第四話
長屋に戻った海華は、いつもより早い夕餉の支度に取り掛かる。写生道具を作業机の影に放り出した朱王は、何かを思い出したかのように枕屏風へ向かい、その陰から古びた煙草盆を取り出した。
普段、彼は滅多に煙草を口にしないが、気持ちを落ち着けたい時や手持ち無沙汰な時などに煙管を手にする。真っ黒に煤けた竹に吸い口は燻し銀の煙管へ煙草を詰め、海華から火種を受けた彼の手で煙草に火が付けられた途端、狭い部屋に苦い煙草の匂いが広がった。
軽く目を閉じ、紫煙を胸に吸い込んでフゥッ、と大きく吐き出す。溜め息と疲労が混じり合った紫煙は、戸口から射し込む日の光に照らされて羽衣のように揺らめき、やがて消える。
二口、三口と煙を吐き出した朱王は、土間に立ち前掛けを締めようとしている海華へ視線を向けた。
「おい海華、悪いが使いを頼まれてくれないか?」
「お使い? いいわよ。どこに行けばいい?」
手にした前掛けを上がり框に置いて、海華は小首を傾げる。
「駿河屋さんの所へ行って、先日仰っていた仕事を受けます、と、伝えてくれ」
「先日の仕事……。あぁ、白舟太夫の人形ね。駿河屋さんの若旦那に頼まれていたのでしょう?」
ポン、と手を叩いて海華が言う。朱王は煙管をくわえたまま頷いた。
「そうだ。佐久間屋の仕事が終わってからと思って保留にしていたんだが、こんな事になったからな。明日からでもその……白舟太夫だかの写生に行けると思う。だから、若旦那に妓楼へ一言伝えておいてくれと」
「わかりました。でも、あの若旦那も好きねぇ」
「何でも、その太夫が近いうちに身請けされるらしい。思い出を取っておきたいんだとさ」
「へぇ、なよなよした男だと思ってたけど、中身も女々しいのね」
クスリと笑って出掛ける支度を始めた海華は、懐に財布を捩じ込み、下駄を脱いで室内に上がると朱王の隣に膝をつき、作業机の下から酒瓶を引っ張り出した。
「どうした? 酒はまだ……」
「もう半分しか残ってないわ。きっと今日は、半分ぽっちじゃ足りないでしょう?」
煙草が出た日は酒量も増える、それは長年『妹』として側にいる海華にはわかりきった事だ。不機嫌さを明日に持ち越すより、しこたま飲んで気持ちを切り替えた方がいいだろう。
海華の台詞にバツが悪そうな面持ちを見せた朱王だが、素直に『頼む』と呟き、懐をまさぐって財布を取り出すと、いくらかの金を取り出し彼女へ差し出す。
「何かお前の好きな物買ってこい」
「わぁ、ありがとう! すぐに帰ってお酒の支度するから、ちょっとだけ待っててね」
顔を輝かせて金を受け取り、海華はあっという間に部屋を飛び出していった……。
佐久間屋の仕事を断り、改めて駿河屋から依頼された仕事を受けた朱王は、早速、白舟太夫がいる妓楼、若駒楼へと日参していた。勿論、女を買うためではなく、白舟の写生をするためだ。依頼人である駿河屋の若旦那は、海華が店を訪ね、『兄がお仕事をお受けするそうです』と一言告げた途端、まるで子供のように手を叩いて大喜びし、そのまま若駒楼に使いを出して、朱王が写生をしに店へ行く旨の話を通してくれた。
お陰ですんなり店に入り、太夫とも会えた訳だが、問題は若駒楼にいる他の遊女達だ。
眉目秀麗、女は元より男も惚れる。朱王の『美貌』は吉原界隈でも有名らしく、楼い一歩足を踏み入れるなり主人や女将より早く待ち構えていた遊女らに周囲を囲まれ身動きが取れない。
海千山千の女が犇めいている吉原遊郭、そして妓楼は魑魅魍魎が蔓延る魔境と同じ。あちこちから上がる耳障りな矯声と咽せ返る白粉や香の匂い、そして無遠慮に絡まり伸びる無数の腕。目にも鮮やかな深紅の襦袢と生々しい白い肌、艶かしく紅を塗った唇。
その全てを必死で掻い潜り、顔を引き攣らせ押し退けて、ほうほうの体で白舟が待つ部屋へ逃げ込む……いや、飛び込んだ朱王を当の白舟は笑いを堪え切れない、とでも言いたげな表情で迎え入れた。
「あれが若駒楼の白舟か……。どちらかと言えばボロ舟だったな」
疲労困憊した様子の朱王が若駒楼を後にしたのは、太陽が西の空へ傾き始めた頃。道へ長く伸びる影を追い掛けるよう家路を急ぐ彼の口から漏れた、なんとも失礼な呟きは、誰の耳にも届かず虚しく宙へと消える。
なるだけ妓楼を訪れる回数を減らしたい、その一心で短期集中、下絵を描き上げた朱王。後は若旦那と相談して着物や簪などの小間物をどのようにするか決めねばならない。しばらく忙しい日が続く、そんな事を考えつつ人混みに混じり長屋へ向かう彼の肩が、突然後方から軽く叩かれた。
「ちょっと悪いな兄さん、少し顔を貸してくれや」
耳許で聞こえたざらつく声色。一瞬見構えた朱王が背後を振り返ろうとした途端、脇腹辺りにチクリと鋭い痛みが走る。
「動くんじゃねぇ。そのまま歩け。道の真ん中で腸ぶち撒けたくなけりゃぁ、言う通りにするんだな」
すぐ側で感じる生臭い息と冷たい刺激。着流し越しに感じる痛みを生み出しているのは、紛れもない凶器だろう。道の真ん中に立ち尽くす朱王を邪魔そうに避けて通り過ぎる人達は、彼の異変に全く気が付いていない。
ざらつく声の持ち主は、凶器を人目に触れぬよう、例えば袖の中に隠したり懐辺りに手を突っ込んでいる。
背後を確認できぬままの朱王がそんな事を考えている間にも、声の主は乱暴に身体をぶつけつつ朱王を通りから脇道に追いやり、人気のない雑木林へと追い立てていく。
高鳴る鼓動。
物取りか、はたまた別の目的があるのか……。脇腹の痛みを気にしつつ唇を噛み締め朱王は無言を貫く。
「先生、連れてきやした」
背後にピタリとくっついていた男は、その一言と共に身を離し、代わりに目の前の雑木林がガサガサ音を立ててざわめく。深緑の葉を揺らす木々の間から姿を現したのは、埃で汚れた袴を纏い、無精髭もそのままの浪人崩れが一人と、野卑な顔立ちをし、だらしなく着物を着崩した五人組のヤクザ者だった。
「貴様、佐久間屋に出入りしていた人形師だな?」
酒焼けだろうか、低いダミ声を出す浪人崩れが、口にくわえていた楊枝を吐き出し口を開く。
「そうですが、私になにか?」
努めて落ち着いた口調で返した朱王だが、その目は射抜かんばかりにきつく男達を睨み付けている。たったこれだけの短い会話を交わしている瞬間にも、ヤクザ者達は朱王し周囲をグルリと囲んでいたのだ。
「貴様に言伝てがある。一つは、佐久間屋の仕事をもう一度受けろ。もう一つは、今後一切お稲には関わるな。例え挨拶をされても無視をしろ。言葉を交わすことはならぬ」
痩せて艶のなくなった顔を歪ませ、浪人崩れは三白眼で朱王を睨む。ひどく妙な言伝て。誰から頼まれた、そう聞くまでもないと思ったのか、朱王は一言『断る』と吐き捨てていた。
「一度断った仕事を受けるつもりはない。それに、お稲さんと俺は特別何の関係もない。話すの話さないのは、俺が決める事だ。……つまらん脅しは止めろと、お里に伝えろ」
写生道具を包んだ風呂敷包みをきつく握り締め、きっぱりと言い放つ朱王へ、浪人崩れは目元をピクピク引き攣らせて、こめかみに筋を浮かべる。朱王の斜め前に立つヤクザ者が懐に手を入れ、何かを取り出そうとした刹那、浪人崩れはニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
「そうか、それが貴様の答えか。よくわかった。だが……あまり聞き分けのない事を抜かすと、後で必ず痛い目を見るぞ? 貴様ではなく、妹の方に話を付けに行ってもよいのだ」
『妹』色気の悪い唇から、その言葉が放たれた瞬間、朱王の顔色が変わる。風呂敷を握る手に、くっきりと筋が浮かんだ。
「妹に、なにをした!?」
「まだ何も。ただ、これからするやもしれぬ。貴様の態度一つで、可愛い妹は刀の露に変わるのだ。よく覚えておくがいい」
腰に下げた太刀を一度撫で、浪人崩れが黄ばんだ歯を剥き出しに笑う。背中を冷たいものが流れる、その感触に肌を粟立たせつつ、朱王は生唾を飲み下した。




