第一話
『いよいよ明日だね』
今日一日、そんな台詞を何人から送られただろう。
苦笑いし、頷いて頭を下げる。
ひたすら同じ動作の繰り返しに、いささた疲れた様子の朱王は壁に凭れて小さな溜め息をつく。
大地を包み込んでいた分厚い雪は燦々と降り注ぐ春の陽光に溶け去り、代わりに訪れた桜花という名の薄紅色の洪水は、瞬く間に江戸市中に広がっていく。
白無垢も、花嫁道具も全て揃えた。
友人知人への挨拶も済ませた。
結納も、滞りなく済ませる事ができた。
明日、海華はこの長屋から旅立つのだ。
志狼と婚約してから長いようで刹那、時は瞬く間に過ぎ去っていった。
鏡台の前に座り、湯屋帰りの濡れた髪に櫛を入れる海華の背中を見詰めながら、朱王の口から再び深い深い溜め息が漏れた。
「やぁねぇ、さっきから溜め息ばっかりじゃないの」
くすくす笑いながら、櫛を小引き出しにしまう海華。
むっつりと顔をしかめる朱王は、無言のまま作業机の下から酒瓶を引っ張り出す。
「おい、湯飲み」
「はいはい、明日っからは自分で用意してね。もうあたしはいないんだから」
表情を変えずに海華が発した一言、それが朱王の心に重石の如くのし掛かる。
そう、明日の今時間、海華はここにいない。
今まではいて当たり前だった妹が、明日を境に自分の前からいなくなる。
冗談のような、夢のような……とにかく現実味がない。
完全に口を閉ざしてしまった兄の隣に座り、湯飲みを手渡した海華は、やおら酒瓶に手を伸ばした。
「ま、今夜くらいは優しくしてあげる。はい、おひとつどうぞ」
にこにこと唇を綻ばせ、酒瓶を傾ける海華。
素直にその酌を受け、一口含んだ酒はいつもより辛く、じわりと熱を持って胃袋の底にしみる。
いつもの酒も、今日は美味いのか不味いのかわからない。
しん、と耳が痛くなる程の静寂だけが支配する室内。
どう話しを切り出したらよいのだろう、ちびちひ酒を舐める朱王が必死に話題を考えていた、その時だった。
『兄様』と、矢鱈しんみりした声色で、海華が呼び掛ける。
『なんだ』そうぶっきらぼうに返す朱王へ、海華は今まで見たことも無いような、ひどく切な気な眼差しでこちらを見詰めた。
「今まで……お世話になりました」
震える声、潤みだす瞳、ぽろりと一粒目尻から涙を転がしながら海華が畳に三つ指をつく。
深々と頭を下げるその姿を前にした刹那、朱王の手から酒が満たされたままの湯飲みが転がり落ちた。
それと同時、胸中に飛び込む小さな身体。
柔らかなそれをしっかり抱き締めた途端、朱王の目尻からも煌めく雫が滑り落ちる。
足元に転がる茶碗、畳へ黒くしみとなる酒の匂いと静かなる啜り泣きが二人を包んだ。
「あり、がと……兄様、今までありがとう……! あたし、幸せだった……兄様の、妹に産まれて、本当に幸せだった……!」
ぽろぽろ涙をこぼし、肩口に顔を擦り付ける海華。
伝えたい思いは山ほどあるのに、胸が詰まって言葉にならない。
ただ涙にくれ、震える腕でその身体を抱く事しかできなかった。
「あたしが、いなくなっても……ちゃんと、ご飯食べてね?」
「── あぁ」
「仕事も、あまり詰め込んじゃあ駄目よ? 身体には、気を付けてね?」
「── あぁ……っ」
しゃくり上げ、くしゃくしゃな泣き顔を作り唇を震わす海華は、ただ朱王を心配する言葉ばかり口にする。
そんな海華の髪に鼻先を埋めて、上下する薄い背中を撫でて……声をこらえる朱王の止まらぬ涙が海華の着物を濡らす。
「俺の事なんざ、もう気にするな……、それより、桐野様や志狼の言い付けをしっかり聞くんだ。いいな、あの二人に、恥をかかせるような真似だけはするな……」
涙に咽び、声を詰まらせ言葉を紡ぐ朱王。
まだだ、まだ話さなければならない事がある。
あふれる涙を乱暴に拭い、海華の顔をのぞきこめば、自分と同じく真っ赤に充血した瞳が、真っ直ぐにこちらを見詰めてきた。
「少しくらい辛くても、辛抱するんだ。ちょっとやそっとの事で絶対に戻ってくるな。── どうしても……どうしても、辛くて苦しくて、我慢が出来なくなった時は……俺は、ずっとここにいる。だから……」
『その時は、いつでも帰ってこい』
これからの自分に出来るのは、何かあった時の拠り所になる事くらい。
たとえ離れても、ずっとお前を見守っている。
そんな意味も含ませて、やっと全て伝える事ができた。
こうして二人水入らずで過ごせる夜も最後、それがわかっているからこそ、互いの抱擁を解こうとしない。
「身体に気を付けてな。志狼なら、きっとお前を大切にしてくれる。…… 幸せになれよ、っ!」
骨が折れる程の抱き締めて、感極まった声で呟く朱王の言葉に、海華が泣きじゃくりつつ何度も何度も頷く。
啜り泣きと嗚咽が満ちるこの部屋で、最後の夜は深々と更けて行った……。
翌朝、抜けんばかりの青空が人々の頭上に広がった。
穏やかに降り注ぐ春の陽光、暖かな黄金の薄絹に包まれ、前日までは固くその身を閉ざしていた桜の蕾が、次々と薄紅色の可憐な花弁を咲き踊らせる。
以前は、この長屋で白無垢に着替えた。
だが、今日は直接桐野の屋敷に迎い、そこで着替える手筈となっており、朱王と海華は早々に中西長屋を発たねばならないのだ。
身支度を整え、部屋の戸口を開いた途端、二人は思わず息を詰め、数歩後退りしてしまう。
目の前には二人が出てくるのを待ち構えていたかのように、黒山の人だかりが出来ていたのだ。
『海華ちゃんおめでとう』そう人垣の中から女の声がした、それを合図とするかのように、あちらこちらから『おめでとう』の声や歓声、拍手が次々と沸き起こる。
目の前で爆発した人々の笑顔と歓声。
唖然呆然と佇む二人の横へ、小走りに駆け寄ってきたのは、大家の女房、お石だった。
「いやいや、晴れて良かったねぇ。どうだい、海華ちゃんの話しが本当だって話したら、みんなこんなに集まってくれたよ」
心底嬉しそうに欠けた前歯を覗かせて、お石は笑う。
「お、石さん。ここにいるの、この長屋の人達だけじゃないですよ、ね?」
あまりの人の多さに戸惑い、朱王はお石に問い掛ける。
するとお石は、当たり前だと言わんばかりにコクリと頷く。
「そうだよ。隣の権吉長屋と、その隣のむじな長屋にも声かけたのさ。海華ちゃんを知ってる人も多いからね。これで奥方様とのお約束は果たせたよ」
満足げに笑うお石の言葉に人波を見渡す海華。
確かに、見知った顔がちらほらいる。
と、お石はやおら海華の正面に廻ると、その手をしっかりと両手で包み込んだ。
「朱王さんのことは、心配しなくていいからね。海華ちゃん、あんた今まで苦労してきたんだ。だから、今度は幸せにならなきゃ駄目だよ? それが、朱王さんへの恩返しなんだからね?」
慈愛に満ちた母親の眼差しで、お石が語りかける。
胸に込み上げてくる熱い熱の塊。人垣のすぐ前で、大工の女房であるお君に支えられる長屋の長老、おさきが、継ぎ接ぎの前掛けを顔に当て、わぁっ! と嗄れた鳴き声を張り上げた刹那、海華の涙腺は崩壊した。
「ありがと、ございます、っ!ありがと……」
その後は言葉が続かない。
わぁぁぁん! と、人目も憚らず号泣し始める海華の涙は、あっという間に群衆に伝染する。
拍手と歓声の後に響くのは数え切れない程の嗚咽と啜り泣き。
男も女も、老いも若きも関係はない。
寂しくて泣くのか、嬉しいから泣くのか……。
そんな事は、最早どうでもよいのだ。
『海華ちゃんがいなきゃ、ここはメッキリ静かになるよ』お石の涙声が、桃色の花弁が散らばる空の下に小さく響く。
柔らかな春風が辺りを吹き抜け涙に頬を濡らす者らの髪を緩やかに撫でていった。
長年共に暮らした『家族』達との涙の別れ。
兄に背中を押され、後ろ髪を引かれる思いで中西長屋を発つ海華を集まった者達は、二人の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
八丁堀へ向かう間も涙は止めどなく流れて着物の袖を濡らす。
あまり泣くと目が腫れる。
そう声を掛け、海華をなだめる朱王自身も、今までになく揺れる気持ちを抑えるので精一杯なのだ。
いつもよりゆっくりした足取りで辿り着いた八丁堀、桐野の屋敷。
来客を迎える重厚な門。
その前に佇む、黒羽織を纏う礼装姿の二人の侍。
その姿に気付いた朱王は、思わず口許を綻ばす。
「修一郎様、桐野様!」
「おぉ朱王! 海華もやっと来たか、待っておったぞ!」
喜色満面、子供のように駆け寄ってくる修一郎に、二人は深く一礼する。
どうやら、桐野共々二人の到着を待ちきれず、表で待ちわびていたようだ。
目を真っ赤に充血させ、涙の跡も真新しい海華の顔を見るなり、二人は一瞬驚いた表情を見せたが朱王から事の次第を聞き終わるとお互いに顔を見合せ納得したように頷きあった。
「そうかそうか、まぁ、長年暮らした長屋だからな、皆との別れも辛かろう。だが海華、今生の別れではないのだ」
くすくすとしゃくりあげる海華の肩を叩き、慰める桐野の横で修一郎はやおら海華の顔を覗き込むように身を屈める。
「桐野の言う通りだ。それに、今日はせっかくの晴れの日、泣き顔では台無しだ」
大きく、厚い手のひらが、ごしごしと赤くなった頬を撫でる。
温かく、力強いその感触。
海華の顔に、ふにゃりと柔らかな笑みが浮かぶ。
「よし、もう大丈夫だな。海華志狼はお前が来るのを首を長くして待っているぞ」
白い歯を見せる桐野に、ぽん、と背中を軽く叩かれ、小さく頷いた海華は、修一郎に連れられ門をくぐる。
そんな二人の後ろ姿を見送る朱王と桐野。
と、不意に朱王は桐野へ向かい、深々と頭を下げた。
「万事あの調子です。ふつつかな妹ですが、どうぞ、よろしくお願い致します」
「いや、それはこちらから頼まねばならぬ事。志狼に良い嫁をもらえた、本当に感謝する。朱王、海華は志狼と儂が責任を持って守る」
力強く、そう言ってくれた桐野へ朱王はゆっくりと顔を上げる。
交わった視線。
柔和な微笑みを交わす朱王と桐野の耳に、『二人共なにをしているのだ!』と屋敷の中から飛んだ修一郎の叫びが届く。
「なんだあいつは、忙しない。── だが、あまり皆を待たせる訳にもいかぬかな?」
「はい。では、まいりましょうか」
屋敷から続く野太い叫びに顔を見合せ苦笑いしながら、二人は連れ立って門をくぐり、屋敷の中へと消えていった。




