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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三章 鬼神小町
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第二話

 『ふくや』で腹を満たした二人は一度長屋へ戻り、一日の汗を流すため湯屋へと出掛けた。今日はいつもより早く帰宅した、ということは日常の全てがいつもより早く済ませられる訳だ。


 外仕事で浴びた埃も肌の上でベタつく汗も、骨の髄まで染み込んだ疲れも何もかもをお湯でさっぱり洗い流した海華は、部屋へ戻るなり使い古した団扇を取り出し、浴衣の前をくつろげてパタパタ扇ぎ出す。


「ねぇ兄様、さっきの話し、蒸し返すみたいで悪いんだけど、一つ聞いてもいい?」


「話し? あぁ、あれか。何が聞きたいんだ?」


 壁に凭れかかり、束ねていた髪をほどく朱王は、湯上がりでほんのり上気した顔を海華へ向けた。


「あの恋文、誰からもらったの?」


「さっきも言っただろ、佐久間屋の娘だ」


 「佐久間屋さんには娘が二人いるのよ。どっちからもらったの?」


 団扇を振るう海華の言葉に、朱王はハテと首を傾げて考え込む。


「お里とは別の女だったな。名前なんか知らん」


「あら酷い。でも、お里さんじゃないなら、妹のお稲さんね。少しふっくらした感じの可愛らしい人じゃなかった?」

 

 そう言う海華に、右に傾げた首を左に傾げて朱王は真剣に考え込む。今、彼はお里という娘の人形を依頼されている最中なのだ。


 「どうだったかよく覚えていないな。ただ、鼻の形は綺麗だった。鼻筋が通ったいい形をしていたよ」


 海華と負けず劣らず白い胸元、そこに浮いた汗を手拭いで拭う朱王の台詞に、思わず団扇を操る手を止めて、海華はハァ、と呆れを含ませた溜め息をつく。さは


 「鼻だけしか見てないの? ずっと前に言われたじゃない、綺麗な物を目に焼き付けろ、ってさ」


 「だから見てきたよ、綺麗な鼻を。他の部分はたいしたことなかった。頭の天辺から爪先まで美しい奴なんて、そうそういないだろう?」


 海華の口から出た台詞、それは昔、朱王を人形師として叩き上げた男の言葉だった。だが、今の朱王には師匠の言葉もなんのその、しゃぁしゃぁと口を返して海華の眉間に刻まれたシワを更に深くさせる。海華には、ほんの少しお稲が不憫に思えた。


「それはそうと、お前、お里について何か聞いていないか? 例えば悪い噂とか」


「噂? そうねぇ、聞いてない訳じゃないわ。でも、どうしたの?」


 意外そうな面持ちで身を乗り出し、自分を見詰める海華から視線を逸らして小さく咳払いをした朱王は、胸元を拭っていた手拭いをポンと机に放り出す。これは何かあった、そう直感的に海華は思ったらしく、興味津々の眼差しを彼へと向けた。


「お里さんの噂、教えて上げてもいいけど、その前に何があったのか教えてちょうだい」


「何が、って別に何も……」


 しどろもどろな返事をする朱王に、これはますます何かがあった、と、海華お思わずニンマリ笑う。


「嘘よ、何もないのに兄様が人の噂を聞きたがる筈ないもの。ねぇ、誰にも言わないから、早く教えてよ」


 団扇をポイと放り出し、四つん這いになってこちらに近寄り、ねぇねぇ、と先を促す海華に、朱王は湿り気の残る髪をグシャグシャに掻き回し、腹の底から深く息を吐き出した。


「わかった、わかった。話してやる。だが、誰にも言うなよ。と、その前に。まずはお前から話してみろ」


「うん、いいわよ。あのね、お里さんって男好きで有名なのよ。気に入った男は片っ端から手ぇ付けるんだって。で、飽きたらゴミみたいに捨てるのよ。その度に、旦那がお金を積んで揉み消すんだって」


 朱王の前に正座し、大きな瞳をクルクルさせながら話す彼女を前に、朱王は何度か首を立てに振り『なるほどな』と小さく呟く。


「男好きか、なるほど。だからか……」


「だから? だからって、どういう事? あたしはちゃんと話したんだから、今度は兄様の番よ」


 そう言いながら、畳に置いていた団扇を再び手にした海華は、じっとり滲む汗を飛ばすように何度かそれを振った。


「あぁ、わかってる。実はな、今、佐久間屋さんでお里さんの人形を頼まれているんだ。それはお前も知っているだろう? それで毎日のように、お里の写生をしに店に行っているんだが……写生ってのは、顔形や身体つきなんかを細かく写すだろう? 人形を造る時の設計図みたいなもんだから、正確に描かなきゃならん」


 そこまで言って、朱王は切れ長の目をスッと細める。


「写生をする時、初めは佐久間屋の旦那や女将がお里と一緒の部屋にいたんだ。それはそれで構わないから、俺は黙っていたさ。そうしたらお里の奴、『気が散るから朱王様と二人にして欲しい』と言った。そこまでなら、まだ許せる。だがな、あの女、両親を追い出した後すぐに、俺にベタベタくっつき出したんだ。」


「くっつき出したって、どんなふうによ?」

先ほどよりもっと大きく身を乗り出して海華が問う。昼間、井戸端で噂話に花を咲かせている時と同じ表情を見せる彼女に苦笑しながら、朱王は胸元で揺れる髪を指先に絡めた。


「いきなり俺の手を取ってな、太腿だの胸だのを触らせるんだ。黙って眺めているより、こっちの方が身体つきがよくわかるでしょう? とか何とか言ってな。俺も最初は驚いた。こんな大店の御嬢さんが、売女ばいたみたいな真似をするのか、ってな。そのうちどんどん腹が立ってきた。それで言ってやったんだ」


 フン、と一度鼻を鳴らす彼を凝視し、海華は生唾を飲み下す。彼女の頬は、湯上りの火照りとはまた違う熱でほんのり赤く染まっていた。


「そう動かれちゃ仕事にならない。黙ってそこに座っていて欲しいと言った。あの女、顔を真っ赤にして俺を睨んだが、その後は大人しく座っていたよ」


「へぇ……あのお里さんが、そんな事を。きっと兄様がその気になってくれなくて悔しかったのよ。きっと、色仕掛けが効かなかった男はいないんじゃないかしら? ほら、あそこは姉妹揃って米屋小町って言われるくらいの器量良しだから。大抵の男はコロリよ」


 兄が間違いを犯さなかった事に安堵する海華だが、同時にお里に同情する気持ちも微かに芽生える。

朱王が極度の女嫌いだと知っていれば、そんな恥をかかなくても済んだのだ。ただ、大抵の女……特に朱王に惚れている女は彼が女が苦手だと知っても頑として信用しない。


 例え他の女がダメでも、自分だけは彼を振り向かせられると、都合の良い思い込みをしてしまう。そして、朱王はそんな女が反吐が出るほど嫌いなのだ。


「そんな事があったの、そりゃ大変だったわねぇ。本当……災難だわ」


 取り繕うようにぎこちない笑みを向けつつ、赤くなった頬をパチパチ叩く海華を、朱王は軽く睨み付ける。


「お前、俺がどさくさ紛れにお里に何かしたと思っただろう?」


「まさか! 兄様の女嫌いはあたしが一番よく知ってるわよ。寄りにも寄って色仕掛けなんて……猫に沢庵たくあんの切れ端をあげるようなもんだわ」


 猫に沢庵、言い得て妙な例えを口にする彼女に思わず苦笑した朱王は、作業机の下から酒瓶を引き出す。間髪入れずに傍に置いてある湯呑を差し出し、海華は彼の手から酒瓶を取った。


「なんだそりゃ。よくわからん例えだな」


「食べずに逃げ出す、って言いたかったのよ。それにしても、米屋小町が聞いて呆れるわ。兄様、このまま仕事続けるの?」


 朱王へ酌をしてやりながら、どこか不服そうな声を出す海華。当の朱王も難しい表情をして嫌々ながら頷く。


 「もう前金も貰っているからな。それに、佐久間屋の旦那も女将も人形を楽しみにしている。無下に断るのも悪いだろう? 明日もあの女の顔を見なきゃならないと思うと……さすがに気が引けるな」


 自嘲気味に笑いながら湯呑を唇に当てる朱王に、海華は同情を込めた微笑みを送る。これ以上の大事にならないだろうか、そんな朱王と海華二人の杞憂は、後日、見事に現実のものとなったのだ。

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