていた。辺りに飛び散る夥しい量の血潮と吐き気をもよおす生臭さに、海華は寝間着のまま土間に腰を抜かし、朱王は息を詰めてその場に立ち尽くす。物音で起きてきた長屋の住人らも、そこに広がる惨状に面くらい、斜向かいに住む大工の女房は隣の長屋まで響き渡りそうな絶叫を上げて失神し、八百屋の子供は『ひきつけ』を起こして白目を剥き、口から蟹のように泡を噴く。
清廉な朝の空気に満たされているはずの中西長屋は、てんやわんやの大騒ぎとなった。
一体これはどうした事だ、どうしてこんな事をされるのか、皆が競い合うように朱王を質問攻めにする。犬の死骸を恐々跨ぎつつ、鼻息も荒く喋り立ててくる住人らを何とか誤魔化しなだめ、土間にへたり込む海華を抱え上げて室内へと戻った朱王は、手早く死骸を片付け、水を撒いて粘り付く血を流す。
辺りに漂う血生臭さは完全には消えないが、それでも無残な死骸が目の前から消えた事で皆の気持ちは幾分落ち着いたのであろう、一人、また一人と部屋へ戻り、やっと朱王は質問攻撃から解放された。
放心状態だった海華もやっと落ち着き、やれ、一安心と思ったのも束の間、二人の受難はまだまだ続く。朝の騒動が収まり掛けた昼過ぎ、今度は二人が揃って買い物に出掛けたほんの僅かな間を狙ったかのように、何者かが室内に侵入し汚物や長屋裏の塵捨て場から拾ってきたものだろう塵が一面にぶちまけられていたのだ。
近くで遊んでいた子供の話によれば、二人が出掛けたすぐ後、『汚い着物を着たおじさん』が二人、部屋へ入っていったという。普段より朱王の部屋には人形を直接依頼しにくる客や人形問屋など、比較的来客が多いものだから見知らぬ人間が部屋に入ってもさほど不自然には感じない。子供らも、朱王を訪ねに来た客だと思い込んでいたようである。
「どうしてこんな目に遭わなきゃならないのよ……」
半泣きになりながら汚物や塵を片付ける海華の弱弱しい言葉に、朱王は返事もできず無言のまま土間で雑巾を絞る。早朝から起こった一連の騒動に、いつもは勝気な海華もすっかりまいってしまっていた。
「ねぇ兄様、やっぱり修一郎様に……」
「海華、くどいぞ。昨日言ったはずだ。修一郎様には絶対に報せない」
「じゃぁ、いつまでこんな事が続くの? 周りにだって迷惑かけて、火でも付けられたらどうするのよ?」
疲労からくる苛立ちか、語気を強めてこちらを睨み付けてくる海華に思わず視線を背けて黙りこくる朱王は、絞った雑巾を彼女へ放り渡す。
それを宙で受け取り、腹立ち紛れにパン!と勢いよく振り開いた海華は畳に染み付いた汚れを力任せにゴシゴシ拭き始めた。
「わかった、お前の言う事は最もだ。明日、もう一度佐久間屋に行ってくる。お里と話しを付けてくるから、そう怒るな」
「兄様一人で大丈夫なの? 何だったら、あたしも一緒に行くわよ。こんな事を頼めるなんて、どんな女なのか面の一つも拝んでやりたいわ」
ささくれ畳を力いっぱい拭きつつ海華は怒りに顔を歪める。こんな彼女を同伴すれば、一悶着あるのは目に見えている。
「いい、俺が一人で話を付ける。お前はここで待っていてくれ」
「そう? じゃぁ、そうするけど。あんまり酷いようだったら、忠五郎親分に相談するわ。……さてと、兄様、あたしこの塵捨ててくるわね」
汚れた雑巾を上がり框にポンと放り、塵を山と詰めた屑籠を抱えて立ち上がった海華に、濡れ手を手拭で拭いていた朱王は慌てて止めた。
「いい、そこに置いておけ。俺が捨ててくる」
「あら、大丈夫よ。塵捨て場なんてすぐ裏なんだから」
『すぐ帰ってくるわ』そう一言言い置いて、彼女は朱王が止めるのも聞かず、屑籠を持って表へと出て行った。




