第三話
さて、海華が恋文を竈の焚き付けにしてから早くも三日余りが過ぎた。文字に込められた想いの強さか、はたまた上等な紙を使っているせいか、恋文は竈の中で驚くほどよく燃え上がり、その炎で炊いた味噌汁は心無しかいつもより風味よく仕上がったよう彼女には思えた。
あれからも朱王はほぼ毎日佐久間屋に通い、お里の写生を行っているようだが、毎朝浮かない顔で出掛け、ぐったり疲れきって帰ってくる海華は柄にもなく彼の身を案じている。
普段、少しばかり嫌な事や気に食わぬ事があっても、彼はなかなか顔に出さない。それが仕事上の事であれば尚更だ。
よほどお里の色仕掛け……いや、悪ふざけが嫌なのだろう。大嫌いなものを無理矢理口に入れられ、飲み込めと強要されるようなものだ。そんな思いを毎日味わっているのかと思うと、海華の方が仕事に身が入らなくなる。
この日、とうとう彼女は一度辻での人形廻しを中断し、朱王が今朝出掛けた米問屋、佐久間屋へ走った。
江戸でも指折りの商家である佐久間屋は、日本橋に店を構える大店である。店の表は商品を買い求める人々で賑わい、裏では米俵が山と積まれた大八車を引く人足や、俵の数を真剣な眼差しで数える使用人で、これまた賑わいをみせていた。
あまりウロウロしていては店の者に怪しまれる。
そう思った海華は店の裏口、ちょうど母屋の裏口になっているだろう場所を一望できる隣家の木塀の角に身を隠し、佐久間屋の様子を伺う。
ここ数日、強烈だった日差しも和らいできた。
日陰となる塀に凭れかかり、心地よく吹き抜ける風に身を委ねる海華の口からは小さな欠伸が何度も放たれる。店とは裏腹、母屋は静かなものだ。このまま何事もなくすめばいい、あと少しだけ様子を見て、何もないようなら仕事に戻ろう。
目尻に涙を滲ませ大欠伸を一つ、海華が思った、その時である。
「何と言われましても、この依頼はお断りします!」
裏口から飛んだ男の怒声に、口に手を当てていた海華が大きく目を見開く。先程までの静寂はどこに消えたのだろう、裏口からは男の怒声に続き、バタバタと慌ただしい足音や男、そして若い女が何やら叫ぶ金切り声が次々と飛んできた。
「先生ッ! 朱王先生、どうか考え直してくださいませ、娘は先生が……」
「もういい! そんな話はもう聞きたくないッ! 私はこれで失礼させてもらいます!」
怒りに染まった叫びと共に裏口から姿を現したのは、海華が待ち続けていた兄、朱王だ。一体中で何が起こったのだろう、尋常ではない彼の声に店で作業をしていた使用人や人足達も一斉に手を止め、裏口へ、そしてそこから出てきた朱王へ視線を集中させた。
「兄様! ちょっと兄様!」
「海華!? お前、どうしてここに?」
柳眉を逆立てこめかみに青筋を浮かべんばかりだった朱王も、塀の陰から走り出てきた海華の姿を目にした途端、驚きの表情を浮かべてその場で足を止めた。
「兄様が心配で、様子を見に来たのよ。それより一体何の騒ぎなの?」
無遠慮な視線を向けてくる人足達を気にしながら、海華は顔を顰めて小声で朱王に問いかける。と、再び朱王は眉をつり上げ苦虫を噛み潰したような表情を造り上げた。
あの女……お里が、また同じ事をやりやがったんだ」
忌々しげに吐き棄てる朱王に、海華は『やっぱり』と言いたげに顔を歪める。そんな彼女を前に、更に朱王は話を続けた。
「お里の奴、また写生の最中に旦那と女将を部屋から追い出したんだ。それから……何をしたと思う?」
「わからないわよ、何をしたの?」
「俺の前で、いきなり着物を脱ぎ出したんだ」
怒りに声を押し殺し、そう告げた朱王。彼の発した言葉の意味が一瞬よくわからず、海華はポカンと口を半開きにさせる。
「脱いだ、って……着物を? まさか……」
「そのまさかだ。信じられんだろう? いきなり襦袢一枚で、俺に抱き付いてきたんだ。で、間の悪い事に、そこへお稲が茶を運んできた。後はわかるだろう? もう天地を引っ繰り返したような大騒ぎだ」
怒りを通り越して可笑しくなったのか、ハッ、と掠れた笑いを漏らして朱王は髪を掻き上げる。
「旦那と女将が青い顔してすっ飛んできた、まぁ当たり前だな。男癖の悪さは十分わかっていたんだろう、旦那はお里を怒鳴りつけたよ。そうしたら、あの女笑いながらこう言ったんだ」
『最初から人形なんか欲しくなかった、あたしは、先生に会いたくて人形を頼んだんだ』
『人形なんか』その一言が朱王の堪忍袋の緒をブチ切れさせた。いい加減にしろ、そうお里を怒鳴りつけて突き飛ばし、怒りに任せて飛び出してきたのである。
「あ、らぁ……そりゃ兄様が怒るのも無理ないわね」
まさかお里がそんな真似までするとは、驚きと呆れに小さく息を吐き、苦笑いを見せる海華に対し、朱王はまだ怒りが収まらないのか口をへの字に曲げたまま。もうこんな所にはいたくない、そう思ったのだろう朱王がサッと踵を返したその時である。
『朱王先生!!』と半ば悲鳴にも似た女の叫びが聞こえたかと思うと、小柄な人影が裏口から転がり出てきたのだ。
「先生! 朱王先生、お待ちください!」
萌黄色の鮮やかな着物、その裾が乱れるのもお構いなしに道を駆けてきたのは、年の頃十七、八かと思われる若い娘だ。息も絶え絶え、全速力でこちらに駆け込んできた女は、二人の前で立ち止まるなり額が膝頭についてしまうのではと思うほど深く深く頭を下げる。
「姉が、姉が本当に失礼な真似を……どうかお許しくださいッッ!」
裏返った掠れ声で幾度も謝罪の言葉を繰り返す女。唐突な謝罪に呆気に取られながらも、朱王はコホンと小さく咳払いをした。
「どうぞ顔を上げてください。お稲さん、あなたが悪い訳ではないのです」
『お稲さん』朱王の口から出た名前に、海華は目の前にいる女がお里の妹なのだと気付く。必死に平静を保とうとしているのだろう、穏やかな口調で名前を呼ばれた女、お稲は恐る恐るといったように顔を上げた。
小柄な体つきにふっくらと柔らかそうな頬、透き通るように白い肌は滑らかで、つきたての餅のようだ。固く結ばれた唇は薄ら紅が引かれ、くりくりした円らな瞳は小鹿のように愛らしい。『美人』と言うより『可愛い』がぴったりだろうお稲。
彼女を一目みた海華は素直に綺麗な人だと思った。
「本当に、申し訳ありませんでした。父も母も、姉には甘くて……。どうか許してください、姉も、あんな風ですが決して悪い人間ではないのです」
今にも泣き出しそうに瞳を潤ませ、お稲は必死に両親や姉を庇い、ペコペコ頭を下げる。姉がどうしようもない分、妹はまともに育ったようだ。
「もういいのですよ。それより、私はあなたに謝らねば。あんな場面を見せてしまって……さぞや驚かれたでしょう? 申し訳ありません」
写生道具を包んだ風呂敷を下げたまま、軽く頭を下げる朱王に、お稲は首が飛んでしまいそうなほど激しく顔を横に振りしだく。真っ赤に染まった頬、年のわりに仕草は幼く、そこがまた可愛らしい。
はにかんだ様子で両手を帯の辺りで組んでは何度も握り、を繰り返し、身体をもじつかせる彼女は、初めて朱王の隣に立つ海華へ視線を寄越す。その目に、一瞬だが悲しみの色が浮かんだのを、海華は見逃さなかった。
「そんな、朱王様が謝る事なんて何一つございません。全てうちが悪いのです。あぁ、それから……先日お渡ししたモノなんですけれど」
一度言葉を区切り、チラと海華を見遣って彼女は軽く俯いてしまう。
「どうぞ、忘れてくださいませ。あんなモノ、いきなりお渡しするなんてどうかしていました。ご迷惑だったでしょう?」
「え? あ、あぁ……いや、あれは……」
お稲が言う「『あんなモノ』の正体がわかったのだろう、思わずたじろぐ朱王に、彼女はニコリと一度微笑みかける。そしてもう一度深く一礼し、逃げるようにその場を走り去り裏口の中へと消えてしまった。
「あぁ、行っちゃったわ。あの人、凄い勘違いをしてる」
お稲の背中を見送っていた海華がポツリと呟く。
「勘違いって、何を?」
「あたしが兄様の『いい人』だと思われたみたい。あんなモノ、ってこないだの恋文の事でしょう?」
胸の前で腕を組み、海華はニヤと意味深な笑みを浮かべる。そんな彼女を否定も肯定もせず、朱王は軽く唇を開こうとする。しかし、彼の言葉を遮ったのもまた、海華だった。
「あら、いいのよ無理に答えなくたって。もうアレはないんだから、どうだっていいじゃない。さぁ、あたし達も帰りましょう」
ニコニコしながら袖を引いてくる彼女に従い、朱王も渋い顔をしたまま踵を返す。しかし、彼はすぐさま弾かれるように再び佐久間屋の方を振り返った。
「どうしたの?」
「あ……いや、なんともない。気のせいだろうが、誰かに見られている気がしたんだ」
そう言いながらぐるりと背後を見渡すが、そこには仕事に戻った人足や通りすがりの人々がいるだけ。誰もこちらなど気にしてはいない。やっぱり気のせいか、そう思いつつ海華と共に帰路に付いた朱王。しかし、暗い悪意を含ませた眼差しを二人に向けていた人物は、確かにそこに……彼らのすぐ近くにいたのだった。




